小野藩
小野藩(おのはん)は、播磨国加東郡を領した藩。藩庁は王子村敷地(現在の兵庫県小野市)の小野陣屋。
藩史
前史
テンプレート:Main 寛永13年(1636年)、伊勢国神戸藩主一柳直盛に、伊予国西条藩6万8000石が与えられた。直盛の次男直家は、このとき播磨国加東郡内で5000石を分与された。
しかし同年、直盛は任地に赴く途中大坂で没し、伊予国におけるその遺領は男子3人によって分割されることになった。西条藩3万石は長男直重が継ぎ、三男は直頼は伊予国小松藩1万石を分与されている。直家には伊予国宇摩郡・周敷郡内の2万3000石を分与され、既に播磨に領していた5000石とあわせて都合2万8000石の領主となった。直家は当初伊予国宇摩郡河上に居所(川之江陣屋)を構えて川之江藩を立藩、播磨国加東郡の領地を分領とし、王子村敷地に代官所を設置して管轄した。
寛永14年(1637年)、直家は播磨国加東郡の代官所を陣屋とし、藩主以下家臣が川之江から移住した。ここに実質的に小野藩の成立をみた。
小野藩1万石
寛永19年(1642年)、直家は嗣子無く没し、丹波国園部藩主小出吉親の2男直次を直重の女婿として迎え嗣子として幕府に願い出た。しかし当時は末期養子が認められなかったため、伊予国にあった所領は没収されて天領となり、遺領相続という形で直次に播磨国加東郡内1万石を与えられた。
3代末礼は駿河加番を延宝6年(1678年)・元禄3年(1690年)の2度務め、元禄5年(1692年)には大番頭となり、元禄16年(1703年)には5代将軍徳川綱吉の御側衆となった。
5代末栄の代に藩財政が悪化し、質素倹約を主とした財政再建を行い藩中興の祖となった。
9代末延の天保4年(1833年)には大規模な百姓一揆である「加古川筋一揆」が起こった。天保7年(1836年)には大国隆正を招聘し藩校「帰正館」を開校した。末延の嫡子で10代藩主となった末彦は生涯独身を通したため、丹波国綾部藩主九鬼隆都の5男を養子に迎え11代藩主末徳とした。末徳のもとで幕末を迎え、最後の藩主となる。
歴代藩主のうち、3~6、8・9代の各藩主は駿河加番となっている(7代末昭は早世のため在番なし)。
幕末から明治へ
明治4年(1871年)、廃藩置県により小野県となった。小野県は同年中に廃され、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入された。
明治17年(1884年)、華族令により最後の藩主末徳は子爵に叙せられた。なお、末徳の3女・満喜子は建築家で近江兄弟社を設立したウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻となっている。
歴代藩主
- 一柳(ひとつやなぎ)家
外様 2万8千石→1万石 (1636年~1871年)
- 直家(なおいえ)〔従五位下、美作守〕
- 直次(なおつぐ)〔従五位下、土佐守〕遺領相続により1万石
- 末礼(すえひろ)〔従五位下、土佐守 御側衆〕
- 末昆(すえひで)〔従五位下、土佐守 駿河加番〕
- 末栄(すえなが)〔従五位下、土佐守 駿河加番〕
- 末英(すえふさ)〔従五位下、土佐守 駿河加番〕
- 末昭(すえあきら)〔従五位下、対馬守〕
- 末周(すえちか)〔従五位下、土佐守 駿河加番〕
- 末延(すえのぶ)〔従五位下、土佐守 駿河加番〕
- 末彦(すえよし)〔従五位下、土佐守〕
- 末徳(すえのり)〔従五位下、対馬守〕
幕末の領地
参考文献
- 『藩史総覧』 児玉幸多・北島正元/監修 新人物往来社、1977年
- 『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1977年
- 『大名の日本地図』 中嶋繁雄/著 文春新書 2003年
関連項目
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