信濃 (空母)
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艦歴 | |
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起工 | 1940年5月4日 |
進水 | 1944年10月8日 |
就役 | 1944年11月19日 |
沈没 | 1944年11月29日 |
沈没地点 | テンプレート:Coord |
除籍 | 1945年8月31日 |
性能諸元[1][2] | |
排水量 | 基準:62,000 トン 公試:68,060 トン 満載:71,890 トン |
全長 | 266.1 m 飛行甲板長: 256m |
全幅 | 40 m 水線長:36.3 m |
吃水 | 10.31m |
機関 | タービン4基4軸, 153,000 HP |
最大速 | 27 ノット(計画) |
航続距離 | 10,000 海里(18ノット時) |
乗員 | 士官、兵員2,400名 |
兵装 | 12.7cm連装高角砲8基16門 25mm3連装機銃37基 25mm単装機銃40基 12cm28連装噴進砲12基 |
搭載機 | 常用42機、補用5機 (総数50機という説もある)[3] |
信濃(しなの)は、日本海軍に所属した航空母艦である。建造中の大和型戦艦三番艦を、戦局の変化に伴い戦艦から航空母艦に設計変更したものである。艦名は旧国名の信濃国から採られた。1944年、未完成のまま回航中に米潜水艦「アーチャーフィッシュ」の魚雷攻撃を受けて、一度も実戦に投入されることなく沈没した。
1961年にアメリカ海軍の原子力空母「エンタープライズ」が登場するまでは、史上最大の排水量を持つ空母だった[4]。
目次
改装までの経緯
大和型戦艦110号艦
第一次世界大戦後締結されたワシントン海軍軍縮条約及びロンドン海軍軍縮条約で海軍力を制限された日本海軍は、国力・経済力で圧倒的優位に立つ米国に対し量を質で凌駕するという発想から、46cm砲を搭載した大和型戦艦を設計する。条約明けの1937年(昭和12年)、1番艦「大和」・2番艦「武蔵」は第70回帝国議会に提出された第三次海軍軍備補充計画(マル3計画)により予算が承認され、建造が始まった。翌年、日本海軍は第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)を立ち上げ、艦齢30年が経過した金剛型戦艦「霧島」「榛名」の代艦として大和型戦艦建造番号110号艦・111号艦、計2隻の建造を決定した。この2隻は、先に建造された戦艦「大和」と「武蔵」の不具合を改善し、より完成度の高い戦艦となるはずだった。
「110号艦」は横須賀海軍工廠に第六船渠を新造し、そこで建造されることが決まった[5]。大和型戦艦の排水量は7万トンを超える。このクラスの超大型艦が合計4隻も建造される予定に対して、将来的に発生するであろう修理・改造工事に使用可能なのが呉にある1つの乾ドックだけでは順番待ちなどの恐れが生じることや、横須賀を呉に並ぶ海軍の重要拠点としたいという意向があったため、姉妹艦「武蔵」(長崎、三菱重工)のように陸上の船台によって建造する手法を選ばず、大和型戦艦用の第六乾ドックを新たに作る事になった[6]。当時の横須賀の最大ドックは、長門型戦艦「陸奥」(33,000t)を建造した第五乾ドックだったのである[7]。2年3ヶ月の期間と約1,700万円(当時)の費用をかけて全長336m、全幅62m、深さ18mのドックが完成した[8]。この時に排出した土砂は、隣接していた海軍砲術学校の海岸埋め立てに使用され、広いグラウンドとなった。1940年(昭和15年)5月4日、ドックの完成と同時に110号艦の起工式が行われる[9]。110号艦自体の予算は約1億4770万円(当時)で、国会議事堂(2570万円)が6つ建設できる計算となる[10]。この時のお祓いも機密保持を考慮し、外部から本職の神主を呼ぶのではなく、工廠の関係者の中から神主の資格を持っていた足場組長の大須賀種次が選ばれ、大役が任された[11][12]。「大和」、「武蔵」が予算計上時は「一号艦」、「二号艦」と呼ばれていたことから、本艦も「三号艦」の俗称があった[13]。また工員達の間では第110号艦を略して「110」と呼ばれていた[14]。
建造中断
1945年(昭和20年)3月末の完成を目指し工事が進められている最中、米国との開戦が決定的となった。1941年(昭和16年)11月、戦艦を含めた艦艇建造計画の見直しが行われ、潜水艦と航空機の生産優先が決定し、大型艦の建造が中止となる[15]。さらに太平洋戦争開戦当初の真珠湾攻撃とマレー沖海戦の結果、多数の航空機による集中攻撃に対して戦艦が脆弱であると明らかになり、111号艦は即時解体され、後に伊勢型戦艦「伊勢」、「日向」の航空戦艦化の資材として一部が使用された[16]。ある程度まで船体が組まれていた110号艦は『本艦は戦艦としての工事を中止し、浮揚出渠せさるに必要な工事のみを進め、なるべく速やかに出渠せしむべし』として船体のみを建造し、ドックを中型空母建造や損傷艦修理のために開けるよう命じられる[17]。1942年10月の船体完成を目指すが、建造資材を損傷艦に廻されたり、工員の士気も下がるなどして、工事は停滞状態となった[18]。宇垣纏連合艦隊参謀長の陣中日誌には、4月23日に杉浦軍令部第三課長と神重徳軍令部一課部員が連合艦隊司令部を訪れ、「戦艦建造を『第三号艦』迄とし、其余力を空母建造に集中するを可とす」とした他、超甲巡の建造見送り、潜水艦と航空機の増産などが話し合われたと記されている[19]。
航空母艦への変更
1942年春、米国が両洋艦隊法により大型航空母艦多数を建造しているという情報を得た日本軍は改マル5計画で改大鳳型航空母艦や改飛龍型航空母艦など、空母の保有数を増やすことを検討していた[20]。4月18日、空母「ホーネット」(USS Hornet, CV-8)から発進したB-25爆撃機16機が日本を空襲した(ドーリットル空襲)。横須賀にも1機が飛来し、110号艦の近くで空母に改造中だった潜水母艦「大鯨」(後の空母龍鳳)に爆弾1発が命中した[21]。110号艦に被害はなく、また米軍機にも発見されなかった[21]。この空襲が作戦実行の牽引力となった6月のミッドウェー海戦で日本軍は大敗し、保有主力空母の2/3に当たる4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を失った。日本海軍は空母機動部隊を再建すべく、戦時急造空母の建造を決定する。その一環として横須賀第6ドックから110号艦をどかし、中型空母「飛龍」を改修した雲龍型航空母艦(17,500トン)2隻を同時建造する意向を示した[22]。しかし2年をかけて船体進行率70%という状態まで形状が出来ていた110号艦の解体はそれだけでも大事業となり、横須賀工廠の現場からは机上の空論とみなされている[22]。だが大和型戦艦の象徴でもある46cm砲を呉工廠から横須賀工廠へ運搬するために必要な専用輸送船「樫野」が9月4日に米潜水艦によって撃沈され、110号艦を大和型戦艦として建造することも難しくなった[23]。
ここに至り日本海軍は「大和型戦艦・110号艦」を航空母艦へ設計変更し、1944年12月末を目指し空母として就役させることを決定する[24]。110号艦は、タービン機械、ボイラー9基、艦前方の弾火薬庫の床の取り付けが完了し、船体中央は中甲板レベルの隔壁の組立中、艦尾は弾火薬庫の床が完成して、その上の構造物に取り掛かった状態であった[25]。
110号艦の空母改装に当たっては「航空母艦艤装に関しては完成期を遅延せしめざる範囲に於いて、戦訓に基づく改善事項を実施し、また出来得る限り艤装簡単化に関し研究実行す」と軍令部・艦政本部の空母急速増産計画には記載されている[26]。1942年7月16日、軍令部次長が海軍次官に宛てた「第110号艦(改装)主用要目に関する件協議」では、排水量や速力の他、以下の項目を記載している[27]。
