佐藤嘉洋
佐藤 嘉洋(さとう よしひろ、1981年1月25日 - )は、日本のキックボクサー。愛知県名古屋市出身。元WKA世界ムエタイウェルター級ならびに、元WPKC世界ムエタイスーパーウェルター級王者。名古屋JKファクトリー所属。マネージメント先はF.O.L Sports Tokyo(エフ・オー・エルスポーツトウキョウ)。
ムエタイルールではガオラン・カウイチットやシェイン・チャップマン等の実力者に勝利し、世界タイトルも2つ獲得した。また、オランダの『スーパーリーグ』で日本人キックボクサーとして初勝利を飾る等の実績を持つ。
人物
名城大学附属高等学校を経て、名城大学商学部(現:経営学部)卒業。
日常生活では眼鏡を掛けているが、車の免許を取得出来るだけの視力はあるので、試合時は当然のことながら裸眼である。
2005年頃から、オンライントレードによる株式投資を行っていたが、2006年1月のいわゆるライブドア・ショックによる株価暴落を受け、「今までの儲けが全部無くなってしまった。」とインタビューで語り話題となった[1]。
実家は喫茶店。郷土愛が強く、現在も愛知県に在住しており、地元にある整骨院『ぶる〜と整骨院』のオーナーも務めている。記者会見や試合後のマイクパフォーマンスでは、「愛を知る県、愛知県から来ました佐藤嘉洋です。」を常套句にしていて、得意技の一つである右ストレートに「愛知拳」と命名した[2]。
2007年11月29日に同郷の一般人女性と入籍[3]、同年12月9日に結婚披露宴を行った[4]。2010年1月9日に、第一子となる男児が誕生した[5]。
かつて魔裟斗、武田幸三、小比類巻貴之、宍戸大樹の4人を倒さなければ「日本人最強」を証明出来ない、とインタビューに答えていた[6]。中でも魔裟斗に対しては並々ならぬ執着心を見せていた。
交友関係
佐藤のファンだというサッカー選手の小野伸二とは、オランダのスーパーリーグ時代に交流を深めた(煽りVTRより)。また、実家の喫茶店にJリーグ・名古屋グランパスエイトの楢崎正剛が来店したり、『ぶる〜と整骨院』にも、楢崎と同じグランパスに所属していた本田圭佑等のスポーツ選手やタレントが多く来店している。
インディーズ系バンドマンの友人が多く、グラビアアイドルの夏川純とはお互いの家に泊まりに来るほど仲が良いが、佐藤自身は熊田曜子のファンである。
正道会館所属のK-1選手・安廣一哉とは年賀状のやりとりをしている。
ファイトスタイル
- ローキックとパンチ主体のファイトスタイルを持ち、同じ個所を執拗に攻め続けて相手選手にダメージを蓄積させる戦法を持つ。また、手数も多く、タレントの関根勤は佐藤の試合映像を分析し、「3秒に1回攻撃する男」と評している[7]。リーチの長いローキックと前蹴り、顎やボディへのテンカオ(組み付かない形での膝蹴り)、そしてタイミングを合わせたパンチによって試合の流れを掴む効率の良い戦いを展開し、ダメージの蓄積により相手選手をTKOないしドクターストップに追い込む勝ち方も少なくない。
- 以前はKOに対する拘りを持っていなかったが[8]、2006年9月の試合でアルバート・クラウスに敗北後、関係者やファンからだけでは無く家族からも「ファイトスタイルを変えた方がいい」とダメ出しをされ、ヤケ酒を呷るほど腐っていたという[6]。しかし、ライバル視する魔裟斗がK-1 WORLD MAXを背負い体を張って戦う姿勢を見て、「これまでは勝てばいいと思ってやってきたが、KOも大事だなと思うようになってきた。もっと気持ちを前面に出していきたい。」と述べるなど、積極的にKOを狙う姿勢が見られる様になった[9]。
- アルバート・クラウスはアメリカ『MMAYOU』のインタビューの中で、「今までで一番苦労した対戦相手は?」と聞かれ佐藤の名前を挙げている。「(K-1 WORLD MAX)2007年のトーナメントの佐藤は普通じゃなかった。まるでマシーンと戦っている様だった。」と述べている。
来歴
格闘技を始めたきっかけは、ボクシングジムを見学する約束をしていた友人と直前に喧嘩となり、コテンパンにされたことだという。その後、自宅近くにあったキックボクシングジム『名古屋JKファクトリー』に入門し、グローブ空手選手権優勝を経て[7]、1998年12月25日にプロデビュー、宮本勲と対戦し、判定勝ちを収めた。
2000年4月9日、ウェルター級転向後の初試合を發田隆治と対戦し、判定勝ち。
2000年11月26日、初めての外国人との対戦となったタノムサック・デーラッド(タイ)戦で1RKO負け。プロデビュー後の連勝は7で止まった。
2001年6月17日、全日本キックボクシング連盟移籍後の初試合で千葉友浩と対戦し、1RKO勝ち。
2001年11月17日、ミラン・ステビッチ(ユーゴスラビア)とWKA世界ムエタイウェルター級タイトルマッチを行い、4RTKO勝ち。王座奪取成功。
2002年10月17日、K-1出場権獲得試合で清水貴彦に判定勝ち。しかし、K-1には出場出来なかった。
2003年12月6日、スーパーリーグでシェイン・チャップマン(ニュージーランド)と対戦。2R終了後、チャップマンの脛の負傷によりTKO勝ち(ドクターストップ)。スーパーリーグでの日本人初勝利となった。
