ヴィルム・ホーゼンフェルト

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テンプレート:基礎情報 軍人 ヴィルム・ホーゼンフェルトWilm Hosenfeld1895年5月2日 - 1952年8月13日)は、ドイツの教育者、軍人。最終階級は陸軍大尉

当初ナチズムの信奉者であったが、のちに改心しウワディスワフ・シュピルマンら多くのポーランド人をナチスの迫害から救った事で知られる。

来歴

フルダ近郊のマッケンツェル(現ヘッセン州ヒューンフェルト市)出身。6人兄弟の4番目で、父親は敬虔なカトリックの教師だった。ホーゼンフェルトは幼少期を通じて社会正義を重視した教育をなされ、これは彼の人格形成に大きな影響を与えた。 青年期になると父と同じく教師への道を目指し教育学を専攻するが、卒業と同時に第一次世界大戦が勃発し、中尉として従軍。重傷を負って1917年に帰還した。戦後は地元ヘッセンの村で教師となった。

1920年ヴォルプスヴェーデの画家カール・クルムマッハーの娘アンネマリーと結婚、のちに5人の子をもうける。子供たちは全員医師になっている。カトリック、かつワンダーフォーゲル運動に熱心な家庭で育ち、はじめはプロイセン的な愛国主義者だったが、妻の影響で平和主義思想ももつようになった。

しかし、1930年ごろからワンダーフォーゲル活動を通じて反ブルジョワ主義者や国家社会主義者と接触、次第にナチズムに傾倒するようになる。 1933年にはNS党隷下のSAおよびテンプレート:仮リンク(NSLB)に入り、1936年の党大会にも参加していた[1]

第二次世界大戦が勃発すると、44歳のホーゼンフェルトは予備役士官として召集され、狙撃大隊附としてポーランド侵攻に参加。41年、ドイツが侵攻したポーランドの首都ワルシャワのスポーツ施設の責任者となる。この頃、SSなどのポーランド人に対する残虐行為を目の当たりにし、次第にポーランド国民に対する同情の念を持つようになった。

ある時、ホーゼンフェルトはSSに追われていたポーランド人の祭司とその家族を匿った。これを機にユダヤ人を含むポーランドの人々に秘密裏に支援を行うようになる。ホーゼンフェルトはスポーツ施設長としての役職を生かし、追われる身となった人々を身分を偽らせ、施設の従業員として匿った。ワルシャワ蜂起の際、ポーランド人ピアニスト・作曲家のウワディスワフ・シュピルマンも助けている。

市民もそんなホーゼンフェルトに協力を惜しまず、自宅に招いてポーランド語を教えたり、教会に呼んだりした。これはドイツ占領下の地域では考えられない事だった。

第二次世界大戦の末期の1944年に中隊長に転じ、1945年1月17日ソ連軍捕虜となる。ソ連はホーゼンフェルトが諜報部に属していたと断定しミンスクの獄に投じて拷問を加えたが、証拠も自白も得られなかった。証拠がなく、しかもホーゼンフェルトを弁護する多くの人々の証言にもかかわらず、ホーゼンフェルトの不起訴と刑の執行猶予はソ連軍当局によって拒絶され、軍事法廷で諜報活動に従事した戦犯として25年の強制労働を宣告された。拷問や過酷な労働のため何度かの脳卒中を起こし、精神に異常を来たした末に、スターリングラードの戦犯捕虜収容所で1952年8月13日に死亡した。

2007年10月、ポーランド政府はシュピルマンらを救った功績を顕彰してホーゼンフェルトにポーランド復興勲章を授与した。2009年2月にはイスラエル政府も「諸国民の中の正義の人」の称号をホーゼンフェルトに追贈した。

栄典

脚注

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参考

  • Wilm Hosenfeld: "Ich versuche jeden zu retten"—Das Leben eines deutschen Offiziers in Briefen und Tagebüchern (Wilm Hosenfeld: "'I try to save everyone [I can]'—The life of a German officer in [his] letters and diaries"), compiled and with commentary by Thomas Vogel, published by the Militärgeschichtlichen Forschungsamt (MGFA: Military History Research Institute), Deutsche Verlags-Anstalt, Munich, 2004. ISBN: 3421057761

関連項目

外部リンク

  • Stefan Reinecke: Wilms Vermächtnis. In: taz.de vom 20. Juli 2009, abgerufen am 14. März 2011.