ライアン・ギグス
テンプレート:サッカー選手 ライアン・ジョゼフ・ギグス OBE[1](Ryan Joseph Giggs OBE, 1973年11月29日 - )は、ウェールズのカーディフ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。プロとしてデビューをしてから一貫してマンチェスター・ユナイテッドFCに所属している。ポジションはミッドフィールダーで、1990年代から左ウイングのポジションでプレイしているが、近年はプレイメイカーの役割を担うことが多くなっている。 イングランドのサッカー史上で最もタイトルを獲得している選手であり[2]、トップリーグで13回の優勝を経験している。初めてPFA年間最優秀若手選手賞を2度受賞した選手である。2007年には最多得票でPFAの1997年から2007年までのベストイレブンに選出されており[3]、2003年にはプレミアリーグ10周年記念のベストイレブンにも選出されている。ギグスはマンチェスター・ユナイテッドの13回のプレミアリーグ、3回のリーグカップ優勝の全てを経験している唯一の選手であり、2008年5月21日に行われたチャンピオンズリーグ決勝に出場し、サー・ボビー・チャールトンの持つクラブの歴代最多出場記録(758試合)を更新した[4]。
2007年6月2日に引退するまでウェールズ代表としても活躍し、その当時最年少で代表デビューを飾った選手であった。フットボールリーグの歴代の名選手100人(Football League 100 Legends)に選ばれており、2007年にはOBEを受勲し、2005年にはイングランドのサッカーの殿堂入りをしている。
目次
生い立ち
ライアン・ジョセフ・ウィルソンは、カーディフRFCでプレイするラグビー選手の父、ダニー・ウィルソンと母、リン・ギグス(現在はリン・ジョンソン)のもとに、カントンにあるセント・デイヴィッズ病院で生を受けた。カーディフ西部郊外のエリーで育ったが、母親の両親のもとで過ごすことが多く、ペンダーベイン地区の家の外の道でよくサッカーをしていた。ギグスが6歳であった1980年に父がスウィントンRLFCと契約を結び、家族はマンチェスターへ引っ越すことになった。祖父母ととても仲が良かったギグスにはとてもショックな出来事であったが、週末や学校が休みであった時にはよく家族とカーディフに戻っていた。また、ギグスは混血(父方の祖父がシエラレオネの出身)であり、子どものころに人種差別を受けたと話している[5]。
マンチェスターに移ってからは、マンチェスター・シティFCのスカウトであったデニス・スコットフィールドが教えていた地元のクラブであるディーンズFCでプレイするようになっていた。ディーンズで初めて出場した試合では、ストレットフォード・ヴィクスに0-9で敗れたが、試合を見ていた多くの人は、ギグスがその日最も良いプレイをしていたと話した。スコットフィールドの薦めによりマンチェスター・シティのアカデミーに入ったが、ギグスはサルフォード・ボーイズ(サルフォードの選抜チーム)でのプレイも続け、1987年にはアンフィールドで行われたグラナダ・スクールズ・カップの決勝に進出している。ギグスはサルフォードでキャプテンを務め、優勝トロフィーをリヴァプールFCのチーフスカウトを務めるロン・イェーツから受け取った。イェーツもまたギグスの才能に感銘を受けていたが、その時にはすでにマンチェスター・ユナイテッドの話を受けてしまっていた。
地元で新聞などを販売し、オールド・トラッフォードの管理人を努めていたハロルド・ウッドはディーンズでのギグスのプレイをよく見ており、マンチェスター・ユナイテッドのトップチームのスタッフにギグスのことを話していたが、ウッド自身がアレックス・ファーガソンに直接伝えるまで、実際に視察をしようとはしなかった。ウッドはユナイテッドの監督であったファーガソンに、「今はシティに在籍しているが、彼を逃せば後悔することになる。」と、話した。それを受けたファーガソンはディーンズの試合にスカウトを派遣し、スカウトを納得させるのに十分なプレイを見せたギグスは1986年のクリスマスシーズンにトライアルを受けるように薦められた。トライアルを受ける前にギグスはザ・クリフ[6]で行われたサルフォード・ボーイズ対ユナイテッドU-15の試合に出場し、ハットトリックを決めており、ファーガソンはクラブハウスからその試合の様子を見ていた。
ギグスの14歳の誕生日である翌年の11月にファーガソンはスカウトのジョー・ブラウンとともにギグスの家を訪ね、2年間のアソシエイテッド・スクールボーイの契約を提示し、練習生契約ではなく、3年以内にプロ契約を提示することを約束した。ギグスはすぐに契約を結びたがったが、母であるリンがこれまで良くしてくれたシティに確認してからと言い、確認後契約に至った。
