セルゲイ・ヴィッテ
セルゲイ・ユリエヴィチ・ヴィッテ(ウィッテ、テンプレート:Lang-ru, ラテン文字表記例:Sergei Yul'jevich Witte, 1849年6月29日 - 1915年3月13日)は、帝政ロシア末期の政治家。
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人物
ロシア帝国大臣委員会議長、ロシア帝国運輸大臣、ロシア帝国大蔵大臣、ロシア帝国首相(大臣委員会議長)、伯爵。政府の要職を歴任し、日露戦争の講和交渉にはロシア側代表として当たり、日本側の外務大臣小村寿太郎と交渉を繰り広げた。
オカルティストのブラヴァツキー夫人は従姉で、ヴィッテの大学時代に交流があった。
生涯
1849年、ロシア帝国の領土であったグルジアのチフリス(現在のトビリシ)に生まれる。祖先はオランダからスウェーデン統治時代のバルト海沿岸に移り住んできた移民とされる。父はオランダ人技術者、母はロシア貴族出身。1870年オデッサ大学物理・数学科を卒業。
皇帝アレクサンドル3世に登用され、財務省の鉄道事業局長官として頭角をあらわす。1892年には運輸相、同年から1903年まで財務大臣として、工業化を推進した。彼はドイツ歴史学派の経済学者フリードリヒ・リストに影響を受けて国家が市場に積極的に介入する経済政策を採用し、酒専売制導入による財政改革、保護関税政策の採用、金本位制の確立などを実施、シベリア鉄道建設、フランス資本を中心とする外資の積極導入を図るなどし、ある程度の成功を収めた。これにより鉄道を中心とする輸送部門や金属工業部門、石油部門で工業化が促進された。
一方で農業分野では改革が遅れたため農民の全人口に占める農奴の割合は増加した。彼は農業問題特別審議会を設置し、自ら同審議会の責任者として土地改革案を作成した。これは、後にストルイピン時代の土地改革の基礎となった。
また、外国からの投資をロシアに呼び込むために、新しい状況に現実的に応じ、ある程度の専制権力の抑制をも視野に置いていた。基本的にウィッテ自身は、アレクサンドル3世・ニコライ2世両皇帝の傅育官であったコンスタンチン・ポベドノスツェフと同様に専制政治を志向していたが、一方で現実的な保守主義者でもあった。故にあくまで王権神授説を奉ずるニコライ2世やその側近と齟齬をきたした。1903年に財務相から大臣会議議長に転出するが、その役割は限定された。
日露戦争以後
日露戦争においては、ウィッテはロシア国内には飢饉が広がっていることから戦争には反対した。しかし、政敵であった内務大臣ヴャチェスラフ・プレーヴェや強硬派のテンプレート:仮リンクらの策動によってこの主張は退けられた。日露戦争で日本の優位が決定的になるとニコライ2世に再び登用され、1905年講和のためアメリカのポーツマスにロシア側全権として赴き交渉に当たった。この時外交官としても見事な手腕を発揮し、勝者のはずの日本が実は既に戦争の継続が不可能なほど疲弊していることを見抜き、日本側を翻弄、賠償を最小限に留めることに成功している。
帰国後は血の日曜日事件以来揺れる国内の収拾に努めた。1905年10月に十月詔書を起草し、国会開設と立憲君主制の導入を目指した。ウィッテは帝政ロシアの初代首相となり第一次ロシア革命の一応の収拾に成功するが、あくまで専制政治の維持を目論むニコライ2世によって疎まれ、新設されたドゥーマ(国会)では信任を得られず、辞任を余儀なくされた。第一次世界大戦が勃発すると、ロシアがこれに巻き込まれることに反対した。
晩年は回想録を執筆し、1915年に脳腫瘍によりペトログラードで死去。回想録は1921年にヨーロッパで出版された。
著書
- 『ウイッテ伯回想記 日露戦争と露西亜革命』原書房 1972年(OD版2004年)
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