フョードル3世

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フョードル3世Фёдор III Алексеевич, 1661年6月9日/ユリウス暦5月30日 - 1682年5月7日/ユリウス暦4月27日、在位:1676年 - 1682年)はロシア・ツァーリ国ツァーリアレクセイ・ミハイロヴィチの3男、母はマリヤ・ミロスラフスカヤ

1676年、父の死に伴い14歳で即位。外戚のミロスラフスキー家によって継母ナタリアの一族であるナルイシキン派の重臣テンプレート:仮リンクが追放された後は、テンプレート:仮リンク公が実権を掌握した。

宗教問題ではモスクワ総主教テンプレート:仮リンクの名誉回復を行ったものの、古儀式派への弾圧は継続された。軍隊改革を断行、軍の指揮系統を家門で決める門地制を廃止して、能力本位の軍隊へと移行させる。さらに1680年からは土地調査も試みられた。外交では継続中の露土戦争が終結し、1681年バフチサライ条約でロシア側のキエフ領有が承認された。

フョードル3世は、人文主義者の家庭教師テンプレート:仮リンクによって、当時のロシア貴族社会ではめずらしく高度な教育を受け、文学的才能にも恵まれていた。ラテン語ポーランド語を理解したと言われる(フョードル3世は父と共にポーランドヤン2世・カジミェシュの後継者候補として挙げられていた)。やや病弱だったが、長時間の公務はこなせる程度だったらしい。

1680年正教を奉じるポーランド系貴族の娘アガフィヤ・グルシェツカヤと結婚し、宮廷では彼女の持ち込んだ西欧風の礼儀作法やファッションが流行した。しかしアガフィヤは最初の出産で子供と一緒に亡くなり、フョードル3世は悲嘆にくれた。世継ぎを望むミロスラフスキー家の説得で再婚した2か月後、後継者を指名しないまま病死した。この後、弟のイヴァン5世ピョートル1世が即位、ゴリツィンと結んだ姉ソフィア1689年まで摂政として君臨した。

参考文献

先代:
アレクセイ
全ロシアのツァーリ
1676年 - 1682年
次代:
イヴァン5世/ピョートル1世
(共同統治)

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