ギグスは1989年にウェンブリー・スタジアムで行われたドイツ代表との試合に臨むイングランド学生代表のメンバーに選ばれた(その当時はライアン・ウィルソンを名乗っていた)。ライアンは両親の離婚から2年が経った16歳の時に、「僕は僕の母親の子どもであるとみんなに知ってもらうために」と、姓を変更した[7]。U-21イングランド代表のコーチであったローリー・マクメネミーは、ギグスがイングランド代表としてプレイする資格があるかを調べたが、ギグスにはイングランド人の祖父母がおらず、ウェールズ代表でプレイする資格しか有していなかった。 (この規定は1990年当時のもので、2009年にはUEFAの規定が改定され、ある国で5年間の教育を受けた選手はその国の代表になれることになり、もし現在の規定が1990年当時にあったならば、ギグスはイングランド代表になることができたことになるが、現実には1990年当時にはその規定はなく、彼はウェールズ代表しか選択肢はなかった。)
クラブ経歴
マンチェスター・ユナイテッド
ギグスがトップチームデビューを飾ったのは1990-91シーズンであるが、レギュラーとしてプレイするようになったのは1991-92シーズンからである。クラブの最多試合出場記録を有しており[8]、1992年以降、12度のプレミアリーグ優勝、4度のFAカップ優勝、3度のリーグカップ優勝、2度のチャンピオンズリーグ優勝を経験している。また、チャンピオンズリーグでは2度、FAカップでは3度、リーグカップでは2度、プレミアリーグでは5度の準優勝も経験している。これまでもキャプテンを務める機会はあったが、特に2007-08シーズンはキャプテンであるガリー・ネヴィルが怪我で欠場することが多く、代わってキャプテンを務めることも多かった。2010-11シーズン終了時点で、全てのプレミアリーグのシーズンでゴールを記録している唯一の選手である。
デビューからブレイクまで
ギグスは17歳の誕生日である1990年11月29日にプロ契約を結び、1960年代に活躍したジョージ・ベスト以来の可能性を秘めた選手であると様々なメディアで報じられていた。
1991年3月2日にオールド・トラッフォードで行われ、0-2で敗れたエヴァートンFC戦にデニス・アーウィンと交代で出場し、リーグデビューを果たした。初めてスターティングメンバーとして出場したのは1991年5月4日に行われたマンチェスター・ダービーであり、コリン・ヘンドリーのオウンゴールにも見えたが、ギグスはこの試合で初ゴールを記録した。しかし、その試合の11日後に行われたUEFAカップウィナーズカップ決勝のFCバルセロナ戦のメンバーには選ばれなかった。その当時左ウイングのポジションのレギュラーは、ダニー・ウォーレスに代わり、20歳のリー・シャープが務めていた。
1991-92シーズンの初めにレギュラーポジションを掴んだが、ユースチームのキャプテンも務めており、「ファーガソンのひな鳥」と呼ばれるチームメイトたちと1992年のFAユースカップのタイトルを獲得している。トップチームで実力を発揮し始めたが、彼はまだ17歳であった。成熟されたプレイを披露し、ファーガソンの下で他のユースチームの選手が昇格するための礎を築いた。トップチームでは最年少の選手であり、ブライアン・ロブソンのような選手のアドバイスに積極的に耳を傾けた。ロブソンは自身やケビン・キーガンの代理人を務めるハリー・スウェールズと契約を結ぶように薦めた[9]。
そのシーズンはプレミアリーグに変わる前の最後のディヴィジョン1のシーズンであったが、リーズ・ユナイテッドAFCに次いで2位でシーズンを終えた。優勝争いをずっとリードしていたが、4月の成績が振るわずリーズ・ユナイテッドに抜かれてしまったのであった。
1992年4月12日にリーグカップ決勝でノッティンガム・フォレストに勝利し、ユナイテッドで初めてのタイトルを獲得した。ギグスはその試合で唯一となるブライアン・マクレアーのゴールをアシストし、シーズン終了後にはPFA年間最優秀若手選手賞を受賞した。
キャリア前半
1992-93シーズンは、新しく創設されたプレミアリーグの最初のシーズンであった。ギグスはユナイテッドの左ウイングで確固たる地位を築いており、イギリスで最も才能豊かな若手選手の一人であると評価されるようになっていた。ギグスの登場とエリック・カントナの加入により、チームはリーグの優勝候補であると目されていた。監督はギグスが20歳になるまでメディアのインタビューを断り、周囲の雑音からギグスを守っていた。初めて受けたインタビューは、1993-94シーズンに放送されたBBCの『マッチ・オブ・ザ・デイ』であり、インタビュアーはデズ・リアムであった。このシーズンにユナイテッドはダブル(2冠)を達成し、ギグスは、エリック・カントナ、ポール・インス、マーク・ヒューズとともにチームで中心的な役割を果たした。チームは4試合を終えた8月末に首位に立って以降は一度も順位を落とさなかった。リーグカップでも決勝に進出し、ギグスも出場したが、1-3でアストン・ヴィラFCに敗れ、トレブル(3冠)達成とはならなかった。