- 主用兵装搭載機は艦戦36、艦攻18、艦偵9。但し格納庫は艦戦18に対する分を完備し、艦攻18以上なるべく多数の応急格納し支障なからしめ、その余は甲板繋止めとす。
- 飛行甲板防御は500kg爆弾の急降下爆撃に対し安全ならしむ。但し後部飛行機格納庫は800kg急降下爆撃に対し安全ならしむ。
- 舷側防御:第130号艦に準ず(130号艦は大鳳のこと。同艦は巡洋艦20cm砲弾防御)。
- 爆弾、魚雷、航空燃料の搭載量は第130号艦程度とし、飛行機に対する補給を急速容易に実施可能ならしむ。
110号艦の航空母艦への設計変更と改造にあたっては、艦政本部長の岩村清一中将より「本艦の空母としての性能は従来の空母を一変せしめ、洋上の移動航空基地たらしめる。すなわち原則として飛行機格納庫を備えず、従って固有の艦上攻撃機・艦上爆撃機を搭載しない。本艦は最前線に進出し、後方の空母より発艦した飛行機は本艦に着艦し、燃料、弾薬、または魚雷を急速に補給して進発する。しかして巨大な飛行甲板に充分な甲鈑防御をほどこし、敵の空襲下にあくまで洋上の基地として任務を達成する。しかし自艦防衛上、直衛機(戦闘機)のみは搭載し、この分の格納庫だけは設ける」という案が示された[28]。「戦艦としての防御力を持つ船体に重防御を施した飛行甲板を装備して不沈空母化し、格納庫も搭載機も持たない」との意見さえあったという[29]。空母「大鳳」があくまで『既存の空母の弱点である飛行甲板の防御』という構想から建造されたのに対し[30]、この初期案ではあくまで『洋上の航空基地』であることを第一として考えられている。また、ミッドウェー海戦での「航空母艦は被弾損傷に脆弱である」という戦訓から、爆弾や魚雷を装備した攻撃機や爆撃機を艦内に搭載しないという発想でもある[31]。
しかしこの初期案は軍令部や航空本部側からの反発を招き、2ヶ月近い議論の末にこの艦政本部による初期案は放棄された。神重徳参謀はアウトレンジ戦法に強く反対し、110号艦を攻撃用空母とするよう強く主張している[32]。結局、「万が一敵からの攻撃をある程度受けても戦艦構造や強固な飛行甲板によって継戦能力を失わない。仮に他の空母が攻撃を受けて航空機の母艦としての能力を失っても、それらの空母に所属していた航空機を受け入れることで、艦隊としての航空戦闘能力を保持し続け」、搭載・運用する直衛機に加えて攻撃用の航空機を搭載し、さらに他の空母の航空機用の燃料や爆弾、魚雷までも用意しておくという「大鳳」の着想と似たものとなった[33]。
全面的に変更された空母用の最終的な設計は、この構想を実現するために、装甲飛行甲板と航空機用格納庫に加えて、燃料庫や弾火薬庫が拡充されることになった。1942年(昭和17年)7月末、空母への設計変更が決定し、1ヶ月で基本計画完了、9月早々海軍大臣に報告がおこなわれた[34]。艦政本部の基本設計が終わったのは11月、横須賀工廠で設計詳細を進め、工事再開は1943年初頭となった[35]。
特徴
飛行甲板
大和型戦艦の最大幅39mという船体の上に設置された飛行甲板は、最大幅40mであった[36]。幅50mという元乗組員による証言もある[37]。飛行甲板には20mmDS鋼板の上に75mmNVNC甲板を装着した[38]。装甲部分は長さ約210m、幅約30mと下部の格納庫と同じ範囲に施された[39]。その大重量を支えるために、箱形の梁を作り、そこにも14mm鋼鉄を張った[40]。日本空母として最初に飛行甲板を装甲化した「大鳳」は一部が木甲板だったのに対し、本艦は全体が鋸屑入セメント張りだった[41]。ミッドウェー海戦の戦訓を踏まえ、搭載機にガソリンを積む場所を飛行甲板に変更し、また爆弾・魚雷装着場所も従来の日本空母とは異なり飛行甲板としている[42]。このため揚爆弾筒、揚魚雷筒は格納庫を素通りして飛行甲板に直接揚げる構造となった[42]。また装甲部分の前後に設けられた航空機用エレベーターにも飛行甲板と同じく75mmNVNC甲板が装着され、重量は前部昇降機(寸法15m×14m)が180t、後部昇降機(寸法13m×13m)は110tに達した[43]。後部昇降機は第3主砲塔の位置に、前部昇降機は第1主砲塔の位置に設置された[44]。
格納庫
全長266mという巨体の割には、格納庫は一層しか持っていない[45]。建造が再開された当時の「信濃」は、艦中央部では既に中甲板付近まで工事が進んでいた[46]。多層の格納庫をその上に積み上げると艦高となって重心が上がってしまう。それでなくとも飛行甲板の全面に厚い装甲板を用いるので船体が不安定となり、復元力の確保のためには上部構造物を軽くするか低くする必要があったため、一層で妥協した[47]。大和型戦艦の上甲板は一番砲塔付近で下がり二番砲塔付近で上がる「大和坂」と呼ばれる傾斜がついていたが、ここに艦載機の格納庫を設けるためにこの床面を水平に修正する工事に手間がかかった[48]。搭載機数が大幅に少ない事に関しては他にも、空母「大鳳」と同様に烈風や流星などの大型化した新鋭機の搭載を最初から想定していたためという説もあるテンプレート:誰2。
110号艦に強い影響を与えた空母「大鳳」を含め、日本空母のほとんどは密閉式格納庫である。これに対して、本艦では攻撃機搭載用の前部約125mは攻撃を受け火災が発生した際にはそこから熱風を逃し、爆弾や魚雷を投棄するため、開放式になっている[49]。夜間の灯火管制時にも開放式前部で機体整備が行えるように、開放部には帆布製の遮光幕を張ってから内部で電気照明を点灯するようになっていた[50]。ただし、開放式格納庫の開放部分は、長さ10m以上の開口部が片舷1ヵ所ずつのみとなっており、航空機の海中投棄は不可能だったという[50]。戦闘機搭載用の後部約83mだけ、厚さ25mmの防護用特殊鋼鈑を使った側壁による密閉式という形態となっていた[38]。火災に対しては可能な限りの対策が施され、格納庫全域に降り注ぐ泡沫消火装置や、防御区画内3箇所に独立した消火ポンプを設置し、格納庫側壁の複数箇所に防御を施した管制指揮所を設けた[50]。航空機格納庫は従来型電灯と蛍光灯の併設、居住区は蛍光灯のみが備えられていたという証言がある[51]。
搭載機
固有の航空機には、新鋭の艦上戦闘機「烈風」18機、流星艦上攻撃機18機、高速偵察機「彩雲」6機、補用5機、合計47機の搭載が検討・予定されていた[52]。航空本部の計画案では、烈風25機(補用1機)、流星25機(補用1機)、彩雲7機(補用0機)とされていた[1]。烈風1機、流星7機、彩雲7機は甲板繋止である[1]。その後昭和19年10月19日に航空本部が作成した『空母及搭載艦関係報告資料』では、烈風24機(補用1機)、流星17機(補用1機)、彩雲7機(補用0機)となっている[53]。ただし烈風は開発が大幅に遅延したため紫電改の艦戦型に変更される予定だった(後述)。また、本艦の爆弾・魚雷・航空燃料の搭載予定量は、翔鶴型や大鳳型、雲龍型よりも少なく「800kg爆弾または500kg爆弾90発、250kg爆弾468発、60kg爆弾468発、九一式45cm航空魚雷・不定」程度であり、「中継基地空母」としての運用は考慮されていない[54]。格納庫72機、甲板繋止13機という異説がある[37]。
武装
対空火器として、12.7cm連装高角砲8基16門(片弦4基)、25mm機銃(単装、連装、三連装合計)141門、28連装ロケット噴進砲12基を舷側に装備する予定だった[55][2]。出港時ロケット砲は搭載されてしていなかったが[56]、他の武装については、若干装備していたという志賀淑雄少佐(信濃飛行長)や神谷武久(工員)の証言がある[57]。脱出時、高角砲甲板に高射砲弾が転がっていたという目撃証言もある[58]。
船体と船体防護
