ランボルギーニ
ランボルギーニ(Lamborghini)は、イタリアの自動車メーカーである。正式名称はヌオーヴァ・アウトモービリ・フェルッチオ・ランボルギーニ SpA(Nuova Automobili Ferruccio Lamborghini SpA)。1999年以降フォルクスワーゲングループに属する。
本部はボローニャ県サンターガタ・ボロニェーゼであり、ライバル関係にあるフェラーリの拠点モデナ県・マラネロとは、直線距離にしてわずか20km程度しか離れていない。
目次
歴史
- 1962年4月 - 農業機械(トラクター)製造で成功を収めていたフェルッチオ・ランボルギーニが設立。
- 1963年10月26日 - トリノ・オートショーで1号車になる350GTVを発表。
- 1971年8月 - ボリビアで起こったクーデターにより、親会社であるランボルギーニ・トラットリーチ SpAと前政府との間に結ばれていた、5000台のトラクター購入に関する契約を破棄される。資金難に陥ったランボルギーニ・グループはランボルギーニ・トラットリーチ SpAの全株をフィアットに移譲。自動車部門の株式51%をスイス人投資家のジョージ・ヘンリ・ロゼッティに売却。
- 1974年9月 - 石油ショックの影響からロゼッティの友人であるレイネ・レイマーに残り49%の株式を売却。
- 1978年4月 - BMWから委託されていたM1の生産の遅れから契約を破棄され倒産。イタリア政府の管理下に置かれる。
- 1981年 - フランスの実業家パトリック・ミムランが250万ドルで購入。
- 1987年 - クライスラー傘下となる。
- 1993年10月 - インドネシアの新興財閥であるSedtcoグループのメガテックに譲渡。
- 1999年 - アウディ傘下となる。現在のCEOはアウディ・グループの意向でそれまでドイツのフィアットAGに在籍していたステファン・ヴィンケルマン。デザイナーはガヤルド・ムルシエラゴはルーク・ドンカーヴォルケ(今は、スペインの自動車メーカーセアトに在籍している)が手がけた。現在は、アウディ・グループ内のデザイン部門主任、ウォルター・ダ・シルヴァが務める。
自動車メーカーとしての成り立ち
第二次世界大戦後、イタリアにトラックが不足していることに目を付けたフェルッチオは、軍が放出するトラックを民生向けに改造し販売することで富を得た。大戦中、ロドス島にて兵器のメンテナンスに当たっていた彼の経験が活かされる形となった。1947年、当時から自動車好きであった彼は、これを元手に小さなチューニングショップを開いた。
1948年、彼は友人と共にミッレミリアに参戦した。車両はフィアット・トポリーノで、自作のOHVヘッドが載せられていた。しかし途中で友人が運転を誤り、レストランに突っ込んでしまう。この際、彼は友人と共に車外に投げ出され、大ケガを負った。後に彼がレース界から距離を置くようになったのは、この経験が一因であると言われている。
その後、彼はトラックに続いてトラクターの自社開発に取り組み、1949年にランボルギーニ・トラットリーチ SpAを設立した。当初はただ同然で手に入れた軍放出車両のモーリスエンジンを用いた一般的なものであったが、後に自ら開発した排気熱で軽油を気化するイン・パボリザトーレというシステムを使って高性能なトラクターを作った。これは高価なガソリンをエンジンの始動と暖気に使うだけで済み、後は安価な軽油で充分に動かせたため、大ヒットに繋がった。また1960年にはランボルギーニ・ブルチアトーリ SpAを設立し、ボイラーとエアコンの製造販売を手掛け、成功を収めた。
巨万の財を築いた彼はエキゾチックカーを買い集めるようになる。しかし、どの車も暑すぎたり、スピードが十分でなかったり、狭すぎたりしたため、フェルッチオを満足させるものではなかった。のちにエキゾチックカーの生産に乗り出したフェルッチオは、「(汗で)助手席に座るレディのメイクアップが落ちないような快適な車を作りたい」と語ったという。やがて彼は富の象徴、フェラーリのオーナーとなるが、当時のフェラーリにはクラッチに決定的欠陥があった。所有するフェラーリの度重なるクラッチの故障に頭を痛めた彼は、自社のトラクター工場でフェラーリを修理することを思いつく。いざクラッチを分解してみると、使われていたのはなんと自社のトラクター用パーツと同型のボーグ&ベック製クラッチ板であり、しかも全く同一のパーツにフェラーリはトラクター用の十倍の値段を付けていた。
