ラッキー・ルチアーノ
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チャールズ・「ラッキー」ルチアーノ(テンプレート:Lang-en, 1897年11月24日 - 1962年1月26日)はアメリカ合衆国のイタリア系犯罪組織マフィア(コーサ・ノストラ)の最高幹部で組織改革者。犯罪シンジケートの立案者。本名はサルヴァトーレ・ルカーニア(テンプレート:Lang-it)。
マフィアの古いしきたりをやめてビジネスとして組織し、人種にこだわらずにアメリカ的な合理性を追求して勢力を拡大した。
イタリアへ追放されてからは麻薬コネクションを形成し、暗黒街を大いに富ませた。
目次
生涯
シチリアでの生活
シチリア島・パレルモ近くの町レルカラ・フリッディ村の貧しい家庭に、硫黄鉱山で働く労働者の父アントニオ、母ロザリアの次男として生まれる。食べていくのが精一杯の貧しい家庭だった。そのため家族でアメリカ合衆国に移民することを決めた。サルヴァトーレ自身はシチリアではまともな教育を受けることも満足に食べることもなく成長した。
アメリカへ移住
1906年11月に両親と4人の兄妹とニューヨークに移住する。アメリカではシチリアの年収が1日で稼げると聞いていた。しかし、実際にはアントニオはまともな仕事にありつくこともできず、日雇いの労働者となって家族を養っていかねばならなかった。家族が描いたアメリカンドリームは崩れたのだった。
テンプレート:仮リンクの悪夢のようなスラム街で少年時代を過ごす。このときのことをルチアーノは人生最悪の経験と語っている。そうした環境の中、犯罪の世界に足を踏み入れて行った。最初に警察沙汰になったのは1907年に万引きで検挙されたときである。
出会い
少年時代にファイブ・ポインツ・ギャング(Five Points Gang)に身を投じた。のちにシカゴのボスになるアル・カポネと出会ったのはこの頃である。その後カポネがシカゴへ行くときには餞別も渡している。
生涯を通じて重要なパートナーとなるマイヤー・ランスキーとの出会いも、この頃のことである。ルチアーノが小遣い稼ぎでユダヤ人の用心棒をやっていた時に、ルチアーノはランスキーに「アイルランドの連中から守ってやるから、金を払いな」と言った。すると頭一つ分小さいランスキーは、「用心棒?そんな者いらねえよ」と言い、ルチアーノをにらんだ。体格差に屈しないランスキーの度胸にルチアーノは驚いたという。このときから2人は生涯通じての友人になった。2人のことを良く知るベンジャミン・シーゲルは、彼ら2人にはまるで恋人のような強い絆があったと語っている。
さらにその後、ジョー・アドニス、ヴィト・ジェノヴェーゼ、フランク・コステロらのイタリア系犯罪者や、ベンジャミン・シーゲル、ダッチ・シュルツ、ルイス・バカルターら他国系移民の犯罪者と親交も持つ。
犯罪の世界
その後、麻薬ビジネスや売春業などで儲けるようになると、世界屈指の一流ホテル、ウォルドルフ=アストリアの豪華なスイートルームにチャールズ・ローズなる偽名で住んだ。若い頃の彼は洒落た格好をしたニューヨークのプレイボーイで、常に美女軍団を連れ、ストーク・クラブで大盤振る舞いをしていた。
1923年9月14日にニューヨークで行なわれたボクシングの試合(ジャック・デンプシー対ルイス・アンジェロ・フィルポ)の試合を見に行ったとき、ルチアーノが賄賂を贈っている政治家、裁判官、警察関係者たちは、会場でルチアーノを見かけると次から次と握手を求めてきた。このときルチアーノは権力のすごさを実感したという。
