ロバート・E・ハワード
テンプレート:Infobox 作家 ロバート・アーヴィン・ハワード(Robert Ervin Howard, 1906年1月22日 - 1936年6月11日)は、アメリカのパルプ・フィクション作家。英雄コナンシリーズで最も良く知られ、「剣と魔法」(Sword and sorcery)ジャンルの創始者と見なされている。
概要
怪奇幻想小説とアクションヒーローものを融合したヒロイック・ファンタジーの生みの親で、『英雄コナン』シリーズが有名。この「コナン」は大恐慌時代のパルプ雑誌、「ウィアード・テールズ」(Weird Tales)誌上で活躍したキャラクターであり、その文化的影響力はターザン、ドラキュラ伯爵、シャーロック・ホームズ、バットマン、ジェームス・ボンドと肩を並べるものとされている。
このシリーズの作品群は多くの模倣を呼び、ファンタジージャンルに多大な影響を及ぼした。また、後にアーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画『コナン・ザ・グレート』(1982年)、『キング・オブ・デストロイヤー』(1984年)となっている。
ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの文通友達で、『黒い碑』(The Black Stone) などのクトゥルフ神話作品も執筆しており、オーガスト・ダーレス、クラーク・アシュトン・スミスらとの親交も厚かった。
経歴
テキサス州出身。彼はその生涯のほとんどをダラス郊外のクロスプレインズと、時にその近郊のブラウンウッドで過ごした。本好きで知的な子供であったが、同時にボクシングのファンでもあったため、10代の後半にボディビルディングを始め、逞しい青年になる。
9歳の時より冒険小説作家となることを夢見たが、23歳までは本当の成功には恵まれなかった。以降30歳で自殺によって死去するまでハワードの作品は様々な雑誌、ジャーナル、新聞に載るようになり、いくつかのジャンルで成功を収めた。コナン作品は1934年に単行本化される寸前まで行ったが、彼の作品は本の形で生前に出版されることはなかった。
1924年、怪奇小説専門のパルプ・マガジン「ウィアード・テールズ」に "Spear and Fang" が売れ、翌1925年にデビューする。以後400編近い作品を次々に執筆し、さまざまなパルプ誌に発表した。1932年、『英雄コナン』シリーズの第1作「不死鳥の剣」(The Phoenix on the Sword)が「ウィアード・テールズ」誌に掲載される。
その作品内容はヒロイック・ファンタジー、幻想怪奇小説から、冒険小説、ハードボイルド、歴史冒険小説、西部劇、スラップスティック小説まで、非常な広範囲に及ぶ。これには、当時のパルプ誌が雑誌・ジャンルを問わず経営が不安定で原稿料の支払いも不安定だったため、雑誌・ジャンルを選ばずにどこにでも売り込まねばならなかったという事情があった。とはいえ、11年間の作家生活で年間の収入は50ドルから2,000ドル以上まで上昇。当時のクロスプレインズでは随一の高収入である[1]。1936年の時点では彼の作品のほぼ全ては西部劇ものとなっていた。
西暦 | 年齢 | 収入 | インフレ 補正[2] |
備考 |
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1926 | 20歳 | $50.00 | $テンプレート:Inflation | |
1927 | 21歳 | $37.50 | $テンプレート:Inflation | |
1928 | 22歳 | $186.00 | $テンプレート:Inflation | Solomon Kane第一作 |
1929 | 23歳 | $772.50 | $テンプレート:Inflation | King KullおよびSteve Costigan第一作 |
1930 | 24歳 | $1,303.50 | $テンプレート:Inflation | Oriental Stories誌創刊, Bran Mak Morn第一作 |
1931 | 25歳 | $1,500.26 | $テンプレート:Inflation | |
1932 | 26歳 | $1,067.50 | $テンプレート:Inflation | Fight Stories誌休刊, Kline氏がエージェントに, Conan第一作 |
1933 | 27歳 | $962.25 | $テンプレート:Inflation | Oriental Stories誌がMagic Carpet誌となる |
1934 | 28歳 | $1,853.05 | $テンプレート:Inflation | Magic Carpet誌廃刊, Action Stories誌再刊行開始, El Borak第一作, Kirby O'Donnell第一作, Breckenridge Elkins第一作 |