元々は優秀なメカニックであった彼は、クラッチ修理と同時にフェラーリに装着されていたウェーバー製のダウンドラフト型キャブレターをサイドドラフト型の物に改め、エンジンヘッドをオリジナルのSOHCから当時は市販のフェラーリに採用されていなかったDOHCに改造した。完成した車は公道でのテスト走行中の新型フェラーリをカモに出来るほど速かったという。
既存のエキゾチックカーに少なからず不満を抱いていた彼は、これがきっかけで自動車ビジネスに乗り出す決意をしたと言われる。前述のフェラーリの高額なパーツ販売をみて、「この商売は儲かる」と踏んでもいた。フェルッチオはこの時、有望なビジネスとして高級車業界を見ておりスポーツカーへの愛情とその財力を背景にアウトモービリの創設を決意した。
「フェラーリに直談判に赴いたところ真摯に取り合ってもらえなかった事に腹を立てたフェルッチオが対抗意識からアウトモービリを創設した」という逸話が語られることがあるが、これはフェルッチオの死後池沢さとしが雑誌「GENROQ」企画のインタビューに訪れた際、彼の夫人によって否定されている(エンツオへ改善提案書を送り丁重な断りの返信があったことは事実という)。1962年のプロジェクトの発表、1963年の創業から同年のトリノモーターショーでのデビューまでが約一年というスケジュール自体がショーへ出品された350GTVと併せて話題となったがこの電光石火ぶりも後にこの逸話を補強する要因になった。だがこれも実際には創設にあたりフェルッチオの描いた厳格なビジネスモデルに基づいて綿密な計画と準備が成されていた結果である(少なくともランボルギーニが成功を収めたあとはフェルッチオとエンツオはむしろ良好な友好関係にあったとも言われる)。
この1963年トリノショーに出品された350GTVは非常に目を引く独創性にあふれたフランコ・スカリオーネのデザインによるボディラインを持ち、性能面や上質なインテリア等で一定の評価を得たが居住性やGTとしての使い勝手で酷評を受ける。 この評を受けてすぐにフェルッチオは根本的な改修を指示、翌年カロッツェリア・トゥーリングにより手直しを受けたボディを纏った市販車としての第一号350GTをロールアウト。ここに市販車メーカーとしてのアウトモービリ・ランボルギーニの歴史は幕を上げた。当初こそ伝統のあるマセラティやフェラーリを引き合いに出されてはトラクターメーカーとしての出自を揶揄されたが翌年に後継の400GTがロールアウトされる頃になると独創的なスタイルと快適性の高次での両立がエグゼクティブの間で話題となっており350GTは130台以上、400GTでは250台以上、当時の超高級GTとしては非常に良好なセールスを記録している。この後1966年のランボルギーニ・ミウラ、1971年のランボルギーニ・カウンタック(クンタッシ)とあまりにも有名な名車を次々と送り出し、押しも押されもせぬ世界的スーパースポーツの代名詞ともいえるブランドとなった。
トラクターの他にヘリコプターも作ったが、認可が下りず結果的に、プロトタイプの2台しか現存していない。
イタリア・モデナにあるトニーノ・ランボルギーニ・ムゼオにフェルッチオが関わったランボルギーニ製品が展示されている。
販売
世界
2006年の総納車台数は2,087台。2007年では10月25日時点でこの数字を超え、2,580台となった。
日本での販売
- 1968年~1972年 - ミツワ自動車(東京)が日本への輸入権を所持。
- 1972年~1980年 - シーサイドモーターが輸入権を所持。
- 1984年~1989年 - ジャクスが輸入権を所持。
- 1991年~1997年 - ガレーヂ伊太利屋が輸入権を所持。
- 1998年~2002年 - ミツワ自動車が輸入権を所持。