本艦は大和型戦艦として建造されていたため、空母としては十分すぎる防御設計が施されていた。空母としての再設計時における防護性能では、舷側水線防御は射距離10,000mから放たれる20cm砲弾に耐えることや、水平防御では高度4,000mから投下される800Kg爆弾に耐えることだった[59]。また、当初の案では、飛行甲板は800Kg爆弾の急降下爆撃に耐えることとなっていたが、甲板の重量増加と製造能力の関係から、飛行甲板は500Kg爆弾の急降下爆撃に耐えうるものと変更された[20]。これらの要求を満たすため、格納庫天井に20mmDS鋼板と14mmDS鋼板を張り合わせた。
大和型戦艦から空母へと設計変更されたことに伴い、110号艦の水線上舷側装甲は410mmから200mmへと減り、対巡洋艦程度の装甲となった[60]。主砲弾薬庫は、そのまま空母の高角砲弾・機銃弾・爆弾・魚雷庫へと転用された[61]。航空機用燃料庫は、主要部の前後にある重油タンク部分に増設された[47]。本来装甲のない部分だったため、通常使用される25mmに加えて、解体した姉妹艦111号艦の弾薬庫の底部80mm装甲をタンク直上下甲板に貼った[62]。当初はタンク周辺に空白区画を設けて2,000tの水を満たしておく設計であったが、後述する「大鳳」の戦訓から、周囲の区画にはコンクリートを充填している[63]。
艦底は、磁気機雷や艦底起爆魚雷への対策として、「大和」「武蔵」の二重底から三重底へと強化されている[64]。110号艦では砲塔が搭載されず戦艦級の装甲も施されないために艦体が軽くなり、喫水が1m上昇するため、「大和」と比較してバルジの上端を1m下げた[60]。その後、本艦の設計に影響を与えた空母「大鳳」が、1944年6月のマリアナ沖海戦において、米潜水艦の魚雷1本の命中であっけなく爆沈したことは、関係者に強い衝撃を与えた[65]。「大鳳」沈没は、魚雷の命中により航空機用ガソリンが艦内に漏れ出し、ダメージコントロールの失敗により、6時間後に大爆発・大火災を起こした事が原因である。そこで応急対策として、水線下のバルジなど航空機用燃料タンクの周辺に数日間かけてコンクリートを流し込み、固めた[66]。最終的に、公試常態排水量は初期計画の62,000tから68,000tに増加した。バルジの位置変更は無意味となり、牧野茂は「余計なことだった」と述べている[60]。
飛行甲板から弾薬庫に至るまで重装甲で固めた結果、110号艦の船殻重量は「大和」に比べて1,900t、防御重量2,800t、艤装重量1,200t、計5,900t増加、35万から40万工数という工事量増加となった[38]。大和型戦艦の内部は「地下街」と表現されたり[67]、艦内伝令が自転車を使っていたという証言もあるほど[68]巨大で複雑な建造物だった。空母とはいえ、大和型戦艦の船体を持つ110号艦も同様だった。乗組員が艦内で半日間迷子になったり[69]、工員が自分の担当現場を探すだけで疲労したというエピソードもある[70]。
艦橋
艦橋は右舷中央部に大型の島型艦橋が設置された。従来の日本海軍空母は、大型艦や小型艦を含めて艦橋と煙突が分離し、煙突は湾曲が付けられ海面に向けて排気する方式だった。110号艦の場合、船体上部甲板と飛行甲板まであまり高さがとれず、舷側に煙突を設置することができなかったため[71]、艦橋の後部は外側に26度傾斜した上方排出の煙突となっている[72]。艦橋と煙突の一体化は米英空母では広く採用されていたが、日本では飛鷹型航空母艦で最初に採用したのち大鳳型航空母艦や改大鳳型航空母艦で採用し、110号艦もこの方式で艦橋と煙突をまとめている。本艦に設置する前に実物大艦橋模型を航空学校の屋上に建造し、36基の12cm対空双眼鏡を据え付けて実地試験を行った[73]。福田啓二造船中将は、美的ではなかったと回想している[74]。二一号電探と通信マストも配備された。
機関・速力
改装時にはすでに大和型戦艦としての基礎ができあがっていたため、機関配置や予定機関出力は大和型戦艦と全く同じであった。プロペラの回転数も同じ設定であったが、大和型戦艦のプロペラは直径5mだったのに対して110号艦のものは直径5.1mであり、ピッチも異なっていた[75]。速力もそのままの27ノットの予定だった。大和型戦艦に比べて主砲塔や各部装甲を減じているが、そのぶん飛行甲板や弾薬庫に重防御を施した結果、満載排水量は大和型72,000tに対し110号艦71,000tである。正規空母としては低速であり、当時5tを超えていた流星艦上攻撃機の発艦に不安がある可能性が指摘されていた。横須賀で実施された試験においてボイラー8基のみ稼動、20ノット程度の航行状態で、当時の風速は不明ではあるが紫電改(紫電41型)や流星艦上爆撃機、天山艦上攻撃機(雷撃機)の離着陸テストに成功している。紫電改テストパイロット山本重久大尉も、日本空母の中でも特に大型だった「赤城」や「翔鶴」より110号艦の飛行甲板は大きく、離着陸は良好と証言している[76]。この時に着艦した紫電改は、陸上基地での運用を主体とする局地戦闘機であり、艦上戦闘機ではなかった。だが零式艦上戦闘機の後継機となるはずだった烈風艦上戦闘機の開発の遅れから、同じ2,000hp級エンジンを搭載して高性能を発揮した紫電改を艦載機化する計画があり、試験が行われていた[77]。
塗装
110号艦の詳細な写真は逆光下で撮影された本記事冒頭の一枚しか残っていないが、対潜用の迷彩らしきものが判別できる[78]。基本色は外舷1号色(若草色。米海軍報告書によれば外舷2号色と白を1:1で混ぜたもの)で、外舷2号色(錆緑、暗いオリーブグリーン)により商船の迷彩が施されていた[79]。喫水線下は赤系統とする工員の目撃証言が多い[80]。飛行甲板の塗装は不明。
完成まで
二転三転する竣工時期
本艦の建造が再開されたのは1942年(昭和17年)9月、竣工は1945年(昭和20年)2月末の予定だった[81]。ところが、日本海軍はガダルカナル島をめぐる戦いから多数の艦艇を喪失し、損失艦が続出した。1943年(昭和18年)3月25日、嶋田繁太郎軍令部総長は各工廠に「損傷艦の修理を優先し、新造艦は松型駆逐艦及び潜水艦に限定せよ」と通達、同年8月、「110号艦」の建造は再度中断されることとなる[81]。その上、横須賀工廠は水上機母艦「千代田」を軽空母に改造する作業と、南太平洋海戦で大破した空母「翔鶴」の修理作業を抱えており、工員4,000人を増員しても手一杯であった[82]。不思議なことに、竣工時期は1945年(昭和20年)1月と1ヶ月以上早められている[81]。
その3ヶ月後の1944年6月に発生したマリアナ沖海戦において、日本海軍は大敗北を喫した。主力空母3隻(翔鶴・大鳳・飛鷹)を一挙に失ったのである。特に「110号艦」の原型となった空母「大鳳」の喪失は関係者に衝撃を与えた[83]。その後、進攻してくるアメリカ軍に対抗するために110号艦が必要との意見があがった[84]。7月、「1944年(昭和19年)10月15日までに竣工させよ」との命令が下ると共に、「軍艦信濃の本籍を横須賀鎮守府とする」との発令が下ることとなる[35][85]。「一度戦闘に参加し得るに必要なる設備のみ取りあえず完成せしめ、その他は帰港の上工事」と定められた。『海軍造船技術概要』によれば、軍令部が横須賀海軍工廠長に命じた内容は以下の項目である[86]。
- 居住設備は士官より兵員に至るまで簡素にして最小限のものとする。
- 戦闘時の火災を防ぐため、木材部分を極力少なくする。
- 防毒区画の気密試験を省略する。
- 中甲板以上の区画の気密試験を省略する。
- 造機、造兵関係工事もできるだけ後回しとする。
- 工期目標、10月5日進水。10月8日、命名式後沖繋留。10月15日、竣工。