ギグスは通常の若手選手には設けられないような機会を与えられており、1994年には『ライアン・ギグス・サッカー・スキルズ』というテレビ番組が放送され、後にシリーズとして本になって出版された。また、ギグスは様々な雑誌の表紙を飾り、1980年代に相次いだ暴力行為により低迷したイングランドサッカーのイメージの向上、市場拡大に貢献し、広く名前が知られるようになっていった。ギグスは周囲の注目を集めることを好まなかったが若者の憧れの的となった。「プレミアシップの看板選手」[10]と言われ、「ワンダーボーイ」[11]という言葉で形容された最初の選手であり、これによりその言葉が一般に広く知られるようになったと言われている。ギグスはジョージ・ベスト以来の人を惹きつける魅力を持ったスター選手であると認められるようになり、練習を見るためだけにザ・クリフを訪れたベストとボビー・チャールトンは、今最も好きな若手選手であるとギグスについてよく話し、ベストは、「いつか私がもう一人のギグスと呼ばれるようになる日が来るかもしれない」と、冗談を言っていた[12]。
彼の絶大な人気はサッカーファンに新たな時代の到来を予感させるものであり、「100万人の10代の若者をユナイテッドファンに変えた」と言われた[13]。ギグスは労働者階級以外の人たちにもサッカー人気が広がりつつあった1990年代のサッカーシーンに突然現れ、写真うつりの良かった若いギグスのような選手(リヴァプールFCファンの場合はジェイミー・レドナップ)はポップスターのような扱いを受け、広い支持を集めた。ギグスが本のサイン会に登場した時には道がふさがり、交通が滞ることも珍しいことではなかった[14]。
ギグスの才能はチームメイトのポール・インスらに「天才」や「魔術師」というような言葉で形容され、ガリー・パリスターは、「練習で彼をマークしようとして血液の流れが滞ってしまった。」と話すなど、同じサッカー選手からも認められていた。彼より経験豊かな選手たちはトップチームに加入した当初から一体いつになったら彼をデビューさせるのかといつも監督に聞き、それがギグスのデビューにつながった[10]。スティーヴ・ブルースはギグスについて、「走っている彼はまるで風のようだ。風のように軽く音がしない。彼は自然体でボールを扱いドリブルをするが、それは本当に素晴らしい選手でなければ出来ないことだ。ベッカムとスコールジーを貶すつもりはないが、彼は唯一無二のスーパースターだ」と、述べた[10]。
ギグスはゴール・オブ・ザ・シーズンの候補に選ばれるいくつかのゴールを挙げ、得点力も備えた選手であることも証明している。彼のベストゴールには、1993年のクイーンズ・パーク・レンジャーズ戦、1994年のトッテナム戦、1995年のエヴァートンFC戦、1996年のコヴェントリー戦で記録したゴールが挙げられるが、キャリアで最高のゴールであると評価されているのは、FAカップの再試合のアーセナルFC戦で記録したものである。パトリック・ヴィエラのパスをインターセプトし、ハーフウェイラインからドリブルで持ち込み、トニー・アダムス、リー・ディクソン、マーティン・キーオンを交わして決めたゴールである。ギグスはユニフォームを脱ぎ、チームメイトに駆け寄りゴールを祝福した。この年以降FAカップの準決勝は一度の対戦で決着をつけることになったので、ギグスのゴールは、FAカップ準決勝の再試合において記録された最後のゴールとなった。このゴールは1998-99シーズンのゴール・オブ・ザ・シーズンに選出されている。
1994-95シーズンは怪我により29試合に出場し、1ゴールを挙げるに留まった。シーズン後半に復帰し、コンディションを取り戻したが、クラブはメジャータイトルを一つも獲得することなくシーズンを終えることになってしまった。リーグではシーズン最終日にウェストハム・ユナイテッドに敗れ、ブラックバーン・ローヴァーズFCにタイトルを譲った。FAカップ決勝ではギグスも途中出場したが、0-1でエヴァートンに屈した。
1995-96シーズンは怪我から完全に回復し、2度目のダブルを達成したチームにおいて重要な役割を果たした。グディソン・パークで行われたエヴァートンFC戦で決めたゴールは、ゴール・オブ・ザ・シーズンの候補に入ったが、投票の結果、マンチェスター・シティFCのゲオルギ・キンクラーゼの記録したゴールが賞に選ばれた。11月のサウサンプトンFC戦では2ゴールを挙げ、シーズンで最高の活躍を見せた。
