国鉄キハ45系気動車

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テンプレート:Mboxテンプレート:脚注の不足 テンプレート:鉄道車両 キハ45系気動車(キハ45けいきどうしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が1966年昭和41年)から製造した一般形気動車近郊形気動車に分類している資料もある。カテゴリについての詳細は後述)。片運転台車の淘汰が進んだ時期にはキハ23系とも呼ばれた。

これは、国鉄車両称号規程に規定された制式の系列呼称ではないが、同一の設計思想により設計・製造された気動車の形式群を便宜的に総称したものである。

概要

1960年代中期、国鉄の普通列車用気動車は、地方線区向けにキハ20系が、大都市近郊線向けはキハ35系がそれぞれ大量に増備されていた。しかし、キハ20系は扉が片開き式で850mmと狭いため、ラッシュ時の客扱いに難があり、キハ35系は3扉オールロングシートという通勤輸送に特化した構造であるため、通勤時間帯以外の使用時に設備が乗客の要求する水準を満たせないという難があった。

1966年昭和41年)から1969年(昭和44年)までに5形式が製造されたが、電化の進捗に加えて戦前製機械式気動車の老朽化に伴う取替えが一巡したことなどで、この時期には気動車の所要数をほぼ充足していたこともあり、グループ全体で179両の製造にとどまった。

なお、本グループの落成に先立ち、客車改造気動車のキハ40形(初代)・キハ45形(初代)がそれぞれキハ08形・キハ09形(2代)に改称されている。

カテゴリについて

本形式は大都市近郊向けの通勤形気動車テンプレート:Refnestと地方線区向けの一般形気動車テンプレート:Refnestの特徴を併せ持つ気動車として、近郊形電車の設計手法を取り入れた形で設計された。このことから近郊形気動車と称した資料もあった[1][2][3]。一方で近郊形の区分は元来、国鉄の新性能電車で採用された区分であり、気動車や客車については明確に分類されるものではないため(「近郊形車両#気動車に対する表現」も参照)、カテゴリとしては一般形であった[4]。一般形にカテゴライズされた経緯については以下の通りである。

  • 他の一般形気動車と混結することも前提であったテンプレート:Refnest
  • 当形式は中距離運用の他に通勤輸送との兼ね合いがあった[1]。北海道向けを除いて両開き扉を採用したため、通勤輸送も視野に入れて設計されている。

近郊形と一般形の違いは近郊形が「客室に出入口を有し、横型(ロングシート)及び縦型腰掛(クロスシート)を備え、都市近郊の運用に適した性能を有する車両形式のもの」と定義しているのに対し、一般形は「客室に出入口を有し、横型(ロングシート)及び縦型腰掛(クロスシート)を備え、通勤輸送に適した性能を有する車両形式のもの」と定義しており、基本的にセミクロスシートであることは同一であるが、近郊形が都市近郊の運用を前提としており、一般形が通勤輸送を前提としている明確が違いがあった[5]。普通列車用の気動車については輸送量が小さい非電化線区で使用することが多く、黎明期より通勤輸送との兼ね合いからそのほとんどがセミクロスシートで製造されており、慣例的に一般形の用法を使用している(「一般形車両 (鉄道)」も参照)。

他車への影響

国鉄が初めて本系列で採用した両開き2扉セミクロスシート車両は他車に与えた影響は大きく、その後製作されたキハ66・67形キハ47形気動車をはじめ、近郊形電車である417系713系413系・717系電車にも受け継がれ、私鉄の車両においても富士急行5000形電車に影響を与えた。北海道向けのキハ46形も711系電車やキハ40・48形気動車、51系客車にも受け継がれた。

運用

国鉄分割民営化時には、東海旅客鉄道(JR東海)を除く旅客鉄道各社に176両が承継されたが、老朽化の進行に伴い、運用上制約が多い片運転台車から廃車が開始された。一方、両運転台車は更新工事やワンマン化を受けた車両もあったが、そちらについても新系列気動車の増備につれて廃車が進み、西日本旅客鉄道(JR西日本)で最後まで営業運転していた1両(キハ23 520)も2003年平成15年)に運用を離脱、踏切事故訓練で使用後廃車解体され、保留車として下関総合車両所本所にて保管されていた1両(キハ23 1)も、2009年(平成21年)6月10日付で廃車、その後解体され[6]、在籍車が消滅した。