建造予定が遅れているにもかかわらず、「大鳳」の喪失を補うためにも、初期の竣工時期より5ヶ月近く短縮された[87]。熟練工を兵役で取られ、その不足を補うために民間造船所の工員や海軍工機学校の生徒のみならず、畑違いともいえる他の学部の生徒を学徒勤労報国隊で集め、朝鮮人工員や台湾人工員、女子挺身隊も狩り出された[88]。「110号(信濃)の完成が日本を救うこととなる」との思いがお互いに良い刺激となり、作業は順調に進んだという美談として扱われる事もある。だが大和型戦艦「武蔵」で19ヶ月かかった艤装を3ヶ月で強行した仕上がりには問題があった[89]。海軍省関係の性能審議委員会の参加者であった牧野茂 (海軍技術大佐、大和型戦艦設計者)は、「信濃/110号艦」の居住区には調度品が一切なく殺風景で、気密試験は続行中、まるで「鉄の棺桶」だったと述べている[90]。このように工事の簡略化のため、兵装や艦内装備は最小限にとどめ、艦内の水密試験も最低限(一説では省略)しか行われなかった[91]。その一方で、燃料タンク周辺にコンクリートを流し込む作業は行われた[92]。「信濃」は同海軍工廠で建造された最後の艦艇であり、文字どおり同海軍工廠に残る全ての資材が投入された。
進水式
「信濃」は過労や事故により10名以上の死者を出しながら軍艦として形を整えた。10月5日、午前8時から8時30分頃、ドックに注水を開始する[93]。予定では、ドックに半注水し艦を浮揚、その段階で艦のバランス等を確認することとなっていた。その作業中、注水予定10mのところ推定8mまで達したところで突然ドックの扉船が外れ、外洋の海水が流れ込んだ[94]。この海水の奔流に乗って「信濃」は前後に動きだし、艦を固定する100本以上のワイヤーロープと50本の麻ロープが切れた[95]。これにより甲板上にいた技術士官等が海上に放り出されると同時に、艦首のバルバス・バウがドックの壁面に何度も繰り返し激突する事態が生じ、バルバス・バウと内部の水中ソナー、プロペラ翼端が破損した[96]。
調査の結果、単純なミスが発覚した。扉船内部のバラストタンクへおもりとして海水を注水しなければならない筈が、それを忘れるという人為的ミスであった[97]。「信濃」のバラストタンクへも海水を入れなければならないのに、全く注水されていないという人為的ミスという異説もある[98]。作業ミスではあるが、性急すぎる工期短縮が招いた結果ともいえる[99]。それでも10月8日に命名式は行われ、昭和天皇の代理として米内光政海軍大臣が式場に臨席した[100]。ここに110号艦は「軍艦 信濃」と命名された。この時点では引渡し式が終わっておらず、審議委員会が合格判定を出すまで「信濃」は海軍の艦籍に入っていない[101]。
その後「信濃」は再びドックに戻され、111号艦の資材を一部使用して修理が行われた[102]。修理は10月23日に終わり、ドックを出て沖合いに繋留された[103]。だが竣工は1ヶ月遅れた11月19日となる。その間、日本海軍最後の大規模艦隊戦であるレイテ沖海戦(捷一号作戦)が起こり、連合艦隊は壊滅状態となる。しかし仮にレイテ沖海戦に参戦できていても、本艦に乗せる航空機はすでになかった。実際、空母「雲龍」は完成したが載せる航空機がなく、特攻兵器「桜花」の輸送船として使用され、潜水艦の雷撃で沈没した[104]。111号艦の資材を流用して航空戦艦に改造された戦艦「伊勢」、「日向」も搭載する航空機がなく、通常の戦艦として使用された。北号作戦では両艦とも格納庫を物資集積場とし、輸送船として活躍した。
戦歴
呉への回航準備
東京湾内での航空公試では、各種艦載機の離着艦実験を行った。11月11日は零戦や天山艦上攻撃機などの在来機[105][106]、11月12日には横須賀航空隊により局地戦闘機・紫電改を艦上型に改造した「試製紫電改二(N1K3-A)」や流星艦上攻撃機、彩雲偵察機等による発着艦実験が実施され、いずれも成功を収めている[106]。これが「信濃」で航空機が発着艦を行った唯一の事例であった。それらの結果から、紫電改や流星・彩雲などの洋上基地として活用を期待された。
11月24日、連合艦隊司令長官豊田副武大将はGF電令550号にて「『信濃』及び第十七駆逐隊は、『信濃』艦長之を指揮し横須賀発、速やかに内海西部に回航すべし。出港の日時、松山沖泊地へ向かう航路は艦長之を定むべし」と命じた[107]。残された艤装や兵装搭載の実施と、横須賀地区の空襲から逃れるための呉海軍工廠回航を意味していた。これは横須賀海軍工廠の上空をB-29爆撃機が飛行しており、近日中に空襲があることが予測されていたことも関係している[108]。米軍が撮影した航空写真にも「信濃」の姿が映っていた[109]。ただし、米軍は戦艦「大和」の推測データや「武蔵」が沈んだという情報は持っていても、空母「信濃」について把握していなかった[110]。
「信濃」の呉回航を後押しした原因はもう一つ存在した。徴用工の多用による横須賀工廠の技術力を懸念した日本海軍は、呉海軍工廠で「信濃」の艤装工事を行うことを完成を検討していたのである[111]。海軍の打診に対し大和型一番艦・戦艦大和の造船主任である西島亮二海軍技術大佐は「信濃の残工事(艤装工事)は引き受ける」と意欲的だったため、海軍は「信濃」の呉回航を決定したという[111]。のちに西島は自らの発言を後悔することになった[111]。この時点に於いて「信濃」の内部では建造工事が続けられており、高角砲、噴射砲、機銃はほとんど搭載されていない(前述)。機関も12基ある缶(ボイラー)の内8基しか完成しておらず、最大発揮速力も20-21ノット程度という状態であった[112]。
呉海軍工廠へ回航に際して航空機は搭載されなかったが、代わりに特攻機の桜花を50機、貨物として搭載した[113]。艦上爆撃機(機種不明)を3機搭載したという証言や[114]、海洋特攻兵器震洋数隻を搭載したという説もある[115]。これについて「信濃の出撃が特攻にならなければいいが」という冗談があった[116]。
護衛の駆逐艦は第十七駆逐隊の陽炎型駆逐艦「浜風」(司令艦)、「磯風」、「雪風」の三隻だったが、既に海軍艦艇の水中捜索能力より米軍潜水艦の静寂能力が上回る状態であった。また、レイテ沖海戦以来まとまった上陸や休養もなく、艦乗員の疲労や練度不足により、見張りも完全とはいえなかった[117]。艦自体も、「磯風」と「浜風」はレイテ沖海戦の損傷で水中探査機が使えず、「浜風」はレイテ沖海戦で被弾し28ノット以上を出せない[118]。さらに第十七駆逐隊は、捷一号作戦から日本への帰投時に護衛していた戦艦「金剛」、同駆逐隊司令艦の駆逐艦「浦風」を米潜水艦「シーライオン」(USS Sealion,SS-315)に沈められている。第十七駆逐隊は潜水艦の待ち伏せを警戒して日本軍哨戒機の応援を受けられる昼間接岸移動を主張したが、阿部俊雄大佐は夜間の21ノット航行で米潜水艦を回避できると提案を却下している[119]。これは軍令部から対潜哨戒機を出せないという通達があり、「信濃」自身も1機の航空機も搭載していないという事情もあった[120]。また阿部は潜水艦の脅威よりも、日本近海で活動中の米軍機動部隊に襲撃されることを恐れたという見解もある[121]。議論の結果、「信濃」は「夜明け前に出航外洋航海」の進路を取った。万一米軍潜水艦が出現しても、満月に近い月のため発見しやすい事を考慮していた[122]。
最初の外洋航海