翌シーズン、クラブは4シーズンで3度目となるリーグタイトルを活躍し、ギグスはヨーロッパの舞台で脚光を浴びる最初のチャンスを得た。チャンピオンズリーグでは準決勝に進出し、28年振りとなるタイトル獲得の期待がかかったが、ボルシア・ドルトムントに2試合とも0-1で敗れ、大会を後にした。
1997-98シーズンには、クラブはシーズン後半に失速し、アーセナルに次いで2位でシーズンを終えた。タイトルを一つも獲得せずにシーズンを終えるのは、1989年以来2度目となる出来事であった。翌シーズンには、ギグスは怪我により多くの試合を欠場することになったが、2つのカップ戦のでは素晴らしいパフォーマンスを発揮した。アーセナルとのFAカップ準決勝では延長戦で2-1となる決勝ゴールを決め、ホームで行われたチャンピオンズリーグ準決勝のユヴェントス戦では90分に同点となるゴールを決めた。
1998-99シーズンのチャンピオンズリーグ決勝ではテディ・シェリンガムの同点ゴールをアシストし、クラブのトレブル達成に貢献した。また、年末に行われたインターコンチネンタルカップのパルメイラス戦ではマン・オブ・ザ・マッチに選出された。
この頃になると、デイヴィッド・ベッカムのような若手選手が注目を集めるようになり、ギグスがメディアに取り上げられる機会は減少した。特にベッカムは過去に例を見ないような脚光を浴びるようになっていった。
キャリア後半
2002年5月にデニス・アーウィンがクラブを去ると、ギグスはトップチームで最もユナイテッドに長く在籍している選手となり、28歳にしてチームで重要な役割を担うようになった。ギグスは1999年のトレブル達成後も活躍を続けており、ユナイテッドは4シーズンで3度のリーグ優勝を飾り、チャンピオンズリーグでは3度の準々決勝進出と1度の準決勝進出を果たしていた。2001-02シーズン開幕前にはオールド・トラッフォードでデビュー10周年を祝うセルティックFCとの記念試合が催され、スタンフォード・ブリッジで行われたチェルシーFC戦でキャリア通算100ゴールを達成した。
2004年5月22日に行われたFAカップ決勝に出場し勝利をおさめ、FAカップにおいて4度優勝を果たしたマンチェスター・ユナイテッドでただ2人の選手の内の一人(もう一人はロイ・キーン)となった。また1995年、2005年、2007年には準優勝も果たしている。2004年9月に行われたリヴァプール戦に出場し、サー・ボビー・チャールトン、ビル・フォルケスに続いてユナイテッドで600試合出場を達成した3人目の選手となった。2005年にはイングランドのサッカーに対する貢献が評価され、イングランドのサッカーの殿堂入りをした。
シーズン終了後には通常30歳を超える選手とは単年での契約しか結ばないという方針を曲げ、当時クラブの代表であったデイヴィッド・ギルは2年間の契約を提示し、ギグスは契約を結んだ。その後、少なくとも36歳になる2010年6月までクラブに留めておくために、1年間の延長契約を2度結んだ。ギグスはまたハムストリングの負傷の問題以外は、ほとんど怪我をすることもなかった。
2007年5月6日に行われたチェルシーFCとアーセナルFCの試合が1-1の引き分けに終わり、マンチェスター・ユナイテッドはリーグチャンピオンになった。ギグスにとっては9度目の優勝であり、アラン・ハンセン、フィル・ニール(二人はすべての優勝をリヴァプールで成し遂げている)と並んでいた記録を更新した。2007年のコミュニティーシールドの試合では前半にゴールを挙げ、試合は1-1でPK戦になったが、エドウィン・ファン・デル・サールが最初の3本全てを止め、チームはタイトルを獲得した。
2007-08シーズンは、アレックス・ファーガソンはローテーション制を採用したため、ナニ、アンデルソンといった選手が起用されることも多かったが、重要な試合に起用されるのはギグスであり、オールド・トラッフォードで行われたチェルシーFC戦ではカルロス・テベスのユナイテッドでの初ゴールをアシストした。
2007年12月8日に行われ、4-1で勝利したダービー・カウンティ戦ではリーグ通算100ゴールを達成した[15]。2008年2月20日に行われたチャンピオンズリーグのリヨン戦では100試合出場を果たし[16]、2008年5月11日にはサー・ボビー・チャールトンの記録に並ぶユナイテッドにおいての758試合出場を果たした[17]。チャンピオンズリーグ決勝のチェルシー戦では87分からポール・スコールズと交代で出場し、ボビー・チャールトンの記録を更新した。