形式一覧

キハ45系 新造時形式・番台別特徴一覧
運転台 客扉 形式 番台区分 仕向け地 デッキ 機関 両数 製造年 備考
両開き キハ23 0 暖地 1台 33 41年 - 44年
500 寒地 21 42年 - 44年
片開き キハ24 0 酷寒地 10 42年
両開き キハ45形 0 暖地 74 41年 - 43年
500 寒地 22 42年 - 44年
600 暖地 2 44年 簡易郵便荷物車
片開き キハ46 0 酷寒地 6 41年
両開き キハ53 0 暖地 2台 9 42年・44年
100 2 43年 長大編成対応
  • 酷寒地:北海道、寒地:東北・中部地区

構造

車体

従来の多くの気動車と同じく片側2扉車体であるが、客扱いの利便性を図るため、本州以南向けは幅1300mmの両開き扉を車体中央部に寄せたレイアウトとなった。このようなレイアウトは私鉄では小田急2320形電車阪急2800系電車テンプレート:Refnest近鉄820系電車などで採用例があるが、国鉄の車両、かつ気動車では初の採用事例である。北海道向けは冬季の防寒の理由から、従来どおり片開き扉を車端部に配置し、デッキを設けているが、扉の幅を1000mmへと拡大している。

車体幅は従来形式と同じく2800mm級で、急行形気動車のような幅広車体は採用されなかった。車体長さについては、本系列では1エンジン車と2エンジン車の車体長さを統一する方針となったため、すべての形式が2エンジン車に要求される最大長21.3m(車体長20.8m)に統一された。1エンジン車(在来形は最大長20m・車体長19.5m)については収容力の向上が図られたことになる。

運転台は、衝突事故対策及び運転士の視認性の向上のため、床面が300mmかさ上げされた高床式となった。前面窓にはパノラミックウィンドウが採用されたが、これは特急形を除いては国鉄気動車として最初の採用である。また、前面下部には大型の排障器(スカート)が設置されている。キハ58系と同様に前照灯がシールドビーム2灯化されて左右の前面窓上に配置されるとともに、貫通扉上部には行先表示器が設置された。広幅車体ではないため、前面形状はごく幅狭に見える。

側窓は、一般形気動車として初めて外はめ式のユニット窓(下段上昇上段下降)が採用されたが、酷寒地向け車については、防寒のため従来同様の一段上昇式の二重窓で木張りの床とされ、内窓の枠はFRP製となった。

製造当初は、朱色クリーム色の一般形気動車の標準塗装であったが、後に一般形気動車の標準塗装を朱一色のいわゆる首都圏色に変更したことから、本系列も1980年昭和55年)ごろまでに首都圏色に塗り替えられた。国鉄分割民営化前後からは、各地域独自の塗装に塗り替えられるものが多くなった。

キハ45系は、昭和41年度から43年度まで7回に分けて発注されているが、その間の設計変更点は細部の改良・材質変更などに留まっており、外観における変化は極めて少ない。目立ったところでは、昭和42年度本予算以降の暖地型に対し、タイフォンカバーがシャッター式からスリット入りの板に変更されている点である。

  • キハ23 23~33  キハ45 70~74 601・602  キハ53 8・9・101・102

車内設備

多くの面において、113系をはじめとする当時の近郊形電車に倣った構造となっている。暖房は急行形気動車同等の温水式が標準となった。

キハ20系と同様、扉間と車端部にボックスシートを扉付近にロングシートを配したセミクロスシートと呼ばれる座席配置であるが、座席間隔を当時の近郊形電車と同様の1400mmに短縮されているうえ(キハ20系は1470mm)、通路を広くとるため座席幅も狭く、従って居住性は必ずしも良くなかった。

またキハ45 601・602は、車内の一部を荷物室として使用するため、間仕切り用のアコーディオンカーテンを設けて半室をロングシートとし、必要に応じてカーテンで仕切り、ロングシートの部屋を郵便室・荷物室として使う機能を持たせた簡易郵便荷物車である。これは郵便・荷物輸送量が少ないローカル線向けに製造されたいわゆる600番台気動車の一つであるが(ほかにキハ20形・キハ22形・キハ52形などに存在)、他形式の600番台はすべて改造で賄ったのに対して、キハ45形のみは最初から600番台として新製されている。

主要機器

テンプレート:Sound 当時の標準であるDMH17H(180PS/1,500rpm)形ディーゼル機関に、TC2A形又はDF115A形液体変速機を組み合わせて1軸を駆動する。台車も金属バネの標準品であるDT22C(動台車)・TR51B(付随台車)である。キハ58系キハ52形で確立された手法がそのまま踏襲されており、走り装置には特に目新しいものは用いられていない。