11月28日午後1時30分、巨大な空母「信濃」は横須賀を出港した。先頭は第十七駆逐隊旗艦「浜風」、中央に「信濃」、信濃右舷に「雪風」、左舷に「磯風」である[123]。先頭「磯風」、右「浜風」、左「雪風」という説もある[124]。艦隊は金田湾で時間調整したのち、午後6時30分に外洋へ出た[123]。艦内では機械室やガソリンタンク周辺で工事が続けられていた[125]。午後7時、「磯風」は米潜水艦の電波をとらえ、警戒を強める[126]。同様に「信濃」も探知し、阿部艦長は乗組員に警戒するよう通達を出した[127]。午後9時、「信濃」はレーダーで右後方に船舶を発見し、右にいた「雪風」に偵察を命じた[128]。調査に向かった「雪風」は『味方識別に応ぜざるも、乾舷高く、漁船と思われる』と報告したが、この漁船こそ米潜水艦「アーチャーフィッシュ」だった[129]。午後10時、艦隊の先頭にいた「浜風」は前方6,000mに並走するマスト2本の水上目標を発見する[130]。「浜風」は増速すると距離3,000mまで接近して照準を定めたが、「信濃」は『引き返せ』と命じた[131]。これは「護衛艦は敵潜水艦を深追いして直衛に隙間をあけない」という事前の取り決めによるものだった[131]。午後10時45分、「信濃」は右舷前方に浮上した米潜水艦を発見し、誰何信号を送った。「アーチャーフッシュ」も「信濃」のマストに10秒-20秒-10秒という赤色発光信号を確認し、護衛駆逐艦の攻撃を予想して不安に感じている[132]。「浜風」と「雪風」は砲撃態勢をとったが、阿部艦長は所在の暴露を恐れて発砲を認めていない[133]。この頃「信濃」艦内では、乗組員に汁粉が配られていた[134]。上甲板、艦中央部にあった通信室では、通信科の下士官兵達がオーストラリア・メルボルンから発信される対日プロパガンダ放送(日本語)を聴いて楽しんでいたという[135]。
アーチャーフィッシュの追跡
日本本土、静岡県浜名湖南100マイルで待機していたアメリカ海軍のバラオ級潜水艦「アーチャーフィッシュ」(USS Archerfish, SS-311)は、不時着B-29救援任務を切り上げ、商船を襲うべく東京湾へむかった[136]。午後8時30分、レーダーの修理が完了[137]。午後8時48分、ジョセフ・F・エンライト少佐/艦長は、「島が動いている」というレーダー士官の報告を元に空母「信濃」を発見した[138]。発見当初、「アーチャーフィッシュ」では「信濃」の甲板上に飛行機の姿を確認できなかったことなどから艦種を特定しかねており、タンカーだと考えていた[139]。しかし非常に大型の船であったことから、攻撃のために追尾することを決める。米潜水艦は浮上すると、最大全速19ノットで追跡を開始した[140]。浮上航走のうち、「アーチャーフィッシュ」は目標が飛鷹型航空母艦や空母「大鳳」とは異なる新型大型空母であることを確信する[141]。これは「信濃」の艦首の形状を観察し、「大鳳」にはない開放格納庫を確認したためである[142]。午後10時45分、「アーチャーフィッシュ」は彼らに向けて1隻の駆逐艦が距離3,000mまで突進してくるのを発見し[143]、潜航退避する寸前まで追い詰められた[144]。だが「信濃」のマストに赤色信号が見えると駆逐艦は引き返し、米潜水艦は難を逃れた[145]。エンライト艦長の手記では「磯風」としているが[146]、前述のように「浜風」の可能性が高い[131]。午後11時30分、エンライト艦長は「信濃」を捕捉できない可能性を考慮し、友軍潜水艦の応援を暗に求め、最高司令部宛に以下の無電を発信する[147]。
「アーチャーフィッシュより太平洋艦隊総司令部、太平洋方面潜水艦隊司令部ならびに日本領海のすべての潜水艦宛。我れ大型空母を追跡中、護衛駆逐艦3隻あり、位置北緯32度30分、東経137度45分、速力20ノット」。「信濃」に傍受される危険をおかした無線(実際に傍受された[148])に対するアメリカ潜水艦隊司令部の返電は「追跡を続けよ、ジョー、成功を祈る」。ニミッツ提督司令部からは「相手は大物だ。君のバナナは今ピアノの上にある。逃がすな」だった[149]。
エンライトが期待していた増援の潜水艦は手配されず、結局「アーチャーフィッシュ」は単艦での「信濃」追跡を続行した。11月29日午前2時40分には「目標の左舷8マイルにして追跡中、魚雷発射の射点に占位し得るや疑問なり」と発信した[150]。米潜水艦が打電したように、「信濃」は全速の20ノットで航行しており、攻撃は困難であった。だが数時間に渡る浮上航走・追従の結果、之字運動の関係で「信濃」が突如転進し、幸運にも(不幸にも)、「信濃」右舷前方という発射点につくことができた[151]。さらに日付変更直前、「信濃」はプロペラ軸受けが過熱し、速力を18ノットに落としていたという[152]。「アーチャーフィッシュ」も「信濃」の速力低下を確認していた[153]。
アーチャーフィッシュの攻撃
「アーチャーフィッシュ」襲撃時点の日本軍護衛陣形には諸説あり、先頭「雪風」、中央「信濃」、右「浜風」、左「磯風」という浜風水雷長説や、「磯風」先頭、右「浜風」、左「雪風」という雪風砲術長説、「浜風」先頭、右「雪風」、左「磯風」という雪風水雷長説がある[154]。この混乱は「信濃」が之字運動をする関係で時刻によって駆逐艦の位置が常に変化しているためであり、外洋ではおおむね司令艦「浜風」が先頭を航行していたという[155]。
11月29日午前3時13分、浜名湖南方176kmにて「アーチャーフィッシュ」は魚雷6本を発射した[156]。日本側は「アーチャーフィッシュ」の存在には気付いており、午前3時5分には「信濃」が護衛艦に潜水艦警報を発し[157]、護衛駆逐艦も潜水艦と思われる電波を傍受したが、位置の特定はできていなかった[158]。
1,400ヤード(1,280m)の距離から発射された魚雷は、調停深度水面下10フィート(3m)で6本。3本ずつ角度をずらせる150%射法発射された[159]。これは最初の3本の破孔に次の魚雷が飛び込むことを期待したと、「アーチャーフィッシュ」の艦長は手記に記載している。また魚雷は重量物が水線よりも上に集中している不安定な空母を転覆させるために、命中深度を通常より浅く設定して発射された[160]。午前3時16-17分、魚雷4本が「信濃」の右舷に命中[161]。「アーチャーフィッシュ」は6本命中を主張[162]。命中深度を浅く設定された魚雷は、「信濃」右舷後部のコンクリートが充填されたバルジより浅い部分に命中し、ガソリン貯蔵用空タンク、右舷外側機械室付近、3番罐室即時満水、亀裂で隣の1番罐室・7番罐室に浸水、空気圧縮機室が被害を受けた[163]。最初の報告では、後部冷却機室、機関科兵員室、注排水指揮所近辺、第一発電機室などに浸水、右舷6度傾斜というものである[164]。第三海上護衛隊司令部で被害無線を傍受。命中後も「信濃」は速力を落とさず右舷に9度傾斜しながら20ノットで現場から退避したため、「アーチャーフィッシュ」は北西に向かう「信濃」を追撃することは出来なかった[165]。随伴駆逐艦から爆雷も投下されたが、「アーチャーフィッシュ」は約15分間、爆発14回を記録し、脅威にはならなかった[166]。「信濃」は3時30分に信号で被雷したことを告げた[167]。
沈没
書類上、「信濃」は軍艦籍に入って完成艦として扱われているが、実際は建造中の未完成艦だった。通路にはケーブル類が多数放置されており、防水ハッチを閉められなかった[168]。防水ハッチを閉める訓練すら、軍令部が工期を急がせたため行ったことがなかった[169]。かろうじて閉めることが出来た防水ハッチも、隙間から空気が漏れている[170]。さらに大和型戦艦の艦内は迷路同然で、慣熟するのに1年では無理とされる[168]。乗艦して数ヶ月程度の者では、自分の現在位置すら把握できない[171]。それでも、応急員達は注排水指揮所からの指令によって反対側への注水作業を実行した。少なくとも3,000tの注水実行が報告され、傾斜は若干回復した[172]。しかし、注水開閉弁が故障してそれ以上の注水が不可能となる[172]。「信濃」はただちに潮岬方面に向かったが[173]、浸水は止まらず、排水ポンプも故障して次第に傾斜が増大した[172]。戦闘詳報では「午前5時30分、速力11ノット」と記録している[174]。機関科兵の回想では午前5時ごろに右舷タービンが停止[175]。午前5-6時、復水器が使用できなくなりボイラー給水用の真水が欠乏したため、午前8時前には洋上で完全に停止するに至った[176]。「信濃」は「〇八〇〇、本艦傾斜のため運転不能となる。曳船用意」と発信している。海水を使用してボイラーを炊くことも検討されたが、一度海水を使うと補修に多大な手間がかかることより見送られた[177]。艦前部にある予備真水タンクはパイプが切断されており、役にたたなかった[178]。阿部は工廠関係者を飛行甲板にあげるよう命じたが、「工廠関係者飛行甲板」の命令が伝令により「総員飛行甲板」となり、艦内は混乱する[179]。一方、この命令誤認のため艦底にいた応急作業員や機関科兵が脱出できたという一面もある[180]。