1928年頃になると、各地の組織と協力しないと今後は生き残っていけないと考え、シカゴを引退していたジョニー・トーリオたちと「ザ・セヴン・グループ」という、穏やかな同盟関係を構成する。翌1929年5月には、ニュージャージー州アトランティック・シティのプレジデント・ホテルで、全国から集まった若手ギャングスターと会議を開く。この会議でファミリー間の地位は大きさに関係なく同等という、その後のコミッション制が考えられた。
シチリアの晩鐘
10代の頃より商才を発揮し、イタリア人同士の対立にはできる限り関与せず、友人達と中立の立場にいた。しかし、1920年後半にジョー・マッセリアとサルヴァトーレ・マランツァーノの間のカステランマレーゼ戦争が本格化すると、どちらかに付かざるを得ない状況になってきた。まずマランツァーノが一家に誘ってくるが断る。その理由は「一緒に組んでも良いが、ランスキーたちシチリア人でない人間を組織からはずせ」という条件にあった。その後マッセリアと協定を結ぶ。
しかし、この頃ルチアーノは武力で相手を押さえつけるマッセリアのやり方には何のメリットもないと感じていたし、シチリア人だけにこだわるマランツァーノの組織は時代遅れだと思っていた。そのため彼ら旧時代のボスたちの時代を終わらせようと考えていた。
カステランマレーゼ戦争はマッセリアの勢力が大きかったが、徐々にマッセリアの形勢が不利になってくると、最後にはマランツァーノ側につきマッセリアの暗殺に加担する。1931年4月15日午後、コニーアイランドのイタリアン・レストラン「スカルパート」でルチアーノはマッセリアを食事に誘い、食後カードゲームを始めてしばらくするとトイレに行くため席を立った。その間に4人の殺し屋が入って来てマッセリアを射殺した。警察にトイレの時間が長かったことを聞かれたルチアーノは、「俺は一度始まると、なかなか終わらないたちでね」と長小便の習慣があると言い、悪びれた様子はなかったという。
その後、1931年5月にニューヨークの大ボスとなったマランツァーノやジョゼフ・ボナンノらと、シカゴで行われたギャングスターの会議に出席する。このときのアル・カポネのことを「逮捕が近かったせいか気が気ではなく顔が真っ青だった」と回想している。
その後、「シチリア人だけの組織」に固執したマランツァーノも暗殺する。マランツァーノも危険分子であるルチアーノを消そうと企んでいたが、ルチアーノはその事を内部情報で知っており、先手を打ったのである。その後48時間以内に全米に残った口ひげピート(Mustache Petes)と呼ばれる旧時代のボスたちを殺すか強制的に引退させた。これがシチリアの晩鐘(Sicilian Vespers)といわれる事件である。しかし、ルチアーノによればそんな大量虐殺の事実は一切ないと言い、警察の記録でも、ほんの数人のギャングが殺害されただけということになっている。
最高幹部へ
ルチアーノは組織力に優れ、マランツァーノが考えたニューヨークの縄張りの五大ファミリーへの固定化を実行し、他にも各地のイタリア系犯罪組織の統合を目指した。また犯罪集団にとって互いに争いをなくして目立たず潜在化することが利益に繋がることを説いて、他国系移民の犯罪組織とも協力して犯罪シンジケートの構築と運営の合議制化、制裁機関の設置などを考案した。それまで血縁関係や古いしきたりに従って動いていたマフィアを、アメリカナイズされた近代的なビジネス組織へと作り変えていった。彼自身もボス同士の互いの公平な立場を強調して、トップの地位を目指さないようにし信用を集めている。
ルチアーノは勢力拡大のため、政治家とのつながりを強めようとし、ニューヨークの民主党代表のアルバート・マルティネッリと親交を持ち、1932年の選挙の際、民主党に多額の選挙資金を送った。
この頃には自分の数多くの事業が年に20億ドルになると見積もっていた。
