仁科芳雄

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テンプレート:Infobox scientist 仁科 芳雄(にしな よしお、1890年(明治23年)12月6日 - 1951年(昭和26年)1月10日)は、日本の物理学者である。岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。日本の現代物理学の父である。

死去から4年後の1955年原子物理学とその応用分野の振興を目的として仁科記念財団が設立された。この財団では毎年、原子物理学とその応用に関して著しい業績を上げた研究者に仁科記念賞を授与している。

生涯

誕生から学生時代

1890年12月6日岡山県浅口郡里庄町浜中で父・仁科存生と母・津禰の四男として生まれる。3人の兄と4人の姉、1人の弟がいた。新庄尋常小学校、生石高等小学校を経て1905年岡山中学校に入学。在学中はテニス部に所属し、5年次には主将も務めた。1910年首席で同校を卒業、無試験で旧制第六高等学校の工科に合格し、9月に入学した。在学中は肋膜炎に苦しみ、2年次には1年間休学して郷里で静養した。3年次には二部(工科、理科、農科)の運動部監督を務めるなどし、また特待生となっている。

1914年、首席で六高を卒業し東京帝國大学の工科大学(現・工学部)電気工学科に入学。翌年2月に岡山県出身の学生のための精義塾に入居したが、4月5日に発熱し2年次への進級を断念した。この後、芝区城山町(現・港区虎ノ門)にあった次兄の家に転居し卒業後まで過ごす。3年次の芝浦製作所での実習などを経て大学院への進学を決意する。1918年7月9日に大学を首席で卒業し、翌日から理化学研究所(理研)の研究生になるとともに大学院工科に進学し、鯨井恒太郎教授の研究室に入った。

ヨーロッパ留学

1920年理化学研究所の研究員補となると翌1921年には2年間のヨーロッパ留学が決まり、4月5日神戸港を出て日本郵船の北野丸でマルセイユに渡った。最初にケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所に滞在し、翌1922年11月にゲッティンゲン大学に移った。ここでは「物理学は十分に成熟していて新たに取り組むべき問題はもはやない」と家族への手紙に書き、科学技術の底上げのために帰国後は玩具を本格的に研究する事を考え、ラジコンなどに興味を示した。11月12日に母・津禰が亡くなり、これが留学期間の延長を後押しする要因の一つとなった。

ニールス・ボーアの講演を聴いて物理学の新しい分野の研究に興味を持ち、1923年4月にコペンハーゲン大学のボーアの研究室に移った。ここでは研究員として5年半過ごし、1928年にはオスカル・クラインとともにコンプトン散乱の有効断面積を計算してクライン=仁科の公式を導いている。同年10月にコペンハーゲンを出港し12月25日横浜港に到着、7年半ぶりに帰国した。

帰国後の動向

帰国後は招待してくれる大学がなく、理研の長岡半太郎研究室に所属し、1929年にはヴェルナー・ハイゼンベルクポール・ディラックを日本に招いている。1930年 11月 東京大学より理学博士。論文は 「On the L-absorption spectra of the elements from Sn(50) to W(74) and their reration to the atomic constitution(錫(50)よりタングステン(74)に至る諸元素のL吸収スペクトル並に其の原子構造との関係に就て)。 1931年7月に理研で仁科研究室を立ち上げ、当時国内では例のなかった量子論原子核X線などの研究を行なった。翌年に中性子が発見されるとX線の代わりに宇宙線を研究対象に加えた。1937年4月には小型のサイクロトロン(核粒子加速装置)を完成させ、10月にボーアを日本に招いている。1939年2月には200トンもの大型サイクロトロン本体を完成させ、1944年1月から実験を始めた。

日米戦争と原爆開発「ニ号研究」

仁科は、米国の科学技術が進んでいることから日米開戦(太平洋戦争)には反対していた。一方、1938年(昭和13年)にオットー・ハーンリーゼ・マイトナーらが原子核分裂を発見し、膨大なエネルギーを得られることが判明。

1940年(昭和15年)4月、安田武雄陸軍航空技術研究所長は、雑誌などで紹介されている核分裂に注目して、航空本部付きの鈴木辰三郎中佐にウランを用いた新型爆弾の開発研究を命令した。鈴木中佐は東京帝国大学嵯峨根遼吉教授の指導の下に1940年10月に報告書を安田中将に提出した。安田中将は東京理化学研究所の大河内所長に秘密裏に研究を依頼して、大河内は仁科研究所に研究課題を託した。このことにより1941年春頃、仁科研究所で原子爆弾の理論的可能性の検討に入った。1942年に海軍技術研究所でも原爆研究(原子核物理応用の研究)が始められた時に仁科は長岡半太郎と共に理研の代表で参加したが、仁科は陸軍に依頼されていたので積極的に発言をしなかった。

