八木治郎
八木 治郎(やぎ じろう、1925年4月20日 - 1983年4月18日)は、元NHKアナウンサーでテレビ司会者。
来歴・人物
東京生まれ。幼・少年期を千葉県佐原市で過ごす。千葉県立佐原中学校(旧制)から陸軍士官学校を経て1949年、東京大学文学部中国文学科卒業。
同年NHK(日本放送協会)に入局。同期入局には小川宏、大塚利兵衛、福島幸雄、穂坂俊明らがいる。熊本⇒長崎勤務を経て、1953年にラジオの『音楽夢くらべ』で本格的にアナウンサーを開始。報道・芸能・社会番組などを担当。人気クイズ番組『私の秘密』では高橋圭三がNHKを退局しフリーになってからは、後任として1962年から4年間司会を務めた。その頃から派手さはないが、「ムード派の八木」と呼ばれるようになった。
1965年11月にNHKを退局しフリーとなり、翌1966年1月MBS(毎日放送)制作で『八木治郎ショー』(1970年1月放送開始)の前身である『ウィークエンドモーニングショー』の司会を務め、民放モーニングショーの先駆的存在となる。その他にも『万国びっくりショー』他数々のテレビ番組の司会、『野生の王国』(MBS制作・NET(現・テレビ朝日)⇒TBS系列)のナレーションなどを務めた。
1983年4月16日の『八木治郎ショー・いい朝8時』出演後、福岡市内の会社からの依頼で、大阪から福岡へ出張。翌17日に市内のホールで開かれたパネルディスカッションのパネラーの1人を務めた。終了後、市内中洲の料理店で陸軍士官学校の同期生3人と食事中に突然倒れる。市内の病院に運ばれ診断の結果、クモ膜下出血と判明。人工呼吸等が施されたものの意識は戻らないまま、翌日夜に死去。テンプレート:没年齢。
皮肉にも、最後のテレビ出演となったのは、倒れた日に放送された同じMBS制作の『アップダウンクイズ』(TBS系人気番組対抗特集、野村啓司MBSアナウンサーとペアで出場。4月上旬に録画)の解答メンバーだった。翌週の放送内で、司会の小池清(その後『野生の王国』の2代目ナレーターを担当)が八木急逝のコメントを出していた。
同月23日放送の『いい朝8時』の八木治郎追悼特集では、一子夫人と小川宏が生出演した。
なお、亡くなった後も『野生の王国』のナレーションはMBSで3か月分撮り貯めをしていたためそのまま放映され「八木治郎氏は4月18日に亡くなりました」の旨のテロップが付け加えられた(6月放送分まで)。
担当した番組
NHK時代
フリー以後
- ファミリー・クイズ(MBS 1967年 司会(後に出題者)
- クイズ・その手にのるナ!!(MBS 1968年 司会)
- ウィークエンドモーニングショー(MBS 司会)
- 八木治郎ショー(MBS 司会)
- 八木治郎ショー・いい朝8時(MBS 司会)
- 野生の王国(MBS ナレーション)
- 八木治郎の食糧ルポ(TBS 司会)
- 万国びっくりショー(フジテレビ系列、司会)
- 人に歴史あり(東京12チャンネル、現・テレビ東京系列、司会)
- カラー秘録 太平洋戦史(東京12チャンネル ナレーター)
コマーシャル
- 久保田鉄工(現・株式会社クボタ)「デミング賞受賞」(1976年)
- シャープ「テレビinテレビ」(2画面対応テレビ 1978年ごろ)
著書
- 『話し上手の秘密』実業之日本社 実日新書 1964
- 『魅力ある話し方』実業之日本社 実日新書 1970
- 『司会スピーチ入門 :うなずく好感 あふれる愛敬』日本文芸社 1972
- 『人の心をつかむ話し方 :話し上手・48のヒント』大和出版 1980
- 『八木治郎のスピーチの方法とコツ』西東社 1980
- 『話しで人を酔わせる 今夜のスピーチの隠し味』ベストセラーズ ワニの本 1982