北号作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:参照方法

北号作戦(ほくごうさくせん)とは、太平洋戦争大東亜戦争)末期、1945年2月10日から20日にかけて行われた日本軍の撤収、及び輸送作戦である。日本海軍の歴史において、事実上最後の成功を収めた作戦。

この作戦の半月前、南シナ海においてこの作戦と同様の航路を取った「ヒ86船団」が、アメリカ海軍機動部隊に捕捉されてほぼ全滅しており、極めて危険な作戦で最悪は部隊の全滅も覚悟されていたが[1]、まったく損害を受けずに完全な成功を収めたことで、キスカ島撤退作戦と同様に「奇跡の作戦」などと評される。

背景

南シナ海における連合軍の通商破壊作戦の本格化によって、日本の軍需・民需輸送船の損害が増大し、南方からの資源輸送が極めて困難となっていた。またシンガポールに在泊していた水上戦力が日本本土と切り離され、これらの戦力が本土防衛に参加できず遊兵化する恐れがあった。そのため、これらの高速・重武装の戦闘艦艇を用いて、資源輸送を行うこととした。ただし、戦闘艦艇といえども潜水艦や航空機の支援もないことから安全な航海は望めない状況で、3ヶ月前の1944年11月21日には戦艦金剛」が日本本土への帰還中に潜水艦に撃沈され、1944年12月13日にも同じく日本本土に戻ろうとした重巡洋艦妙高」が雷撃を受け大破し帰国を断念していた。

作戦名は、同時期に一般輸送船により行われていた資源強行輸送の「南号作戦」に対応して命名されたものである。

完部隊

参加艦隊は、第四航空戦隊の戦艦「日向」、「伊勢」と、軽巡洋艦大淀」、第二水雷戦隊駆逐艦朝霜」、「初霜」、「」で構成されており、旗艦は第四航空戦隊旗艦「日向」で、同戦隊司令官の松田千秋少将が指揮した。松田少将はこの部隊を「完部隊」と命名、これは「任務を完遂する」という意味を込めてである。

部隊はシンガポールにて、航空燃料用のガソリン生ゴムなどの当時稀少な物資を目一杯積み込んだ。航空戦艦に改造されていたものの搭載機を持たなかった「日向」・「伊勢」では(搭載機が無い経緯は伊勢型戦艦を参照)、艦後部の広大な飛行機格納庫が物資の主要積載場所となった。駆逐艦はもとより、「日向」・「伊勢」の両戦艦も、甲板上にまで可燃性の高いガソリンを詰めたドラム缶多数が搭載されたため、たとえ軽微な攻撃であっても被弾すれば極めて危険な状態だった。

搭載物資は以下の通りである。「日向」と「伊勢」はそれぞれ、航空揮発油ドラム缶5000個、航空機揮発油タンク内100トン、普通揮発油ドラム缶330個、ゴム520トン、錫820トン、タングステン50トン、水銀30トン、輸送人員約500名。大淀は、輸送人員159名、ゴム50トン、錫120トン、亜鉛40トン、タングステン20トン、水銀20トン、航空揮発油ドラム缶86個、航空機揮発油タンク内70トン。

作戦行動

松田千秋によれば、燃料を少しでも節約するために艦隊速力を16ノットに抑えた[2]。完部隊は1945年2月10日にシンガポールを出航。すでに護衛戦闘機哨戒機などの支援は望めない状況だった。完部隊はフィリピンのマニラ方面に突入すると見せかけたのち、北上して日本本土へ向かう[2]。アメリカ軍は作戦を暗号解読で察知し、付近の自軍に迎撃命令を発していた[3]

途中何度かアメリカ陸軍航空隊機による空襲や3隻の潜水艦(「バーゴール」、「ブロワー」、「フラッシャー」)による接触・攻撃を受ける[4][5]。2度にわたるアメリカ軍機による攻撃には、2度とも近隣に発生していたスコールに隠れて攻撃を回避することに成功した。松田少将以下、各艦の臨機応変な対応が功を奏し、このほかの連合軍の攻撃もすべて回避できた。2月20日、完部隊は部隊名の命名意図のとおり無傷でに到着し、輸送作戦は完璧な成功を収めた。

結果

連合艦隊司令部などの海軍上層部では「半数戻ってくれば上出来」と予測していたが、部隊がまったく損害を受けず全艦無事に帰還したことを知り、狂喜乱舞したとされる。松田も、軍令部の富岡定俊少将から感謝されたと回想している[6]。本作戦は連合国軍にとっても意表を突かれた結果であり、戦後、松田がアメリカ海軍第七艦隊の参謀へ本作戦について訊ねたところ「いや、あれはすっかりやられた」という答えが返ってきたという。

しかしながら6隻の艦での輸送でありながら、物資の量としては中型貨物船1隻分に過ぎなかった。専用の輸送船ではない以上は仕方ないことであるが、この程度の量の物資の輸送に成功したことを狂喜せねばならないこと自体が、当時の日本の窮状を示していたと言える。 これが戦中の日本に外地から持ち込まれた最後の燃料であったと言われる。

この後、戦艦「伊勢」「日向」は、港に係留され浮き砲台とされ、二度と出撃する事は無かった。両艦には相当の燃料が残っており、これらは大和型戦艦大和」に移された[6]。「大和」はこの燃料を元に菊水作戦に参加し、坊ノ岬沖海戦に臨んだ[6]

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 作戦前、「完部隊」司令官・松田千秋少将は第十方面艦隊司令長官・福留繁中将から「二度と諸君らに相見えることは無いだろう」と告げられていた。『丸』
  2. 2.0 2.1 #海軍反省会2156頁
  3. 機動部隊は硫黄島の戦いに投入されるため、陸軍の第五航空軍と潜水艦部隊(26隻)が迎撃に向かった。『丸』
  4. 攻撃を行った潜水艦は「バーゴール」と「ブロワー」だけで、しかも失敗に終わったため、「完部隊」に損害は無かった。さらに「フラッシャー」も浮上攻撃中に「伊勢」の主砲により撃退される。これは日本戦艦が主砲で水上目標を撃退した最後の事例となった。『丸』
  5. 米側記録では、砲撃を行った戦艦は日向で、撃退されたのは「バッショー」となっている。
  6. 6.0 6.1 6.2 #海軍反省会2157頁

参考文献

  • 加藤寛 「奇蹟を呼び起こした人艦一体の物資輸送 『伊勢』『日向』の北号作戦」『歴史群像』2004年10月号 No.67、学習研究社、pp.168-177。
  • 大塚好古「ハイブリッド戦艦「伊勢」型の無念」『』2008年12月号(通巻七五二号)、潮書房、90-95頁
  • テンプレート:Cite book

関連項目

テンプレート:太平洋戦争・詳細 テンプレート:Campaignbox フィリピンの戦い (1944-1945年) テンプレート:Link GA