佐々木高行
佐佐木 高行(ささき たかゆき、文政13年10月12日(1830年11月26日) - 明治43年(1910年)3月2日)は、江戸時代末から明治時代の武士(土佐藩士)、政治家。明治期の政府高官の中でも保守派を代表する一人である。土佐三伯の一人(他に板垣退助・後藤象二郎)。幼名は万之助、通称は三四郎。侯爵。保古飛呂比の著者でもある。藩士と郷士の身分が確立されている土佐藩の中で土佐上士の板垣退助や谷干城と同じく、郷士に対し寛大だった人物として有名。佐佐木高行とも書かれる。
経歴
文政13年(1830年)、土佐国吾川郡瀬戸村(高知県高知市)に土佐藩士・佐々木高順(100石)の二男として生れる。幼年期に父が死去したことにより48石まで家禄が逓減し、幼少期は貧窮に耐えて過ごしている。剣術を麻田直養(勘七)に学び、山鹿流兵学を窪田清音の門下生である若山勿堂から習得、国学を鹿持雅澄に学んだ。鹿持の同門であった尊皇攘夷派・武市半平太などとも交流。藩主・山内豊信(容堂)の側近として藩政をリードし、慶応3年(1867年)には上洛して後藤象二郎・坂本龍馬と薩土盟約の吟味および大政奉還の建白について協議している。
明治政府では参議・司法大輔・侍補を務め、明治4年(1871年)からは岩倉使節団の一員として欧米各国を巡る。その後、宮中や元老院を舞台に谷干城・元田永孚らともに「天皇親政運動」を主導して、明治天皇を擁して伊藤博文ら政府要人の排除に動いたために「中正党」と称された。明治十四年の政変による人事異動で参議・工部卿に就任。
明治17年(1884年)、維新以来の功績によって伯爵を授かり、翌年からは内閣制度開始とともに閣外に去って宮中顧問官、ついで枢密顧問官をつとめ、この間、明宮・常宮・周宮の養育係主任を務めた。明治23年(1890年)には吉井友実や千家尊福らと神祇院再興運動を進めるが採用されず、また西村茂樹らと敬神・尊王・愛国思想の普及に尽くす。明治29年(1896年)、関係者の強い要望によって、当時経営状態が悪化していた皇典講究所の第2代所長に就任し、再建に尽力した。明治42年(1909年)、侯爵にのぼり、明治43年(1910年)病没。墓は青山墓地にある。
孫の佐々木行忠も高行と同じく皇典講究所の所長を務めた。
参考文献
- 佐佐木高行著、東京大学史料編纂所編『保古飛呂比 佐佐木高行日記』全12巻 東京大学出版会、1970年〜1977年。
- 佐佐木高行著『勤王秘史佐佐木老侯昔日談』東京大学出版会、全2巻、1980年。
- 佐佐木高行著、安在邦夫ほか編『佐佐木高行日記 かざしの桜 早稲田大学図書館所蔵』北泉社、2003年。
- 『佐佐木高行家旧蔵書目録 國學院大學図書館所蔵』同大学編 汲古書院 2008年
- 笠原英彦『天皇親政 佐々木高行日記にみる明治政府と宮廷』中公新書、1995年。
- 風間健「武士道教育総論」(壮神社)
外部リンク
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