午前7時45分、「信濃」は「磯風」と「浜風」に曳航のため接近せよとの手旗信号をおくった[181]。阿部艦長自ら「信濃」艦首で作業を監督したが、駆逐艦2隻では浸水して沈下した信濃を曳航することができずワイヤが切れてしまった。そこで駆逐艦の後部高角砲塔にワイヤをグルグル巻きにして再度曳航を試みたが、またもワイヤが加重に耐えれず切断してしまい、曳航は断念されるに至った[182][183]。午前8時の時点で上甲板が水で洗われており、乗組員は格納庫甲板の排水に駆りだされた[184]。午前8時30分、注排水指揮所が水没し、稲田文雄大尉ら9名が水死した[185]。
注排水指揮所の全滅と曳航作業が失敗した事で「信濃」の喪失は確定した[186]。9時32分、「信濃」は御真影(昭和天皇の写真)をカッターに移し、まだロープで結ばれていた「浜風」に移そうとしたが[187]、悪天候のためカッターは「信濃」右舷バルジに乗り上げて転覆した[188]。10時25分、傾斜35度に達し、軍艦旗降下[189]。10時28分、総員退去用意[174]。10時37分、総員退去令[190]。この時の艦長命令は「各自自由に行動せよ」だったという幹部士官の証言がある[191]。10時57分[190](55分説あり)、潮岬沖南東48kmの地点で「信濃」は転覆し[190]、艦尾から沈没した[192]。
空母「信濃」の艦歴は、世界の海軍史上最も短いものとなった。出港してから、わずか17時間である[193]。攻撃そのものでは殆ど死傷者を出さなかったにもかかわらず、総員退去の命令が艦内放送装置が使えず巨大な艦内に伝わらなかったり、飛行甲板のエレベーター穴に吸い込まれたり、低温の海での漂流と強い波浪により[194]、多数の乗組員が行方不明となった[195]。沈没する「信濃」に多数の兵がしがみついていたのも目撃されている[196]。阿部俊雄艦長は艦首で総員退去命令を出したあと[197][194]、「信濃」と運命を共にした[196]。一方、爆薬や燃料を搭載していない特攻兵器"桜花"が海面に浮かび、多くの乗組員が掴っている光景が救助作業中の「浜風」から目撃された[198]。戦後、武田が桜花開発者の1人に会って桜花が人命救助に役立ったことを話すと、技術者は複雑な表情を浮かべたという[198]。生存者は準士官以上55名、下士官兵993名、工員32名[199]。戦死者は「信濃会」の調査によると791名(工員28名、軍属11名を含む)[200]。「信濃」御真影は「浜風」に奉安された[201]。対空ロケット砲装備のため呉で待機していた技術者達は、入港した第十七駆逐隊から「信濃」沈没を知らされ、海軍の終焉を実感している[202]。
沈没点は北緯33度06分、東経136度46分[194]。だが現場が6,000 - 7,000mの深海のため「信濃」の船体は未だ発見されていない。
沈没の原因
建造の練度不足のため十分な防水作業も出来ず、艦搭乗員も内部に精通したものが皆無だった[203]。配属されてから長い者で数ヶ月という状態では、被弾後に対しても突然の事態に混乱し、右往左往するばかりで、満足に応急処置すら実行できない状況であった。また傾斜によって左舷の注排水弁が海中から上がってしまい、追加の注水が出来なかったという推論もなされている[204]。これには反対意見もある。その注排水についても、出港前に傾斜復元テストは行われず、また電源がどの程度の震動で故障するかも不明だった[205]。実際に排水ポンプは故障で作動しなくなっている[173]。突貫工事による影響で、ねじ山が根元まで切られていないボルトや2cmも隙間の空く防水ハッチ[206]、右舷艦尾に命中した魚雷の衝撃で艦首部分の甲板リベットから浸水する[207]、さらに隔壁の気密検査が未実施など、竣工とは名ばかりの未完成艦であり、艦長の判断以前に魚雷命中の時点で沈没が確定されていたといってよい惨状だった[208]。また魚雷の深度が約3メートルと浅く、命中した場所が艦尾寄りであったため、結果として防御用のバルジを避ける形にもなっていた。
牧野茂(大和型戦艦設計者)は、「大和型戦艦は1本目の魚雷命中で戦列を離れず、2本目でも戦闘力を持続し、3本目では沈没することなく基地に帰投可能」という方針で浸水計算がなされており、4本目については十分な検討がなされていなかったと述べている[209]。乗組員の訓練不足と慣熟不足、未完成艦だったことを考慮しつつ、牧野は「信濃の沈没責任全てが防水工事の不備にもとづくものであると断定するには忍びない」としている[209]。
当時、海上護衛総司令部参謀を務めていた大井篤大佐は「火の用心はあまりしないで、消防夫が悪いから丸焼けにされたとうらみを言っているように聞こえて仕様がなかった。根本的には航海計画が悪かったのだ。」と述べている[210]。軍事評論家の伊藤正徳は、敵潜出没海面に3隻の駆逐艦の護衛をつけただけの夜間航海計画を立案した軍令部の責任が大きいと指摘している[211]。「雪風」下士官の豊田義雄は、護衛駆逐艦側の問題として、第十七駆逐隊司令艦「浦風」の沈没と司令の戦死により指揮系統が混乱しており、各艦や「信濃」との連携が十分ではなかったと回想した[212]。
12月28日、東京で三川軍一中将のもと「信濃」の沈没原因を調査するための『S事件調査委員会』が開かれた[213]。「信濃」は事故ではなく敵の攻撃を受けて沈没したため、建前上は査問ではなく調査の形がとられたが、委員会に出席した「信濃」生存者は彼らを詰問する軍令部や工廠関係者に対し「脆い艦を作った造船関係、気密試験も省略させて出港させた軍令部、駆逐艦3隻だけの護衛で出港させた上層部」に対する怒りを抑えられなかったという[214]。会議の結果、責任を問われる当事者が多すぎたため、表立った処分を受けた者は誰もいなかった[215]。
アーチャーフィッシュの功績
「アーチャーフィッシュ」の乗員は、非常に大きな空母を攻撃したことは認識していたが、撃沈の確信を持つことは出来なかった[216]。またアメリカ軍はB-29からの偵察写真に「信濃」が写っていたのにもかかわらず当時「信濃」の存在を把握しておらず、「アーチャーフィッシュ」の報告も半信半疑の扱いであった。上官コーバス中佐は日本の暗号解読で判明した「信濃」という艦名から、「信濃川」の名をつけた巡洋艦改造空母を撃沈したと判断し、それで満足しろとエンライト艦長を説得している[217]。エンライトは「信濃」のスケッチを提出し、2万8000トン空母撃沈認定をもらった[217]。当時世界最大の空母を撃沈したと乗組員達が知るのは、戦後のことである[218]。「信濃」撃沈の功績に対して、殊勲部隊章が「アーチャーフィッシュ」に与えられた。現時点において、「信濃」は潜水艦に撃沈された最も巨大な船である[218]。
その他
- 信濃に搭載される予定だった主砲塔前楯は戦後アメリカ軍が技術調査で押収してアメリカ合衆国本土に持ち帰った。主砲前面の厚さ65センチの装甲板は至近距離から発射された40センチ砲によって破壊され、その残骸がワシントン海軍工廠の公園に展示されており、現在も見学することができる。日本より返還要求があったが拒否された[219]。
- 「信濃」用の46センチ砲身は7本完成しており、うち2本がアメリカ軍に押収されアメリカ本土に運ばれたが、試射はされず分解されスクラップにされたといわれる[219]。残りの砲身は武器に転用されず、大和、武蔵とも、砲身交換をすることもなく沈没したこともあって、日本国内で破壊された。
- 「信濃」の写真は、本項目にも使われているものと、米軍の横須賀偵察時の空撮での不鮮明な状態の二枚しか現存せず、細かい部分については不明な点も多い。
