ジョー・アドニス
ジョー・アドニス(Joe Adonis, 1902年11月22日 - 1972年11月26日)は、イタリアおよびアメリカの犯罪組織コーサ・ノストラの幹部。
プロフィール
本名はジュゼッペ・アントニオ・ドート(Giuseppe Antonio Doto)で、ナポリの近くのモンテマラーノで生まれた。幼いころからスリなどの犯罪に手を染め、1915年、アメリカに不法入国しブルックリンに定住した。そこでラッキー・ルチアーノと知り合いジョー・アドニスと名乗るようになる。アドニスは部下の面倒見も良く、仲間内から尊敬の念を持ってジョー・Aと呼ばれていた。
強姦罪で検挙されたりしたが、恐喝や売春で金儲けをし身だしなみに気を遣い伊達男を気取った。ルチアーノとの縁でジョー・マッセリアの組織構成員になったが、マッセリアがライバルのサルヴァトーレ・マランツァーノと抗争に入ると、ルチアーノに同調して密かにマランツァーノに寝返り、1931年4月15日、コニーアイランドでマッセリアを襲って暗殺した。このときの仲間はベンジャミン・シーゲル 、ヴィト・ジェノヴェーゼ、アルバート・アナスタシアであったと言われる。
その後、ルチアーノがマランツァーノをも暗殺してコーサ・ノストラの最高幹部に就任すると、1932年からブルックリンの縄張りを任された。1936年から始まった連邦政府による組織犯罪摘発でルチアーノが逮捕されイタリアに追放されると、ルチアーノの指示を受けながらその代役を務めた。
パイピングロックという賭博場のオーナーの一人。フロリダ州、ルイジアナ州、カリフォルニア州などでもカジノを経営していた。競馬場、私設馬券場、競馬通信社を乗っ取り、掛け率をコントロールして莫大な利益を得ていた。
1953年にアドニスはキーファーヴァー委員会に召還されて不法入国者として追及され、その年の8月、イタリアに追放された。イタリアに戻ってから、先に追放されていたルチアーノの定住先であるナポリで悠々自適の生活を送ったが、二人のボスが会うことはなかった。ルチアーノはアドニスがアメリカの組織運営をジェノヴェーゼに託してきたことが気に入らなかった。
1972年11月26日、アドニスはローマ警察からの尋問中に心筋梗塞を起こして死亡した。葬儀は近親者のみによって静かに催され、遺体はニュージャージー州フォートリーのマドンナ墓地に葬られた。