トーマス・デューイ対公共の敵ナンバー1
1936年、野心家の検事トーマス・デューイは、ルチアーノを「公共の敵ナンバーワン」と名指しし厳しく追及した。そのため、当時引退したギャングが集まる街だったアーカンソー州ホットスプリングスに身を隠した。このとき、古くからの友人のオウニー・マドゥンに生活の面倒を見てもらう。しかし4月1日にカジノで遊んでいたところ逮捕される。マドゥンが用意した優秀な弁護士を雇い5千ドルですぐに釈放されるが、デューイ側はすぐに再逮捕しニューヨークに連行された。ルチアーノ側はアーカンソー州司法長官のカール・E・ベイリー(Carl Edward Bailey)長官に5万ドルの賄賂を交換に釈放を求めたが断られた。
裁判では容疑は数多くあった。殺人、酒の密造・密売、労働組合の恐喝、ミカジメの取立てなどである。しかし有罪になったのは、彼が犯さなかった数少ない犯罪の一つである強制売春だった。売春事件としては異例の禁固30~50年の刑を宣告された。このときの裁判で検察側が出頭させた証人の多くは、当局の指示に従わないと逮捕すると脅迫を受けた売春婦たちで、ルチアーノに対して不利な証言をさせていた。そこまでしてもデューイ側はなんとしてもルチアーノを投獄させたかったという。ルチアーノは「私は多くの不法行為に関与したが強制売春だけはやっていない」と無実を主張したが、その後10年近く刑務所で暮らすことになる。ギャングが監視体制の厳しさからシベリアと恐れていたダンネモーラ刑務所(Clinton Correctional Facility, Dannemora)に送られた。
投獄されるがその権勢は衰えず、刑務所内から面会に来たマイヤー・ランスキーやフランク・コステロたちを使い、組織犯罪の指揮をとり続けた。刑務所の中でも大きな権威を持っていた。刑務所ではラジオを置き、新聞を取り、労働はせずに快適に暮らしていた。
アメリカ海軍との密約「暗黒街計画」
しかし、服役中の第二次世界大戦勃発により転機が訪れる。大戦が始まると東海岸一帯、特にニューヨークの港はドイツによるUボートの攻撃や諸々の破壊活動を受けていた。当時、フルトンフィッシュマーケット(Fulton Fish Market)のようなニューヨークの港は余所者が紛れ込むのに都合のいい場所と見られており、なおかつルチアーノのマフィア組織の支配下となっていたので、警察や軍の関係者が行くと身構えられてしまっていた。埠頭や繁華街での諜報活動にアメリカ海軍はマフィア組織との協力が必要だった。こうして通称「暗黒街計画」が始まる。
ルチアーノ自身は、ドイツの陰謀を利用して市民の不安をあおれば刑務所から出られると考え、アメリカ海軍に協力し、波止場でのスパイ監視活動やシチリア上陸作戦の情報提供を指示する。マイヤー・ランスキーらを刑務所に呼び、波止場における自分たちの支配力を行使するよう命じた。1941年、海軍情報部のため活動していたニューヨーク地方検事のフランク・ホーガンは協力を頼み、ルチアーノは取引をし、まずダンネモーラ刑務所からニューヨークに近いグリーンヘヴン刑務所へ移してもらう。
その後、連合軍がシチリアへ侵攻したときは、ジョー・ランザ(Joseph A. "Socks" Lanza)からの推薦もあり、チャールズ・ハッフェンデン(Charles Haffenden)海軍少佐が刑務所にいるルチアーノに協力を要請した。刑期を短縮させる努力をするというのが交換条件だった。しかし、ルチアーノは幼児のときにアメリカに渡ってきたのでシチリアへのコンタクトはひどく少なかった。そのためシチリア島のマフィアとのコンタクトを持っているヴィンセント・マンガーノ、ジョセフ・プロファチ、ジョゼフ・ボナンノらにも協力してもらい、シシリー・マフィアの大ボス、カロジェロ・ヴィッツィーニの協力を得た。ベニート・ムッソリーニはマフィアを弾圧していたので、彼らの利害関係が一致していた。1942年5月にグレート・メドウブ刑務所に移送される。