- 「信濃」は横須賀海軍工廠で建造された、最後の日本海軍艦艇となった。建造資材が欠乏する中、文字通り工廠中の資材をかき集めて建造されたといわれる。
- 「信濃」を建造した6号乾ドックは、その後在日米軍のアメリカ空母や各種艦船の整備に使用され、日米関係上から日本人は基本的に立ち入り禁止となっている[220]。
艦長
- 艤装員長
- 阿部俊雄 大佐:1944年8月15日 - 1944年10月1日
- 艦長
- 阿部俊雄 大佐:1944年10月1日 - 11月29日戦死
脚注
文献
主要参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C08011233600「艦艇特務艦艇籍一覧表」
- Ref.C08030147000「昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)」
- Ref.C08030585900「昭和19年12月19日 軍艦雲龍戦闘詳報」
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千早正隆監修。エンライトは「アーチャーフィッシュ」艦長。日本側記述は豊田穣『空母信濃の生涯』を参考文献としている。 - テンプレート:Cite book
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「沈みゆく信濃」(民鐘出版、1947年)を改訂。著者の体験談だが、一部人名を仮名としてある。
参考文献
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牧野は大和型戦艦設計者の一人。信濃の空母改造にも携わった。 - 雑誌「丸」編集部『テンプレート:Small 日本の軍艦 第4巻 テンプレート:Small』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0454-7
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- 『テンプレート:Small 戦艦大和』(学習研究社、1998年) ISBN 4-05-603432-X
- テンプレート:Cite book
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- 『テンプレート:Small 日本の航空母艦パーフェクトガイド』(学習研究社、2003年) ISBN 4-05-603055-3
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- テンプレート:Cite book
下巻(2009年版)に「浜風」の磯山航海長、武田水雷長の「信濃」護衛時談話を掲載。 - テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- 山本重久海軍技廠実験部員「テストパイロット試乗機」
関連項目
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- ↑ 2.0 2.1 #安藤 信濃11-14頁
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- ↑ #歴史群像22信濃167頁、神谷武久(工員)談。
- ↑ #安藤 信濃11-14頁、#歴史群像22信濃82頁
- ↑ 『日本の航空母艦パーフェクトガイド』109頁「信濃の搭載機」
- ↑ #歴史群像22信濃82頁、『日本の航空母艦パーフェクトガイド』109頁「信濃の搭載機」
- ↑ #牧野ノート204頁
- ↑ #諏訪 撃沈15頁、#海軍技術研究所251頁
- ↑ 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』(光人社、1994)229頁、#歴史群像22信濃161頁
- ↑ #豊田 信濃生涯308頁、諏訪繁治(兵曹、通信科)
- ↑ #川崎戦歴87頁、#歴史群像22信濃80頁
- ↑ 60.0 60.1 60.2 #牧野ノート203頁
- ↑ #相良 信濃98頁、#歴史群像22信濃100頁
- ↑ #安藤 信濃117頁、#牧野ノート201頁
- ↑ #相良 信濃110頁
- ↑ #牧野ノート195頁
- ↑ #相良 信濃102頁
- ↑ #豊田 信濃生涯131頁、#諏訪 撃沈15頁、#安藤 信濃131頁
- ↑ 辺見じゅん・原勝洋 編『戦艦大和発見』(角川春樹事務所ハルキ文庫、2004年)69頁
- ↑ 小林昌信ほか『戦艦「大和」檣頭下に死す』22頁
- ↑ #豊田 信濃生涯129頁。正田真五(兵曹長、操舵長)
- ↑ #安藤 信濃148頁
- ↑ #エンライト 信濃!66頁
- ↑ #相良 信濃98頁
- ↑ #安藤 信濃115-116頁
- ↑ #エンライト 信濃!66、352頁。千早正隆訳「私が設計したマンモス空母信濃の秘密」丸1960年11月号より孫引き。
- ↑ 雑誌 丸 (雑誌) 2011年 2月号
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』136-137頁
- ↑ 詳細は当該項目(紫電改(N1K3-A)の記述)を参照されたい。
- ↑ #歴史群像22信濃ワイド折込み、水野行雄『空母「信濃」のリサーチについて』
- ↑ #歴史群像22信濃・信濃1/300スケールモデル解説より、163-164頁
- ↑ #歴史群像22信濃163頁、「横須賀海軍工廠外史」等の孫引き
- ↑ 81.0 81.1 81.2 #歴史群像22信濃83頁
- ↑ #安藤 信濃119頁
- ↑ #安藤 信濃121頁、#相良 信濃102頁
- ↑ #豊田 信濃生涯114頁、#歴史群像22信濃83頁
- ↑ 「艦艇特務艦艇籍一覧表」pp.1
- ↑ #豊田 信濃生涯115頁、#安藤 信濃129頁「徹底的に簡略化し突貫工事」
- ↑ #相良 信濃
- ↑ #安藤 信濃147頁「劣悪な作業環境下の重労働」
- ↑ #安藤 信濃149頁、神谷武久(学徒報国隊員、二等海佐)
- ↑ #安藤 信濃181頁
- ↑ #牧野ノート205頁、#相良 信濃51頁
- ↑ #安藤 信濃131頁
- ↑ #豊田 信濃生涯122頁、#安藤 信濃168頁
- ↑ #安藤 信濃169頁、#豊田 信濃生涯136頁。沢本倫生(中尉、甲板士官)
- ↑ #豊田 信濃生涯137頁
- ↑ #豊田 信濃生涯138頁、#歴史群像22信濃100頁
- ↑ #豊田 信濃生涯141頁、#安藤 信濃171頁、#歴史群像22信濃100頁
- ↑ 佐藤和正「空母入門」228頁「悪霊にとりつかれた『信濃』」
- ↑ #安藤 信濃167-172頁「第7章 兇運を暗示した進水式」
- ↑ #豊田 信濃生涯144頁、#安藤 信濃176頁
- ↑ #豊田 信濃生涯202頁
- ↑ #相良 信濃22頁
- ↑ #豊田 信濃生涯190頁
- ↑ 「軍艦雲龍戦闘詳報」pp.6
- ↑ 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』(光人社、1994)227頁
- ↑ 106.0 106.1 #安藤 信濃179-180
- ↑ #豊田 信濃生涯208頁、#安藤 信濃189頁
- ↑ #豊田 信濃生涯143、191頁、#安藤 信濃189頁
- ↑ #豊田 信濃生涯33頁。「信濃」の写真。
- ↑ #豊田 信濃生涯192頁、#エンライト 信濃!]52、97-98頁
- ↑ 111.0 111.1 111.2 前間『戦艦大和誕生』上巻432-433頁
- ↑ #豊田 信濃生涯198-199頁、#歴史群像22信濃100頁
- ↑ 文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』(文藝春秋、2005年)337頁
- ↑ #武藏下426頁、沢本倫生(信濃甲板士官)