2004年2月28日、ヤッシーン・ベンファッジ(フランス)の持つWPKC世界ムエタイスーパーウェルター級王座に挑戦。5R目にダウンを2回奪い逆転判定勝ち。王座奪取成功。
2004年4月17日、チャンプアック・チョー・シープラーサート(タイ)とWPMF世界ムエタイウェルター級タイトルマッチを行い、肘打ちによる流血のため、4RTKO負け。同王座獲得失敗。
2005年2月6日、全日本キックボクシング連盟興行で山本優弥と対戦し、1Rに2回、2Rに2回、3Rに1回、4Rに1回と計6回のダウンを奪い、ジャッジ3者とも50-39という大差の判定勝ち[10]。当初は清水貴彦との対戦予定であったが変更された。佐藤は自分が思う強い選手との試合がなかなか組まれない当時の状況に不満を感じており、この試合が組まれた段階で全日本キックボクシング連盟退団を決意していた。
2日後の2月8日、全日本キックボクシング連盟および所属していた名古屋JKファクトリーを退団、人材派遣会社・フルキャストグループ傘下のフルキャストスポーツ(現:イーマ)所属となった。これにより、保持していたWKAおよびWPKCのタイトルは剥奪された。ただ、後に名古屋JKファクトリーの小森次郎会長と和解し、再び同ジム所属となった。
K-1参戦後
2005年5月4日、K-1 WORLD MAX 2005 世界一決定トーナメント開幕戦で、「日本人最後の大物」という触れ込みでK-1に初参戦。ウィリアム・ディンダー(オランダ)と対戦し、ローキックの連打を繰り出すなどして判定勝ち。
2005年10月5日、K-1 WORLD MAX 2005 世界王者対抗戦で、ヘビー級から階級を下げたガオグライ・ゲーンノラシン(タイ)と対戦。執拗なまでのローキック、膝蹴りの連打で判定勝利。前述の所属ジムとのトラブルにより出場が危ぶまれていた背景もあってか、勝利後、歓喜の余り号泣した。
2006年2月4日、K-1 WORLD MAX 2006 日本代表決定トーナメントで優勝。
2006年6月30日、K-1 WORLD MAX 2006 世界一決定トーナメント決勝戦に出場。準々決勝でブアカーオ・ポー.プラムック(タイ)に一か八かのパンチ勝負を挑んだのが裏目に出て2RKO負け。試合後のインタビューでは悔し涙を流し、再起を誓った。
2007年2月5日、K-1 WORLD MAX 2007 日本代表決定トーナメントに出場。1回戦、準決勝共に相手にペースを握らせず判定勝ち。決勝では昨年と同じくTATSUJIと対戦、顔面への跳び膝蹴りでKO勝ちし、2連覇。佐藤自身、K-1では初のKO勝利で優勝に花を添えた。
2007年10月3日、K-1 WORLD MAX 2007 世界一決定トーナメント決勝戦の準々決勝でアルバート・クラウス(オランダ)と再戦。後半、真っ向からの打ち合いを展開するが、判定負け。しかし、谷川貞治K-1イベントプロデューサーは「今までで一番いい試合だった。」と讃えた。
2008年2月2日、K-1 WORLD MAX 2008 〜日本代表決定トーナメント〜で小比類巻貴之と開幕戦出場を賭けて対戦予定であったが、小比類巻の靭帯損傷により欠場、代わりにブアカーオ・ポー.プラムックとのワンマッチに変更された。試合は延長まで縺れ込み、左フックでブアカーオをぐらつかせる場面もあったが、1-2の判定負け。
2008年7月7日、K-1 WORLD MAX 2008 FINAL8のトーナメント準々決勝でブアカーオ・ポー.プラムックと対戦。3Rに膝蹴りを効かせ、右ストレートでKO勝ち。3度目の正直でブアカーオ越えを果たした。
2008年10月1日、K-1 WORLD MAX 2008 FINALのトーナメント準決勝で、以前から対戦を熱望していた魔裟斗と対戦。3Rに魔裟斗からダウンを奪い追い詰めるが、当時は「優勢選手に必ず10ポイントを付ける」というルールであったにもかかわらず、優勢と判断された佐藤に9ポイントしか付かないという、ルール変更とも受け取られかねないジャッジであった為[11]、判定終了後に観客席からリング上に向かって物が投げ込まれるなどし、場内は一時騒然となった(テレビ中継時にはカットされている)。その後延長Rで形勢逆転され、判定負けを喫した。
試合数日後のインタビューでは、「KOで倒さないといけない、ということですね。息の根を止めるくらいに。」「ルールを把握していなかった自分が悪い」としながらも、採点には納得出来ないとも述べた[12]。
2008年12月31日、Dynamite!!に初出場し、アルトゥール・キシェンコ(ウクライナ)と対戦。0-2の判定負け。
2009年4月21日、K-1 WORLD MAX 2009 FINAL16のトーナメント1回戦でドラゴ(アルメニア)と対戦。延長R判定負けを喫し、FINAL8進出はならなかった。
2009年10月26日、K-1 WORLD MAX 2009 FINALのリザーブファイトで城戸康裕と対戦し、2Rに互いにダウンを一度ずつ奪い、右フックで2度目のダウンを奪ってKO勝ち。
2010年3月27日、K-1 WORLD MAX 2010 〜-70kg Japan Tournament〜でダニロ・ザノリニと対戦し、右膝蹴りでKO勝ち。当初はジョルジオ・ペトロシアンと対戦予定であったが、ペトロシアンの右拳負傷により対戦相手が変更となった[13]。