2008-09シーズンの初めからファーガソンはギグスを最も得意とするウイングのポジションではなく、センターハーフで起用するようになった。ギグスは新しいポジションにすぐに適応し、ミドルスブラFC戦やオールボーBK戦など、多くの試合でアシストを記録した。サー・アレックス・ファーガソンはインタビューに応え、「ギグスは11月で35歳になるがユナイテッドにとって非常に重要なキーとなる選手である。25歳の彼はスピードでディフェンダーを困難に陥れたが、35歳となった今では円熟味が増した選手となった」と、述べギグスを讃えた[18]。引退後にオーレ・グンナー・スールシャールのようにクラブに加わってもらうために、ファーガソンはギグスにコーチングライセンスを取得することを勧め、ギグスは講習を受け始めた[19]。
2009年2月9日に行われたウェストハム・ユナイテッドFC戦でシーズン初ゴールを記録し[20]、1992年から始まったプレミアリーグの全てのシーズンでゴールを記録している唯一の選手であるという記録を維持し、同月に1年間の契約延長にサインした[21]。チームは素晴らしいシーズンを送り、シーズン終了後にはギグスを含め4名のユナイテッドの選手がPFA年間最優秀選手賞にノミネートされた[22]。2009年4月26日にギグスは受賞したが、受賞した時点でスターティングメンバーとして出場した試合は12試合であった。ギグスが同賞を受賞したのは彼の輝かしいキャリアにおいて初めてのことであった[23]。授賞式の前にアレックス・ファーガソンは、長年チームに貢献してくれているし、受賞するにふさわしい選手であると述べていた[24]。ギグスは2009年4月29日に行われたチャンピオンズリーグ準決勝のアーセナルFC戦において、クラブの公式戦800試合出場を達成し[25]、2009年5月16日には、11回目のリーグタイトルを獲得した。
2009-10シーズンのプレシーズマッチの杭州グリーンタウン戦で、ユナイテッドにおいて自身初となるハットトリックを達成した[26]。
2009年9月12日に行われたトッテナム・ホットスパーFC戦でフリーキックからシーズン初ゴールを記録し、自身の持つ記録を維持した。この試合はギグスにとってスターティングメンバーとして出場した700試合目のゲームであった[27]。9月30日に行われたチャンピオンズリーグのVfLヴォルフスブルク戦でもフリーキックからゴールを挙げ、ユナイテッドで150ゴールを記録した9人目の選手となった[28]。
36歳の誕生日の翌日の2009年11月30日に一年間の契約延長のオファーを提示され[29]、同日にBBCスポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤーの候補に選ばれた。12月12日に行われたアストン・ヴィラFC戦に出場し、ガリー・スピードの持つプレミアリーグの最多出場記録535試合を更新し、同日にBBCスポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤーを受賞した[30]。12月18日に契約延長に合意し、2010-11シーズン終了後までクラブに留まることになった[31]。
2011年2月18日に1年の契約延長を発表[32]。4月12日にはチャンピオンズリーグ準々決勝のチェルシーFC戦に出場し、ローラン・ブランの持っていたヨーロッパ規模の大会におけるフィールドプレイヤーの最年長出場記録を更新した[33]。また、4月26日アウェーのシャルケ戦では先制点を挙げ、チャンピオンズリーグの最年長ゴール記録保持者となった。
指導者時代
2013-14シーズンから、ユナイテッドの選手兼コーチに任命された[34]。2014年4月22日、デイヴィッド・モイーズ監督の解任に伴い、選手兼任で暫定監督に任命された[35]。
代表経歴
ウェールズ人の両親から生まれたギグスはウェールズ代表としてプレイをした。イングランドの学生代表のキャプテンを務めたことがあるが、これは国籍ではなく通っている学校の所在地によって選出される代表であった[36]。1991年に代表デビューを飾ったが、これは当時の最年少記録であった。1991年から2007年まで64試合に出場し、12ゴールを挙げた。2004年からはキャプテンを務めた。
ギグスは親善試合の出場に消極的であるとの理由から、たびたび批判を受けた。1991年のドイツ代表戦でデビューをしてからその後9年間親善試合には出場せず、連続18試合出場に応じなかった。表向きは負傷による辞退であったが、実際はマンチェスター・ユナイテッドの監督であるアレックス・ファーガソンが、親善試合に選手を出場させないという方針を持っていたからであると言われている[37]。
2006年9月にブラジル代表との親善試合に出場し、2-0で勝利した。試合後にドゥンガは、カカやロナウジーニョといった選手と比べても遜色ないと述べ、賛辞を送った[38]。
