イワン・ゴレムイキン
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イワン・ロギオーノヴィッチ・ゴレムイキン(Ива́н Логгинович Горемы́кин, Ivan Logginovich Goremykin, 1839年11月8日(ユリウス暦10月27日) ヴェリキー・ノヴゴロト - 1917年12月24日(ユリウス暦12月11日) ソチ)は、ロシアの官僚、政治家。
ゴレムイキンは、政治家としては、超保守主義者であり、終始、皇帝ニコライ2世と専制政治の忠実な尖兵として行動した。1895年から1899年まで内務大臣。1906年5月5日、皇帝と対立したセルゲイ・ヴィッテの跡を襲い、首相(大臣会議議長)となる。しかし、政治改革の強硬な敵対者として、5月6日国家基本法を発布し、「十月詔勅」を修正して、ツァーリを専制君主として再規定した。それがために、ゴレムイキンは召集された第一回国会(ドゥーマ)との間に先鋭な対立をもたらし、ドゥーマはツァーリに対し闘う国会として決議を出すまでに至った。1906年7月22日にゴレムイキンは政治的混乱の責任を取り辞任。後任には内相だったピョートル・ストルイピンが就任した。
1914年2月から1916年2月まで再度内閣を組閣したが、無能ぶりを露呈しただけで急変するロシア内外の状況に一切対応することができなかった。
10月革命後、逃亡先のソチで正体が露見し、妻子とともにギャングに殺害された。
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