エンジンは通常1基を搭載しているが、勾配線区向けのキハ53形のみ2基搭載している。

また床下は、標準的な暖地装備車である0番台のほかに、機関にカバーをつけ床下機器類の耐雪・保温対策を強化するなど、下回りを酷寒地向けに近い寒冷地対策仕様とした寒地向け車両が設定されており、500番台の区分番台が与えられている。

形式各説

キハ45形

1機関搭載の片運転台車で、1966年(昭和41年)から1969年(昭和44年)にかけて暖地形の0番台74両、寒地形の500番台22両、暖地形簡易郵便荷物車の600番台2両の計98両が製造された本グループの基幹形式で、全国各地で使用された。

東日本旅客鉄道(JR東日本)に0番台11両・500番台14両の25両、西日本旅客鉄道(JR西日本)に0番台30両・500番台8両の38両、四国旅客鉄道(JR四国)に0番台24両、九州旅客鉄道(JR九州)に0番台8両・600番台2両の10両、計97両が承継されたが片運転台車で運用上小回りが利かないこともあって、民営化直後から急速に淘汰が進み、1995年平成7年)に全廃となった。

※本形式のうち1967年(昭和42年)4月から5月にかけて製造された32 - 36・42 - 61の25両は、製造直後、一時的に北海道に配置された。これは夏季の観光客輸送など波動輸送に充当するためで、函館・苗穂・旭川・池田・釧路に配置され、シーズン終了後の1967年(昭和42年)秋に新潟や高松など、道外の本来の配置予定区に転属している。

キハ46形

酷寒地向け1台機関搭載の片運転台車で、1966年(昭和41年)12月に6両のみが富士重工業で製造された。1 - 4と6が苗穂機関区(札ナホ)、5のみが旭川機関区(旭アサ)に配置され、新製配置から廃車まで北海道内で使用された。

北海道旅客鉄道(JR北海道)に5両が承継されたが、キハ22形と比べ、最大長21.3m(車体長20.8m)の片運転台車という収容力以外に勝る点が少なく、また、少数形式であることから早期に淘汰の対象となり、1992年平成4年)に全廃となった。

キハ23形

1台機関搭載の両運転台車で、1966年(昭和41年)から1969年(昭和44年)にかけて暖地形の0番台33両、寒地形の500番台21両の計54両が製造された。

国鉄時代は最後まで1両も廃車となることなく、JR東日本に500番台11両、JR西日本に0番台30両・500番台10両の40両、JR九州に0番台3両が承継された。両運転台であることから、ワンマン改造や車両更新工事を施工されたものがあり、比較的長く使用された。2003年(平成15年)までJR西日本に残っていた520が本グループ最後の稼働車となった。同じくJR西日本には1が廃車保留状態だったが、前述の通り2009年(平成21年)6月10日付で廃車され、全廃された[7][8]

キハ24形

酷寒地向け1機関搭載の両運転台車で、1967年(昭和42年)4月に10両のみが日本車輌製造で製造された。

新製当初は1 - 4、9、10が函館機関区(函ハコ)、5 - 8が郡山機関区(仙コリ)に配置され、会津若松機関区常駐で使われたが、全車が2年以内に北海道へ移動し、5、6が旭川機関区(旭アサ)、7、8が釧路機関区(釧クシ)に転属した。

函館では「松前」、「せたな」、「えさし」、釧路では「ノサップ」などの急行列車にも、キハ22形に伍して使用された。

全車がJR北海道に承継され、1 - 4、9、10は函館を一度も離れず、10が1992年平成4年)、その他は1995年平成7年)に、5 - 8は民営化後に苫小牧運転所(札トマ)へ転属となり、1999年平成11年)に廃車となった。 テンプレート:-

キハ53形

2機関搭載の両運転台車で、1967年から1969年にかけて暖地形の0番台9両、長大編成対応形の100番台2両の計11両が製造された。外観はキハ23形とほとんど同一だが、床下スペースが不足することから床上客室内に水タンクスペースが設けられており、その部分の窓はない。100番台は10両以上の長大編成に対応する番台で、主にブレーキ関係を強化するなど、キハ58系急行形気動車の長大編成仕様車両と同等の対策が施されている。

6は国鉄時代の1983年(昭和58年)、木次線で築堤崩壊により脱線大破し、廃車となった。残りの車両は国鉄民営化に際し、0番台6両がJR西日本に、0番台及び100番台各2両がJR九州にそれぞれ承継された。JR九州では大分及び鹿児島に配置されたが、1993年平成5年)に全廃。JR西日本では木次線津山線小浜線などで使用されたが、ドア位置がワンマン運転に不向きであったことが災いしキハ52形よりも先に廃車され、2003年(平成15年)の小浜線電化により全廃となった。