なお、「ギャングスター」の通弊として、様々な伝説に彩られるルチアーノだが、大戦中の1943年7月、シチリア南岸に上陸したパットン率いるアメリカ軍が7日でパレルモに進撃した事件に関して、侵攻初期の段階でニューヨークの刑務所に収監されていた筈のルチアーノがシチリア島で目撃されていたという噂があるが、識者の間でも議論の分かれる点ではある。このことについてトンマーゾ・ブシェッタが言うには、ラッキー・ルチアーノは大戦中に上陸作戦を助けるためにアメリカ軍よりも先にやって来て、それから一度アメリカに帰り、後に公式にイタリアに送られた。と告白している。この点は今となっては確認は難しい。
釈放と強制送還
ドイツが降伏しヨーロッパ戦線が終結した直後の1945年5月7日に、恩赦を求める嘆願書をニューヨーク州知事となったトーマス・E・デューイに提出した。政府は大戦中の功績を認め恩赦を許可した。しかし、アメリカ市民権を持たないのでイタリアへ強制送還される。裏でルチアーノはデューイに多額の政治資金を送ったという説もある。
1946年2月の寒い朝、船でニューヨーク港を発った。船内では豪華なパーティーでルチアーノの送別会が行なわれた。参加者はマイヤー・ランスキー、ベンジャミン・シーゲル、フランク・コステロ、ジョゼフ・ボナンノ、オウニー・マドゥン、カルロ・ガンビーノ、アルバート・アナスタシアらマフィアの大物多数であった。
このとき、港には多くのマスコミ関係者がルチアーノを取材しようと詰め掛けていたが、アナスタシア兄弟の指示を受けて、彼らの前には荷揚げ用のフックで武装した港湾労働者が立ちはだかり、ジャーナリストたちは一歩も進むことは出来ず、取材はできなかった。なおこのときルチアーノは「すぐにアメリカに戻れる」ものだと思っていた。
追放後
大戦後にイタリアへ強制送還されると、生まれ故郷のレルカラ・フリッディに帰るが、田舎の環境が気に入らずナポリで生活をする。
その後一度はキューバに落ち着き、1946年12月にマフィアの全国委員会・ハバナ会議(重要な議題はベンジャミン・シーゲルの処遇、麻薬取引)がキューバで開かれ議長を務めた。しかし、独裁者のフルヘンシオ・バティスタの息子か孫とうまくいかず、アメリカ政府からもキューバ滞在を反対されキューバ政府に圧力をかけたため、1年後にはイタリアへ戻ることになる。最初はパレルモに住み、その後ナポリに移り、スカラ座のバレリーナのイゲア・リッソーニを愛人にし、彼女と共に競馬場や高級レストランに毎日のように通い優雅な生活を送る。表は医療器具や家庭電化製品を扱う商人で、裏は麻薬や煙草の密輸をやっていた。
アメリカ追放後も、レバノンの密輸業者と連絡し、トルコで生産されている非合法アヘンをレバノンでモルヒネに加工させ、トロール船でイタリア沿岸部、または、フランスのマルセイユに運びヘロインに精製させていた。この意味で、1970年代のパレスチナゲリラの分派たちに資金作りの方法を教えた恩人と言える。
勿論、麻薬に関してはテンプレート:仮リンクが以前より地中海で幅を利かせていたが、米本土とのコネクションを持ち、イタリアとアメリカの間に麻薬密輸ルートを築き上げ、マフィアの勢力はさらに拡大する結果となった。中継基地のキューバも手中に収めている点でルチアーノは間違いなく1960年代の麻薬王となった。この麻薬はマフィアの資金源として彼の権威を絶大なものとした。さらにその資金を、ミラノの弁護士で銀行家のミケーレ・シンドーナを通じてマネーロンダリングさせていた。