2010年5月29日、IT'S SHOWTIMEでパジョンスックと対戦し、0-5の判定負けを喫した[14]。
2010年7月5日、K-1 WORLD MAX 2010 〜-70kg World Championship Tournament FINAL16〜で山本優弥と対戦し、2-0の判定勝ち。後日、ジャッジの集計ミスが発覚し、3-0の判定勝ちへの訂正が発表された[15]。
2010年8月14日、Krush.9のメインイベントで名城裕司と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた[16]。当初は山本優弥が出場予定であったが、急性虫垂炎および汎発性腹膜炎による欠場を受けての出場となった[17]。
2010年11月8日、K-1 WORLD MAX 2010 FINALで準々決勝でミハウ・グロガフスキー、準決勝でドラゴをそれぞれ判定で破り、自身初の決勝進出もジョルジオ・ペトロシアンに判定負け。準優勝に終わった。
2011年1月9日、Krush初代王座決定トーナメント ~Round.2~のメインイベントで、キックボクシング世界4冠王シェムシ・ベキリと対戦し、2-1の判定で辛くも勝ちを収めた。
2011年6月25日、K-1 WORLD MAX 2011 -63kg Japan Tournament FINALで3度目の対戦となるアルバート・クラウスに2-0の判定勝ちを収めた[18]。
2011年7月2日、名古屋市瑞穂区に佐藤がプロデュースする名古屋JKフィットネスがオープン[19]。
2012年2月17日、Krush.16で、ファディ・メルザの保持するISKA世界ライトミドル級王座に挑戦。王者を終始圧倒し、ジャッジ3者とも50-45の判定で王座を奪取した。3本目の世界王座を獲得するとともに、世界3階級制覇を達成。リング上で、試合前に宣言していた格闘技界を盛り上げるプランとして、ジョルジオ・ペトロシアンとの防衛戦を希望した。
戦績
テンプレート:Fight-start テンプレート:Fight-header テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-end
獲得タイトル
- K-1 WORLD MAX 2006、2007 日本代表決定トーナメント 優勝
- WKA世界ムエタイウェルター級王座(防衛1回)
- WPKC世界ムエタイスーパーウェルター級王座(防衛1回)
- ISKA世界ライトミドル級王座
- K-1 WORLD MAX 2010 世界一決定トーナメント 準優勝
脚注
関連項目
外部リンク
- 佐藤嘉洋公式サイト
- 佐藤嘉洋(yoshiHEROsato)on Twitter
- K-1 佐藤嘉洋 選手データベース
- SUPER LEAGUE 選手データ
- 名古屋JKファクトリー公式サイト
- F.O.L Sports Tokyo
- 所属事務所(株)ビッグベン
- 喫茶アミー公式サイト (実家)
- ぶる〜と整骨院 庄内
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 6.0 6.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 7.0 7.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 本人曰く「判定でも勝ちは勝ち」「すごい逆転KO勝ちよりも、一発ももらわない完封勝ちの方が価値が高い。」等
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 【全日本キック】佐藤、消化不良の判定勝利。郷野がベルト奪取 格闘技ウェブマガジンGBR 2005年2月6日
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 【K-1MAX】3・27衝撃!小比類巻太信が突如引退!ペトロシアンも欠場 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年3月23日
- ↑ 5・29オランダでバダ・ハリに何が起こった!? K-1公式サイト 2010年6月1日
- ↑ [K-1] 佐藤嘉洋×山本優弥の採点を訂正。勝敗は変わらず BoutReview 2010年7月9日
- ↑ 【Krush】佐藤嘉洋が名城裕司に貫禄の勝利!石川直生は再起戦でも敗れる 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年8月14日
- ↑ 【Krush】8・14山本優弥が盲腸手術で欠場、代わって佐藤嘉洋が後楽園ホール凱旋! 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年7月22日
- ↑ 【K-1MAX】久保が決勝で卜部を下してトーナメント優勝!佐藤はクラウスにリベンジ 格闘技ウェブマガジンGBR 2011年6月25日
- ↑ 佐藤嘉洋の「名古屋JKフィットネス」ジムOPEN K-1 公式サイト