修学旅行列車
修学旅行列車(しゅうがくりょこうれっしゃ)とは1949年(昭和24年)年ごろから設定されてきた修学旅行客輸送のための団体専用列車の総称である。
概要
明治 - 昭和初期
日本における修学旅行は1882年(明治15年)に栃木県第一中学校(現在の栃木県立宇都宮高等学校)の生徒たちが先生に引率され、東京・上野で開かれた「第二回勧業博覧会」を見学したことが日本での「学生・生徒の集団旅行」のはじまりといわれており1886年(明治19年)には東京高等師範学校(現在の筑波大学)が「長途遠足」の名で11日間のものを実施したという記録がある。
「修学旅行」の言葉は、翌年に長野師範学校(現在の信州大学)が同様に実施したものが1887年(明治20年)4月20日発行の『大日本教育雑誌54号』に掲載された際に初めて使われたという。さらに、「修学旅行」という言葉は公には1888年(明治21年)8月に出された『尋常師範学校設備準則』において初めて使われ、その原型は上記の「長途遠足」であった。
また1895年(明治28年)には東京高等師範学校尋常中等科(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)において、全校生徒が鎌倉まで徒歩で出かけて1泊2日するという行程の「修学旅行」が実施された。
その後、旧制の中等学校・高等女学校などにも広まり昭和時代に入って旧制高等小学校の宿泊を伴う修学旅行が許可されると、1943年(昭和18年)に戦局悪化によって禁止されるまで伊勢神宮・橿原神宮・厳島神社・金刀比羅宮といった「国家神道教育」に通じるところを中心に行われ、輸送手段としてはもっぱら鉄道が使われたので、乗客数の多い場合は列車への車両増結も見られたといわれる。
第二次世界大戦以後
1948年(昭和23年)8月20日に日本国有鉄道が「生徒5割引・引率教職員2割引」で学生団体の引き受けを再開したので修学旅行も事実上復活し、1950年代になると本格的に再開されていった。戦前同様、乗客数の多い場合は列車への車両増結も行われたというが、東京 - 伊豆間に設定されていた週末運行の温泉観光準急列車「いでゆ」・「いこい」の使用車両が週末以外には余剰となるのを利用して、1949年(昭和24年)には日本ツーリスト(後の近畿日本ツーリスト、現:KNT-CTホールディングス)の斡旋により、日光・京都・大阪方面に「修学旅行専用列車」も設定された。
その後、1950年(昭和25年)ごろになると「修学旅行集約輸送臨時列車[3]」が登場する。これは東京 - 京都・大阪といった需要の多い区間にあらかじめ修学旅行列車のダイヤを設定しておき、それにしたがって列車を運行するものでそれまでのように一々学校・地域ごとに臨時列車を仕立てるのに比べ手間がかからず予定が組みやすいといった利点があった。
そして1958年(昭和33年)8月に文部省通達により遠足・修学旅行が教育課程の位置づけが明確化され学校行事と規定された事もあり、修学旅行列車専用車両の製造が要望[4]され、翌1959年(昭和34年)に初の専用電車となる155系電車が登場し4月20日から「ひので」・「きぼう」の運行を開始した。その後、日本国有鉄道では159系電車・167系電車・キハ58系800番台の修学旅行用車両を落成させた一方で私鉄でも近畿日本鉄道でも1962年(昭和37年)に全車2階建車両の修学旅行用に20100系電車「あおぞら」を登場させている。また、専用車両を持たなかった東武鉄道でも、浅草 - 日光などにおいて、5700系や6000系などを使用した修学旅行向け臨時列車(「たびじ」など)が多数運転されていた[5]。
しかしながら新幹線による修学旅行が1970年(昭和45年)に開始されると在来線での「集約臨」も急激に衰退していき、1975年(昭和50年)ごろには一部を除きほぼ消滅した。団体列車の設定自体も昨今の少子化やバス、航空機などといった交通機関の多様化、さらには沖縄や海外を目的地に選ぶなど、旅行先そのものの多様化といった要因によって少なくなっているのが現状である[6]。車両も修学旅行専用のものはJRでは消滅し、団体列車専用車などの波動輸送対応車や余剰気味となっている車齢の高い車両[7]が使われる。しかし修学旅行のメインルートに新規開業や電化などが数年以内に行われた区間が含まれる場合、新型車両が用いられる例もある[8]。
なお現在では、近鉄では15200系「新あおぞらII[9]」が修学旅行を中心に運用されているほか、千葉県千葉市から信州長野方面(外房線・内房線・総武本線沿線から中央本線経由)神奈川県 - 栃木県相互間(東海道線・南武線沿線から日光と宇都宮地区から鎌倉・箱根方面)や兵庫県南部から鳥羽方面(東海道本線・草津線経由)など一部線区では臨時ダイヤにて毎年修学旅行列車が運行されている。