1942年12月8日の開戦記念日に、仁科は理研の宇宙線研究グループにいた竹内柾研究員に原子爆弾の研究を誘った。1943年2月28日竹内研究員が数値計算の報告書を提出して、理論は実現に近づいた。海軍の原子爆弾の研究は解散したが、アメリカで原子爆弾開発「マンハッタン計画」が始まった翌年1943年(昭和18年)5月頃、仁科研究所はウランの分離によって原子爆弾が作れる可能性を報告書によって軍に提示する。陸軍はこの報告に飛びついて、陸軍航空本部の直轄で、研究を続行させる。

仁科は、若く優秀な科学者を集めるために、陸軍より召集解除の特権を得て、木越邦彦(六弗化ウランの製造)、玉木英彦(ウラン235の臨界量の計算)、竹内柾(熱拡散法によるウラン235の分離装置の開発)などの研究員を集めた。この年から理研の仁科研究室が中心になって原子爆弾の開発がおこなわれることになった。この開発は、仁科の「に」から「ニ号研究」と呼ばれた。 しかし結局、1945年(昭和20年)のアメリカ軍空襲(日本本土爆撃)によって設備が焼失し、日本の原爆開発は潰えることになる。 またサイクロトロンは、戦争のために活躍する事なく(日本の原子爆弾開発を参照)、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)によって11月にサイクロトロンは東京湾に投棄された。

同年8月6日、アメリカ軍によって広島市に「新型爆弾」が投下されると、8月8日に政府調査団の一員として現地の被害を調査し、レントゲンフィルムが感光していることなどから原子爆弾であると断定、政府に報告した。これが日本のポツダム宣言受諾への一因となった。引き続き8月14日には8月9日に2発目の原爆が投下された長崎でも現地調査を実施し、原爆であることを確認している。また、「終戦の日」8月15日のラジオ放送において原子爆弾の解説をおこなっている。

戦後

1946年11月に理研の所長となり、同年文化勲章を授与された。1948年2月には理研が解散し、3月に株式会社科学研究所(現在の科研製薬)が発足すると初代の社長となった。後に学士院会員日本学術会議第1期副会長を務める。だが、戦後になると体調を崩す事が多くなり、病院での検査の結果肝臓癌と判明した。この癌の原因については、当時は未知の部分が多かった放射線などの研究を戦前から長年行っていた事や、原爆投下直後の広島・長崎に入市し被曝した事を要因と考える説など諸説がある。そして1951年1月10日、60歳で逝去。

故郷の里庄町には業績を記念した仁科会館がある。1990年12月6日に日本で発行された、ラジオアイソトープ利用50周年を記念した切手には仁科の肖像が描かれている。

人柄、その他

理化学研究所時代の弟子からは慕われ、「親方」と呼ばれた。ドイツ滞在中に励ましの書簡を送られた朝永振一郎は、仁科を「温かく親しみやすかった」と評している。また、湯川秀樹は新粒子予言のさいにボーアから批判を受けたが仁科はこれをかばい、後に湯川は「非常に鼓舞された」と語っている。

なおクレーター "Nishina" は彼にちなんで名づけられた。Nishina の直径は約65kmで、緯度44.6S、経度170.4Wに位置する。また理化学研究所が3回の生成に成功したと発表した113番元素について、命名権が得られた場合の案として仁科にちなんだ「ニシナニウム」などが検討されている[1]

1940年11月、理研は皇紀2600年の記念行事の一環で、一般人にむけた講演会が行われ、そのうち目玉の企画は仁科芳雄の「放射性人間」の公開実験であった。実験は、「食鹽人工ラヂウム」を人に飲ませて放射線を測ってみるというものである。サイクロトロンで重水素の原子核を加速し岩塩に衝突させて得られた放射性のナトリウム24を、仁科は一般にわかりやすくキャッチーな「食鹽人工ラヂウム」と言い換えているが、これを0.1g水に溶かして、仁科研究室の小遣い加藤弥太郎(51)が飲み込んだ。物質が吸収され血中を巡って全身に行き渡ると、全身から放射線を発する「放射性人間」となる。ガイガーカウンタに手をかざすと「バチバチと機関銃のような音」を発して手から放射線が出ていることを披露した。また「食鹽人工ラヂウム」を溶かした水を吸い上げた植物からの放射線や、謎に満ちた宇宙線も音に変えて示す実験を行い、これら「科学手品」のような平易な科学講演は観客に好評であった。 [2]

参考文献

  • 並木雅俊 『2005世界物理年によせて-仁科芳雄と原子物理学のあけぼの-』 日本物理学会誌、Vol.60(12)、P.927、2005年
  • 仁科伸彦 『仁科芳雄、コペンハーゲンへの道』 日本物理学会誌、Vol.47(4)、P.309-314、1992年
  • 杉田弘毅 『検証非核の選択』 岩波書店 2005年 ISBN4-00-001937-6
  • 高田純 『核と刀 核の昭和史と平成の闘い』 明成社 2010年

出典

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関連項目

外部リンク

  • テンプレート:Cite web
  • 中尾麻伊香「「科学者の自由な楽園」が国民に開かれる時―STAP/千里眼/錬金術をめぐる科学と魔術のシンフォニー」