- ↑ #豊田 信濃生涯211頁、#安藤 信濃186頁
- ↑ #豊田 信濃生涯212頁
- ↑ #豊田 信濃生涯214頁、#雪風ハ沈マズ新装388頁
- ↑ #豊田 信濃生涯27頁、#安藤 信濃189頁
- ↑ #武藏下423-245頁、#豊田 信濃生涯215-217頁、#エンライト 信濃!75頁、116-117頁
- ↑ #エンライト 信濃!118頁
- ↑ #豊田 信濃生涯37頁、#雪風ハ沈マズ新装388頁
- ↑ #エンライト 信濃!119頁
- ↑ 123.0 123.1 #武藏下426頁
- ↑ #エンライト 信濃!73頁
- ↑ #安藤 信濃195頁
- ↑ #井上 磯風251頁
- ↑ #エンライト 信濃!75-77頁
- ↑ #武藏下427頁、#豊田 信濃生涯224頁。沢本(中尉、信濃甲板士官)、#雪風ハ沈マズ新装389頁。柴田(大尉、雪風艦橋当直)
- ↑ #豊田 信濃生涯225頁、#安藤 信濃195頁、#雪風ハ沈マズ新装389頁
- ↑ #武藏下427頁
- ↑ 131.0 131.1 131.2 #武藏下429頁
- ↑ #豊田 信濃生涯229頁
- ↑ #井上 磯風251-253頁
- ↑ #信濃少年兵 67頁、#豊田 信濃生涯230-231頁
- ↑ #諏訪 撃沈46-51頁「デマ放送」
- ↑ #豊田 信濃生涯16頁220頁、#エンライト 信濃!]80-81頁
- ↑ #エンライト 信濃!]88頁
- ↑ #豊田 信濃生涯224頁、#エンライト 信濃!]89-90頁
- ↑ #豊田 信濃生涯17頁。豊田のエンライトに対する取材より。
- ↑ #豊田 信濃生涯220頁
- ↑ #豊田 信濃生涯28頁
- ↑ #エンライト 信濃!144-145頁
- ↑ #エンライト 信濃!155頁
- ↑ #エンライト 信濃!157-158頁
- ↑ #エンライト 信濃!159頁
- ↑ #エンライト 信濃!167頁
- ↑ #豊田 信濃生涯233頁
- ↑ #エンライト 信濃!179-180頁。山岸泰忍(電信兵曹)
- ↑ #豊田 信濃生涯234頁
- ↑ #豊田 信濃生涯235頁
- ↑ #豊田 信濃生涯237頁、
- ↑ #エンライト 信濃!174-177頁。三浦(機関少佐)
- ↑ #エンライト 信濃!215-216頁
- ↑ #雪風ハ沈マズ新装390頁、#豊田 信濃生涯217-218頁
- ↑ #雪風ハ沈マズ新装389頁
- ↑ #エンライト 信濃!259-260頁
- ↑ #エンライト 信濃!239頁
- ↑ #豊田 信濃生涯248頁
- ↑ #エンライト 信濃!295頁
- ↑ #豊田 信濃生涯239頁
- ↑ #豊田 信濃生涯244頁
- ↑ #エンライト 信濃!287頁
- ↑ #安藤 信濃211頁、#エンライト 信濃!263-264頁
- ↑ #豊田 信濃生涯246頁
- ↑ #安藤 信濃203頁
- ↑ #豊田 信濃生涯315頁
- ↑ 「第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)」p.27
- ↑ 168.0 168.1 #安藤 信濃185頁
- ↑ #豊田 信濃生涯195頁
- ↑ #豊田 信濃生涯245頁
- ↑ #豊田 信濃生涯193頁、三上(内務長)
- ↑ 172.0 172.1 172.2 #安藤 信濃204頁、#豊田 信濃生涯247頁
- ↑ 173.0 173.1 #豊田 信濃生涯247頁
- ↑ 174.0 174.1 「第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)」p.28
- ↑ #豊田 信濃生涯266頁。上野四郎(右舷外側機関室)。
- ↑ #豊田 信濃生涯261、280頁
- ↑ #豊田 信濃生涯273頁
- ↑ #エンライト 信濃!303頁
- ↑ #安藤 信濃212頁、#豊田 信濃生涯268頁、282頁
- ↑ #エンライト 信濃!277頁
- ↑ #井上 磯風258頁、「第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)」p.28
- ↑ #安藤 信濃215頁、#雪風ハ沈マズ新装393頁、#信濃少年兵81頁
- ↑ 第17駆逐隊戦闘詳報、『雪風ハ沈マズ』等では磯風と浜風が曳航索を渡したが千切れてしまったと伝えられている。反面、「雪風」下士官の豊田義雄(内務・運用)は『世界奇跡の駆逐艦』にて、以上の記述は全くのフィクションであり、浜風、磯風が信濃の両舷に接舷しこれを支え、雪風が一隻で曳航すると言う無謀な作戦であり、曳航策を受け渡しする前に作業は放棄されたと証言した(p.371-372)。ただし豊田は、どの指揮系統の命令であったか、また命令の詳細についても明確な記憶はないとしている。
- ↑ #信濃少年兵79頁
- ↑ #豊田 信濃生涯270頁
- ↑ #安藤 信濃215頁
- ↑ #武藏下432頁「第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.28
- ↑ #安藤 信濃216頁、#豊田 信濃生涯286頁
- ↑ #安藤 信濃218頁
- ↑ 190.0 190.1 190.2 「第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)」p.29
- ↑ #安藤 信濃220頁
- ↑ #エンライト 信濃!322-323頁、#安藤 信濃223-225頁、#奇跡の駆逐艦374-375頁
- ↑ #諏訪 撃沈25-26頁、#エンライト 信濃!379頁
- ↑ 194.0 194.1 194.2 #安藤 信濃223-225頁
- ↑ #エンライト 信濃!309、313頁
- ↑ 196.0 196.1 #エンライト 信濃!322-323頁、#安藤 信濃223-225頁
- ↑ #諏訪 撃沈129、143、171頁
- ↑ 198.0 198.1 #武藏下433頁、武田水雷長
- ↑ 「第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)」p.30
- ↑ #安藤 信濃226頁、#豊田 信濃生涯318頁
- ↑ #豊田 信濃生涯303頁、「第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)」p.30
- ↑ #海軍技術研究所252頁
- ↑ #豊田 信濃生涯197頁#安藤 信濃185頁
- ↑ #豊田 信濃生涯332頁
- ↑ #豊田 信濃生涯210頁
- ↑ #相良 信濃192頁
- ↑ #豊田 信濃生涯264頁
- ↑ #安藤 信濃231頁、千早正隆(海軍参謀)
- ↑ 209.0 209.1 #相良 信濃194-195頁、#牧野ノート207頁
- ↑ 学研M文庫『海上護衛戦』357頁
- ↑ #相良 信濃195-196頁
- ↑ #奇跡の駆逐艦371頁
- ↑ #相良 信濃200頁
- ↑ #豊田 信濃生涯329-331頁、 #相良 信濃205-2026頁
- ↑ #エンライト 信濃!340頁
- ↑ #豊田 信濃生涯317頁
- ↑ 217.0 217.1 #エンライト 信濃!329-332頁
- ↑ 218.0 218.1 #エンライト 信濃!337-338頁
- ↑ 219.0 219.1 『テンプレート:Small大和型戦艦2 テンプレート:Small』(学習研究社、1998年) ISBN 4-05-601919-3 原勝洋「米海軍の16インチ徹甲弾で射抜かれた戦艦「信濃」?の主砲塔前楯」 p103~p108、また多賀一史「ワシントン海軍工廠の大和型砲楯前鈑」 p140~p142
世界の艦船 2010年2月号増刊 「戦艦大和 100のトリビア」 (出版共同社) p140~p141 「第6章 戦後譚 91 アメリカに残る大和型の装甲鈑」 (PDFファイル) - ↑ #歴史群像22信濃96頁