1935 | 29歳 | $2,000+ | $テンプレート:Inflation+ | 記録は不完全 |
1936 | 30歳 | 「1936の春までで彼の売り上げはキャリアの最高を迎えつつあった」[3] |
自殺と精神状態
ハワードの母親は結核に侵されており、彼の生涯全てに渡って闘病生活を送っていた。1936年6月、母親が危篤となり、最早目覚めることはないだろう昏睡状態に陥ったことを知るや、ハワードはガレージに停めた車の中で拳銃で自ら頭部を撃ち抜きその後死亡した。30歳という若さだった。母親も翌日死去している。
彼の自殺とその状況は彼の精神状態について様々な議論を呼ぶものであった。(詳細はRobert E. Howard's health(英語版)を参照)
これらの議論は主に、彼はエディプスコンプレックスやそれに類する精神疾患であったのではないか[4]、もしくは重い鬱状態であったのではないかというものである。またそういうった精神状態が引き金ではなく、母親の死に直面した衝動的なものであろうという説もあるが、実際、この自殺は以前から父親や近しい友人には仄めかしていたものであった。また、サヴァン症候群、もしくはアスペルガー症候群と絡めて語られる事もあるが、これは冒険小説という性質からともすれば短絡的な彼の作品内容について非難した文芸批評家によって用いられたものであり、彼自身にそういった兆候は認められなかった。
また彼は心臓疾患を抱えていた事も明らかになっている。
ノーヴェリン・プライス氏との交際
生前のハワードが交際した唯一の女性がノーヴェリン・プライス・エリス(Novalyne Price Ellis)氏であった。彼女は当時クロスプレインズの高校で英語を教える教師で、自身も作家志望であった。この交際はハワードの晩年まで続いたが、プライス氏が教職のキャリアのためルイジアナへと転居し終わりを告げる。プライス氏は後に他の男性と結婚し、引退まで教職に留まったが、引退後の1986年に"One Who Walked Alone"と題されたハワードについての回想録を発表した。彼女は自身の創作のために人々との会話を記録していたため、生前のハワードとのやりとりも克明に残っており、それらを整理した貴重な資料となっている。
この回想録は1996年に『草の上の月』 (原題 The Whole Wide World)として映画化された。プライス氏は1999年に91歳で死去。
日本語訳一覧
原語での詳細な作品一覧はRobert E. Howard bibliography(英語版)を参照
- 『魔境惑星アルムリック』 ハヤカワ文庫 ISBN 415010073X
- 『黒の碑 - クトゥルー神話譚』 創元推理文庫 ISBN 4488514081
- 『スカル・フェイス』 国書刊行会 ドラキュラ叢書
- 『剣と魔法の物語 《ヒロイック・ファンタジー傑作選》』 朝日ソノラマ文庫海外シリーズ ISBN 425762034X
- 青心社 『暗黒神話体系シリーズ クトゥルー』全13巻 収録作品
- 「黒い石」『クトゥルー4』収録 ISBN 4915333558
- 「墓はいらない」『クトゥルー5』収録 ISBN 4915333582
- 「アッシュールバニパルの焔」『クトゥルー7』収録 ISBN 4915333647
- 「屋根の上に」『クトゥルー8』収録 ISBN 4915333663
- 青心社 『ウィアード』全4巻 収録作品
- 「夢の蛇」 『ウィアード1』収録 ISBN 4915333736
- 「死霊の丘」 『ウィアード2』収録 ISBN 4915333752
- 「夜の末裔」 『ウィアード3』収録 ISBN 4915333809
- 「不死鳥の剣」 河出文庫 『不死鳥の剣 -剣と魔法の物語傑作選』収録 ISBN 430946226X
脚注
テンプレート:Wikisource author テンプレート:Sister テンプレート:Sister テンプレート:Sister テンプレート:Reflist
- ↑ Charles Gramlich, "The Greenwood Encyclopedia of Science Fiction and Fantasy", volume 2 p.99, 2005 ISBN 0-313-32952-4
- ↑ 英語版テンプレートによる自動生成
- ↑ Glenn Lord, "The Last Celt" pp.75–79, 1976 ISBN 978-0-425-03630-3
- ↑ 主にL・スプレイグ・ディ・キャンプによる初期の伝記、"Dark Valley Destiny"で述べられた説だが、この本は様々な欠陥が指摘されている。