1986年昭和61年)の国鉄末期から分割民営化後の1988年(昭和63年)にかけて、急行形気動車に両運転台化改造が施工され、キハ56形改造の500番台キハ58形改造の200番台・1000番台が登場し本形式に編入されているが、全く系統を異にする存在であるため本項では記載しない。詳細はそれぞれの項目を参照のこと。

製造年・製造会社別一覧

製造</br>年度 形式 日本車輌製造 新潟鐵工所 富士重工業 帝國車輛工業
1966 キハ</br>23 1 - 22  
キハ</br>24 1 - 10  
キハ</br>45 1 - 19</br>55 - 61 20 - 25</br>32 - 36 26 - 28</br>37 - 54</br>62 - 69 29 - 31
キハ</br>46   1 - 6  
キハ</br>53   1 - 7  
1967 キハ</br>23 506 - 509 23 - 28 501 - 505</br>510 - 516  
キハ</br>45   70 - 74</br>501 - 507  
1968 キハ</br>23   517 - 521 29 - 33  
キハ</br>45 514 - 517 508 - 513</br>518 - 520 521・522</br>601・602  
キハ</br>53   8・9</br>101・102  

テンプレート:-

改造

本グループは、製造期間が短く、両数も多くないため製造ロットによる形態上の差異がほとんどなく、形式番号の変更を伴う改造は行なわれなかったが、改番を伴わない改造としては、次の例がある。

簡易荷物車化

1984年(昭和59年)に、木次線のキハ52形600番台置換え用にキハ53 1・2を簡易荷物車に改造したものである。前位側のロングシートを撤去し、クロスシート部との境にアコーディオンカーテンを設けた。1985年(昭和60年)3月に木次線の荷物輸送が廃止されたのち、同月中に原型に復した。

冷房改造

JR西日本越美北線で使用されていたキハ23 520に対して、サブエンジン式のAU34形冷房装置を搭載したもので、本グループ唯一の冷房車である。越美北線のキハ120形置換え後は、高岡を経て山口地区に移り、2003年(平成15年)10月まで使用された。本グループ最後の稼働車となった車である。

車両更新・機関換装

JR東日本に承継され、東北地方で使用されていたキハ23形500番台11両に対し、1990年(平成2年)から1991年(平成3年)にかけて車体更新工事を実施したもので、外観上は扉の窓ガラス支持がすべて金属押さえ方式に変更されたのが目立つ。同時に火災対策工事として機関がコマツ製のDMF11HZに交換されたが、液体式変速機を流用したため出力は330psから250psに落として使用していた。

ワンマン改造

JR西日本保有のキハ23形30両に対し、1990年(平成2年)から1991年(平成3年)にかけて施行され、主に中国地方で使用された。運転台と扉が離れているため、ワンマン運転用機器の配置に苦心の跡が見られる。

ビール列車用への改造

長崎運転所に配置されていたキハ45 54に対してビール列車用として前位側半分を厨房に改造した。

タイフォンシャッター撤去

細かい点では1980年代前半に四国地区配属車の一部に対して、タイフォンのシャッター撤去が行われている。

保存車

キハ24 2が札幌市内のCarクラブ ノルテにて利用されている[9]

脚注

注釈

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出典

テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目

テンプレート:Sister テンプレート:国鉄の気動車リスト テンプレート:JR北海道の車両リスト テンプレート:JR東日本の車両リスト テンプレート:JR西日本の車両リスト テンプレート:JR四国の車両リスト テンプレート:JR九州の車両リスト

  1. 1.0 1.1 交友社 日本国有鉄道工作局・車両設計事務所『100年の国鉄車両(3)』p.460
  2. JTBパブリッシング 石井幸孝『キハ47物語』 p.97
  3. 朝日新聞社『世界の鉄道'77』 1976年10月 p.60
  4. 日本交通公社『国鉄車両一覧』p.176
  5. ネコ・パブリッシング『JR全車輌ハンドブック2009』 p.15
  6. キハ23 1が解体される - 鉄道ファン鉄道ニュース2009年6月18日付。同誌9月号にも同じ記事が掲載されている。
  7. 交通新聞社『JR気動車客車編成表 2009』
  8. 交通新聞社『JR電車編成表 2010冬』
  9. イカロス出版『国鉄&JR保存車大全』p.129