関西では2009年3月開業の阪神なんば線を活用し、姫路方面から伊勢志摩への修学旅行列車の運転も検討されている[10]。ただ、2011年3月のダイヤ改正で特急はまかぜのキハ181系からキハ189系への置換えに伴い、姫路から奈良・伊勢方面への修学旅行列車も廃止することになったが、それにあたっては姫路市などが修学旅行生の輸送をバス輸送に切り替える方針を示したため[11]、阪神なんば線経由の姫路方面から伊勢志摩への修学旅行列車の運転が実現するかどうかは流動的である。
国鉄「集約臨」の沿革
- 1950年(昭和25年) 日本ツーリストが運行を開始していた修学旅行専用列車はほかの旅行社も協賛しての共同運行となり、次第に時刻・車両が固定されていって「修学旅行集約輸送臨時列車」の起源となる。{このエピソードは、城山三郎著「臨3311に乗れ」(集英社文庫)に詳しく描かれている}
- 1958年(昭和33年)6月1 - 29日 「湘南電車」と呼ばれた80系電車を使って、品川 - 京都に「集約臨」を運転。下りは品川8時40分発で京都15時40分着、上りは京都発19時50分で品川5時20分着と上りでも当時の夜行急行列車なみの速度、下りに至っては当時の特急列車「つばめ」・「はと」に匹敵する速度で走った。なおこの実績が、のちの155系電車を生み出す契機ともなる。
- 1959年(昭和34年)4月20日 新製された日本初の修学旅行専用電車である155系電車を使用して、品川[12] - 京都[13]に関東地区用修学旅行列車として「ひので」が、品川 - 京都・大阪・神戸に関西地区用修学旅行列車とした「きぼう」が「集約臨」として運転を開始した。また「ひので」は下り昼行・上り夜行、「きぼう」は下り夜行・上り昼行の時刻で運転された[14]。また、これら修学旅行列車の時刻は荷物列車などとともに市販の時刻表にも掲載されていた。
- 1960年(昭和35年)
- 1961年(昭和36年)3月 「こまどり」用の159系電車が落成し、153系に代わって投入された。同系列は、のちに東海地方 - 関西地方・山陽地方間に設定された修学旅行列車「わかあゆ」にも投入される。
- 1962年(昭和37年)4月9日 非電化地区からの修学旅行列車用に気動車のキハ58系800番台が登場[16]。この日から東北地区[17] - 上野で「おもいで」が運転を開始。
- 1963年(昭和38年)4月10日 キハ58系800番台を使用して北九州地区 - 京都の修学旅行列車「とびうめ[18]」が運転を開始。また「きぼう」は兵庫県中部地域からの利便を図るため、明石発着となる。
- 1965年(昭和40年)10月1日 混雑する「ひので」・「きぼう」の混雑緩和を図るため関東地区用の「わかくさ」が品川 - 京都に[19]、関西地区用の「わかば」が東京(下り)・品川(上り) - 明石に1往復ずつ設定された。
- 1966年(昭和41年)4月9日 東京 - 下関に165系急行形電車を修学旅行用に設計変更した167系電車が「わかくさ」「わこうど」で運転開始。それまでの修学旅行列車が普通列車の扱いであったのに対し、「わこうど」は長距離で往復とも夜行となるため急行列車の扱いとなる。「わこうど」は山陽地方からの高校生の東京への修学旅行用列車として設定されたが関西地方からほどの需要が見込めないため下関 - 京都で中学生用の列車「友情」、下関 - 広島で小学生用の列車「なかよし」としてもそれぞれ運用された。さらに3列車ともが運転されない時期には、「わこうど」のダイヤで臨時急行列車「長州」として運転されていた。
- 1966年(昭和41年)11月 中部地区から広島・山口方面へ「わかあゆ」(豊橋 - 下関)を田町区の167系電車で運転開始。1967年秋期からは159系電車で運転。
- 1967年(昭和42年)10月1日 「ひので」・「きぼう」・「わかくさ」・「わかば」も、急行列車の扱いとなる。
- 1970年(昭和45年)3月16日 東海道新幹線に修学旅行列車を初設定。
- 1971年(昭和46年)
- 1973年(昭和48年)
- 1974年(昭和49年)4月21日 この日の記念行事をもって、「とびうめ」廃止。関西へ約22万4000人、九州内相互間で約14万7000人、総約37万1000人の利用があったとされる。
- 1975年(昭和50年)3月10日 山陽新幹線の博多駅までの全線開業をもって、「わこうど」・「友情」・「なかよし」廃止。市販の時刻表に掲載されていた修学旅行列車は消滅。
修学旅行用車両
概要
主に修学旅行専用列車に充当するために製造された車両を指す。利用者が学生である、1列車における乗降の機会が少ないなど、修学旅行専用列車の特徴に合わせ、一部に特殊な構造を採用していることが多い。ただし、シーズンオフには一般列車へも充当されることがあるため、どれだけ一般的な車両から構造を変えるかは、各系列により異なる。
国鉄
国鉄の修学旅行用車両は、黄1号と朱色3号に塗られていた。ただし、修学旅行列車への充当頻度が下がってからは、他の車両と同じ一般的な塗色へ変更されている。