正規輸入・販売はアウディ・ジャパンの事業部として2001年に設立されたランボルギーニ・ジャパン(Automobili Lamborghini Japan、東京都・世田谷区)が行っている。2006年の年間販売台数は、176台(統計資料、JAIA日本自動車輸入組合)。2007年3月には、ランボルギーニ大阪を経営する光岡自動車の顧客情報(ランボルギーニ大阪店)がインターネット上に公開されてしまう事件が起きた[1]。
ちなみに、ランボルギーニトラクターも日本国内で販売されており、かつてフェラーリの輸入元であったコーンズの関連会社である株式会社コーンズ・エージーが販売を行っている。なお、ランボルギーニトラクターは他社のトラクターに比べると価格・性能共に大差はない。
車種一覧
エンブレムにちなみ、闘牛に関連した車名が多い。
現行車種
外観 | 車名 | 排気量 | エンジン | 駆動方式 | 座席数 | 解説 |
---|---|---|---|---|---|---|
150px | ウラカン(フラカン) | 5.2L | V型10気筒DOHC | 4WD | 2 | ドアは横開き |
150px | アヴェンタドール | 6.5L | V型12気筒DOHC | ドアは跳ね上げ式 |
限定生産車種
コンセプトカー
コンセプトバイク
過去の主な車種
- 350GTV
- 350GT
- 400GT
- イスレロ
- ハラマ
- エスパーダ
- ウラッコ
- シルエット
- ジャルパ
- LM002(チーター)
- ミウラ
- イオタ
- カウンタック
- ディアブロ
- ブラボー
- ムルシエラゴ
- レヴェントン
- アートン
- ガヤルド
モータースポーツ
かつては創業者のフェルッチオが「レースには出ない」ことを社是としていた。これは「当時のフェラーリがレースを本業として市販車はそのための資金稼ぎと位置づけ、そのためユーザーをないがしろにしていたことに対し反発したため」とも「フェルッチオ・ランボルギーニの息子が、その身を案じていたフェルッチオ・ランボルギーニの反対を押し切る形でレースに夢中になっており、息子を刺激しないため」とも、さらには自身のレース中の事故により大ケガを負った経験によるものとも言われている。
F1
クライスラー傘下に入った後の1989年、ラルースチームへのエンジン供給の形で、F1グランプリ参戦を開始した。
1990年に、メキシコで結成されたチーム「グラスF1」向けにF1マシンを含めて製作を行っていた。エントリーが認められたものの、グラスF1設立を提言したメキシコ人の富豪が資金を持ち逃げしたこともあり、資金が底をつき参戦困難となった。これによる参戦キャンセルによる違約金支払を回避するために、ランボルギーニが実質的なワークス・チーム、モデナに再編成して参戦した。しかし、マウロ・フォルギエリが設計したマシンは時代遅れもはなはだしいもので、目立った成績をあげることはなく、同年に撤退した。エンジンのレイアウトはV12で、独特な高音の排気音であり、それについては同じV12エンジンを搭載したフェラーリへの評価を上回るものだった。
1993年にはエンジンを再設計しパワーアップ、翌年のエンジン供給を考慮してマクラーレンがテストを実施したものの、マクラーレンはプジョーとの提携を選び、この結果ランボルギーニはF1を去ることとなった。
なお鈴木亜久里が日本グランプリで日本人としてはじめて3位入賞したときのエンジンがランボルギーニだった。
供給したチーム
SUPER GT
SUPER GTには、JLOC(Japan Lamborghini Owner's Club)より、全日本GT選手権の初期から参戦している。当初は漫画家の池沢さとしがドライバーを務めた。参戦時のマシンはカウンタックだったが、1995年~2004年にディアブロ、2004年からはムルシエラゴ、2007年よりガヤルドにて参戦している。これにランボルギーニも全面的に協力しており、このレースのためにディアブロ以降のマシンをワンオフ作成している。2005年からはGT300クラスにエントリーし2006年第1戦にて初優勝した。ランボルギーニがFIAの国際格式レースで優勝したのはこれが初めてのことだった。