その後も、シシリー・マフィアとカモッラとの仲をとりもったりするなど、常にイタリアとアメリカの犯罪組織に大きな影響を与え続けたが、生きてアメリカの土を踏むことはなかった。
1962年1月16日に、自伝映画製作者を出迎えるためナポリ空港に出向いたとき、空港で心臓発作を起こし死亡した。アメリカのマフィアは映画製作に反対していたため、ルチアーノの死は暗殺の疑いもある。遺体はニューヨークのセント・ジョーンズ墓地に埋葬された。
エピソード
- 華奢な体つきで無口な男だった。しかし、必要な時には暴力を振るったし、意見を求められれば自分の考え方を話したという。
- 1度も結婚することはなく、1人も子供はいなかった。
- バニラのアイスクリームが好物だった。
- 1916年6月26日に麻薬不法所持で逮捕され、このとき入ったハンプトン・フォームス刑務所内で、本名のサルヴァトーレのことをサリーちゃんとからかわれたという。このころからチャールズ・ルチアーノと名乗るようになったという。
- マッセリアの配下にいたときにマランツァーノがマッセリアを裏切るように誘ってきたがルチアーノは乗らなかった。そのため誘拐され拷問を受けた。1929年10月17日、ニューヨークのステイトン・アイランドの路上で意識不明で倒れていた。すぐに病院に運ばれ緊急手術を受け奇跡的に助かる。このとき顔を切り裂かれていたため55針を縫ったという。この傷は一生残ることになる。そのため右目蓋がたれている。それでも命は助かったことから「ラッキー・ルチアーノ」というニックネームが付き、仲間からはチャーリー・ラッキーと呼ばれるようになった。
- 1946年にパレルモで大戦中に協力してもらったカロジェロ・ヴィッツィーニと会う、2人は出身村も近く気が合ったという。彼とはパレルモに菓子会社を共同で作ったりもした。しかし、裏では麻薬密輸も行っていた。
- 1957年10月中旬、パレルモの高級ホテル「パルメ」で開かれた、シシリー・マフィアとアメリカン・マフィアのトップ会議があった。中心メンバーはジョゼフ・ボナンノ、ラッキー・ルチアーノ、ジョゼッペ・ジェンコ・ルッソである。会議の主要テーマは麻薬取引であった。マルセイユ経由のフレンチ・コネクションに対抗し、シチリアからアメリカ、ヨーロッパへのルートを確立させることだった。そのため、ヘロイン工場がシチリアで多く作られた。オリーブオイルの缶につめられ、年間3~4トンにものぼる量がアメリカへ送られたという。
- ナポリでは裕福な実業家として振る舞い、市内に豪華なアパートを2件、別荘を1件持っていた。つねに完璧な外見をしており、服からつめ先まで手入れを欠かさず、金縁の眼鏡がトレードマークだった。このころのルチアーノを知るトンマーゾ・ブシェッタは「彼は非常にまじめな人物だった。写真では醜男に見えるが、実際は美男子だった。それはそのしぐさや物腰が、どんな時でも、格段に際だって見えたからだ」と語っている。
- 晩年にはかつての盟友ヴィト・ジェノヴェーゼから刺客を送られたという。
- 1961年に自伝映画の話が持ち込まれる。報酬は10万ドルと配給収入の一部を受け取る契約であった。ルチアーノはこの申し出を受諾する。しかしアメリカン・マフィアは納得しなかった。マイヤー・ランスキーはルチアーノが事実上オメルタを破ることに激怒したという。それでもルチアーノは映画製作を決心した。
- 1991年に製作された映画『モブスターズ/青春の群像』では主役の青年チャールズ・ルチアーノをクリスチャン・スレーターが演じた。
関連項目
- ミケーレ・シンドーナ
- ポール・マルチンクス
- フランク・シナトラ
- FBI (連邦捜査局)
- LAST ALLIANCE(ラッキー・ルチアーノをモデルとした楽曲がある)