式場壮吉
テンプレート:複数の問題 テンプレート:Infobox sportsperson 式場 壮吉(しきば そうきち、1939年(昭和14年)2月9日 - )は、日本の実業家・自動車評論家、元レーシングドライバーである。
経歴
千葉県市川市の資産家の家に生まれ、精神病理学者の式場隆三郎の甥にあたる。成城大学文芸学部在学中より輸入車をドライブし、同郷の後輩であった浮谷東次郎や、生沢徹、本田博俊、杉江博愛(後の徳大寺有恒)、福澤幸雄などの日本のモータースポーツ草創期を支えた名ドライバー達と親交があった。また、アマチュアのジャズマンとして社交場に出入りし、ミッキー・カーチスやムッシュかまやつ、堺正章などの芸能人とも親しかった。
1961年3月に成城大学文芸学部を卒業後、出版社に勤務。その傍ら、1963年の第1回日本グランプリ(鈴鹿)にむけてトヨタとワークスドライバー契約を結ぶ。日本GPではC-Vクラスでコロナをドライブして優勝した。
第2回日本グランプリではT-VIクラスでクラウンをドライブし、性能に勝るプリンス・グロリア勢を相手に3位を獲得した。また、GT-IIクラスでは個人エントリーし、ポルシェ・904をドライブして優勝した。このレースでは、新型ポルシェの入手経緯や予選クラッシュ後の修復作業、決勝で生沢のスカイラインGTに先行された1周(スカイライン伝説の誕生)など、著名なエピソードを残すことになった(詳細は当該記事を参照)。
その後、浮谷や生沢らと欧州を訪問し、イギリスのジム・ラッセル・レーシングスクールに短期入学。1965年の日本GPにむけてロータス・エラン (26R) を入手したが、大会が中止となり、そのままレーサーを引退した。なお、代わって開催された全日本自動車クラブ選手権(船橋CCC)では、浮谷がエランをドライブして優勝した。
その後は、杉江らとともに自動車関連アクセサリーを製造・販売するレーシングメイト (RACING MATE) を経営し、浮谷や生沢のレース活動を裏方からサポートした。彼らのトレードマークである四葉のクローバー[1]や、ヴァンヂャケット (VAN) とのダブルネームは、当時の若者の憧れのファッションアイテムとなった。また、自動車雑誌『カーマガジン』(ベースボール・マガジン社刊[2])の責任編集を行なった。しかし、1960年代末にレーシングメイトは倒産、カーマガジンも休刊となり、その後は父のあとを継いで、精神科病院・式場病院の理事長を務める。
レース引退後も自動車愛好家であり、フェラーリやベントレーを日常の足として愛用し、1990年代にはブガッティのアドバイザーを務めた。『NAVI』や『ENGINE』などの自動車雑誌に度々登場し、ミッレミリアなどのクラシックカーレースに時々参加している。
家族
精神病理学者の式場隆三郎の甥。1978年に中華民国の国民的歌手である欧陽菲菲と再婚。義妹の欧陽ベベ (BeiBei) は渋谷区代官山で高級中華料理店を営む実業家。
愛車
脚注
参考文献
- 井出耕也『むかし、狼が走った』
- NAVI
- AUTO SPORTS YEAR BOOK(三栄書房)
- AUTO SPORTS(三栄書房)
- オートテクニック(山海堂)