伊吉博徳
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伊吉 博徳(いき の はかとこ、生没年不詳)は、飛鳥時代から奈良時代の人物で、斉明朝から天智朝にかけての豪族・外交官。姓は伊岐、壱伎などとも表記し、カバネは史のち連。中国系渡来氏族で周の第11代王である宣王の末子尚父の子孫で長安人の楊雍の後裔であるとする[1]。壬申の乱において近江朝廷(大友皇子)側で活躍した壱伎韓国は同族と思われる。
経歴
- 斉明天皇5年(659年)から同7年(661年)にかけて、第四次遣唐使に随行する。
- 天智天皇3年(664年)、唐使の郭務悰を大宰府に応接する。
- 天智天皇6年(667年)、唐使の司馬法聡の送使となる。
- 天武天皇12年(683年)、連姓を賜与される。
- 朱鳥元年(686年)、大津皇子の変に連座するが、罰を許された。
- 持統天皇8年(694年)、遣新羅使に任命される。
- 文武天皇4年(700年)、直広肆に昇進して大宝律令の編纂者に任命される。
- 大宝3年(703年)、その功労により、田十町・封五十戸を賜る。
『伊吉博徳書』
『伊吉博徳書』[2]は、伊吉博徳が第四次遣唐使に随行した際の紀行記録で、成立年代は天武天皇12年(683年)前後、または持統天皇4年(690年)から同9年(695年)とする見方がある。 『日本書紀』において、白雉5年2月条(654年)、斉明天皇5年7月条(659年)、同6年7月条(660年)、同7年5月条(661年)にこの記録が引用されている。