ロマノフ家

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ファイル:The Romanovs 1892.jpg
1892年、夏、サンクトペテルブルクのクラスノエ・セロでの軍事演習に集まったロマノフ家の人々。前列の座っている人物、画面向って左から クセニア大公妃(白い服にに白い帽子の女性)、メクレンブルク・シュヴェーリン公女ウラジーミル大公妃マリア(黒い服の日傘を持った女性)、その右隣エレナ大公妃, さらにその右隣ザクセン・アレテンブルク公女コンスタンティン大公妃アレクサンドラアレクサンドル3世の皇后マリア(白い服の女性)、皇帝アレクサンドル3世ミハイル大公パーヴェル大公。(すぐ後ろの列、画面向って左から) メクレンブルク公カール・ミヒャエル とメクレンブルク・シュトレリッツ公ゲオルク (パーヴェル1世の曾孫), コンスタンティン大公とその姉ギリシャ王妃オルガ(黒い服の女性)、その右隣はニコライ皇太子(のちのニコライ2世)ウラジーミル大公ドミートリー大公 (白い帽子の人物)、オルデンブルク公子ペーター (パーヴェル1世の玄孫)および第6代ロイキテンベルク公ゲオルギー (ニコライ1世の曾孫)。最後列の3人の男性は左から セルゲイ大公ニコライ大公オルデンブルク公アレキサンダー (ドミートリー大公の肩を見ている人物。ペーター公の父、パーヴェル1世の曾孫)。 最前列で地べたに座っている4人の少年はアレクセイ大公 (黒の海軍服の人物)、そのとなりの白の海軍服の人物は左からミハイル大公アンドレイ大公ボリス大公


ロマノフ家(ロマノフけ)は、ロシア帝国を統治していた皇室ロマノフ朝)。 紋章は双頭の鷲

歴史

実態

ロマノフ家は、古くからロシア帝国に於ける有力貴族であったというが明らかではない。一説によるとこの家系のロシアにおける起源は、13世紀にプロイセン地方でドイツ騎士団による残酷な攻撃から逃れてロシアの地にたどり着いた古プロイセン人のグランダ・カンビラ(Glanda Kambila)という名の公であったと言われる。ただし、明らかであるとされている先祖は14世紀にモスクワ大公セミョーンに仕えていたアンドレイ・カビラ(Andrei Kobyla)という低位の貴族で、カビラという姓はロバの意味であり、カビラ家はみな馬やその他の家畜にちなんだあだ名をつけられていることからモスクワ大公家の馬丁の家系であったという推測がされている。ミハイル・ロマノフの祖父ニキータ・ユーリエフ=ザハーリンの代にモスクワ大公にして「全ルーシツァーリ」だったリューリク家外戚になった。イヴァン4世(雷帝)死後、リューリク家断絶によるロシアの混迷(動乱時代)、ことに帝都モスクワを占領したポーランドを撃退したことで、1613年ロシアの有力貴族によってツァーリに推戴された。

帝政初期は有力貴族によって政治を牛耳られたが、第2代ツァーリ・アレクセイによって帝権が確立する。1666年のニーコン総主教追放がその顕著なしるしとなった。主な財源は征服地シベリアからの毛皮木材貿易中央アジア植民地化による市場確保であった。ロマノフ家の経済力はハプスブルク家を超えているとも言われ、世界一の大富豪でもあった。

また、この時代は皇帝による支配が安定した時期であり、それまでロシアの政治を担ってきた貴族階級が没落した時代でもあった(絶対君主制)。なおロマノフ家の嫡系はピョートル2世の代で絶え、1762年ホルシュタイン=ゴットルプ家から迎えられた外孫のピョートル3世が皇位を継承している。ピョートル3世の皇后であったが夫を廃して自ら即位したエカチェリーナ2世も生粋のドイツ人であり、以後もロシアの皇室はドイツの血統が濃密となった(後にドイツ人との婚姻で、皇室に影を落とす血友病もロマノフ家に流入した)。

ピョートル大帝の時代以降、ロシアではスラヴ派西欧派がしのぎを削り、それがツァーリの親政にも影響を及ぼした。歴代皇帝の政策は、主に不凍港の確保と南下政策であったが、19世紀欧州列強として台頭すると、ロシア帝国帝国主義化し、植民地主義を標榜するようになった。特にバルカン半島に対する民族主義を掲げ、汎スラヴ主義を推し進めた。これはオーストリア・ハンガリー帝国との対立を招き、第一次世界大戦の原因ともなった。一方、帝国内では領土拡張によって内部に数多くの少数民族を抱え、民族問題を抱え込むこととなった(ロシアのくびき)。

この様な中でツァーリの親政にも限界が及び、1881年にはナロードニキによるアレクサンドル2世の暗殺事件が起きている。1905年には血の日曜日事件が起き、皇帝ニコライ2世は改革に踏み切ったが、既に時機を逸していた。これ以降、帝国内は混迷の時代を迎え、ロシア帝国の最終章を迎えるのである。

2007年、ロシア国民の一部がロマノフ王朝の皇帝(ツァーリ)復活を望んでいる事との報道がなされたとされるテンプレート:要出典。(ロマノフ家の末裔の皇帝即位に賛成が35%、反対が7%)。理由は現在のロシアの格差社会の広がりが問題と言われている。2008年10月1日、ロシア最高裁判所はロマノフ家をボリシェビキ政権による弾圧の犠牲者であったとして正式に名誉を回復させた。

歴代当主(歴代ロシア皇帝)

  1. ミハイル
  2. アレクセイ
  3. フョードル3世
  4. イヴァン5世
  5. ピョートル1世
  6. エカチェリーナ1世
  7. ピョートル2世
  8. アンナ
  9. イヴァン6世
  10. エリザヴェータ
  11. ピョートル3世
  12. エカチェリーナ2世
  13. パーヴェル1世
  14. アレクサンドル1世
  15. ニコライ1世
  16. アレクサンドル2世
  17. アレクサンドル3世
  18. ニコライ2世

ロシア革命以後のロマノフ家当主

現当主ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフは、アレクサンドル3世の弟ウラジーミル大公の家系である。

  1. ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公(1847年 - 1909年)
    アレクサンドル2世の三男。ロシア革命以前に没しており、帝位を請求したことはない。
  2. キリル・ウラジーミロヴィチ・ロマノフ(1876年 - 1938年)
    ウラジーミルの息子。1924年9月13日にロシア皇帝位の継承を宣言。以下キリルの息子・娘に名目上の皇位が継承されている。
  3. ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフ(1917年 - 1992年)
    キリルの息子。
  4. マリア・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァ(1953年 - )
    ウラジーミルの娘。夫はミハイル・パヴロヴィチ(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の曾孫フランツ・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン
  5. ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフ(1981年 - )
    マリアとフランツの間の息子。ロシア皇帝位継承権第1位であると共に、ドイツ皇帝位およびプロイセン王位継承権第8位である。

関連作品

アナスタシア・ニコラエヴナ#関連作品、及びマリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)#関連作品も参照の事。

関連文献

関連項目

外部リンク

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