2007年5月30日に記者会見を開き、16年に渡ってプレイをしてきた代表から引退すると発表した。最後の試合となったのは6月2日に行われたEURO2008予選のチェコ代表戦であり、キャプテンとして出場した。試合は1-1の引き分けに終わったが、ギグスはマン・オブ・ザ・マッチに選出された[39]。
2012年ロンドンオリンピックのオリンピックサッカーグレートブリテン代表にオーバーエイジとして選ばれキャプテンを務めた。
個人成績
所属クラブ | シーズン | 背番号 | リーグ | FAカップ | リーグカップ | CL[40] | その他[41] | 期間通算 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |||
マンチェスター・ユナイテッド | 1990–91 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | |
1991-92 | 38 | 4 | 3 | 0 | 8 | 3 | 1 | 0 | 1 | 0 | 51 | 7 | ||
1992-93 | 41 | 9 | 2 | 2 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 46 | 11 | ||
1993-94 | 11 | 38 | 13 | 7 | 1 | 8 | 3 | 4 | 0 | 1 | 0 | 58 | 17 | |
1994-95 | 29 | 1 | 7 | 1 | 0 | 0 | 3 | 2 | 1 | 0 | 40 | 4 | ||
1995-96 | 33 | 11 | 7 | 1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 44 | 12 | ||
1996-97 | 26 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 | 1 | 0 | 37 | 5 | ||
1997-98 | 29 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | 1 | 0 | 37 | 9 | ||
1998-99 | 24 | 3 | 6 | 2 | 1 | 0 | 9 | 5 | 1 | 0 | 41 | 10 | ||
1999-2000 | 30 | 6 | – | 0 | 0 | 11 | 1 | 3 | 0 | 44 | 7 | |||
2000-01 | 31 | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 11 | 2 | 1 | 0 | 45 | 7 | ||
2001-02 | 25 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 13 | 2 | 1 | 0 | 40 | 9 | ||
2002-03 | 36 | 8 | 3 | 2 | 5 | 0 | 15 | 4 | 0 | 0 | 59 | 14 | ||
2003-04 | 33 | 7 | 5 | 0 | 0 | 0 | 8 | 1 | 1 | 0 | 47 | 8 | ||
2004-05 | 32 | 5 | 4 | 0 | 1 | 1 | 6 | 2 | 1 | 0 | 44 | 8 | ||
2005-06 | 27 | 3 | 2 | 1 | 3 | 0 | 5 | 1 | 0 | 0 | 37 | 5 | ||
2006-07 | 30 | 4 | 6 | 0 | 0 | 0 | 8 | 2 | 0 | 0 | 44 | 6 | ||
2007-08 | 31 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | 1 | 1 | 43 | 4 | ||
2008-09 | 28 | 2 | 2 | 0 | 4 | 1 | 11 | 1 | 2 | 0 | 46 | 4 | ||
2009-10 | 25 | 5 | 1 | 0 | 2 | 1 | 3 | 1 | 1 | 0 | 32 | 7 | ||
2010-11 | 25 | 2 | 3 | 1 | 1 | 0 | 8 | 1 | 1 | 0 | 38 | 4 | ||
2011-12 | 25 | 2 | 2 | 0 | 1 | 1 | 5 | 1 | 0 | 0 | 33 | 4 | ||
2012-13 | 22 | 2 | 4 | 1 | 1 | 2 | 5 | 0 | 0 | 0 | 32 | 5 | ||
2013-14 | 12 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 7 | 0 | 1 | 0 | 20 | 0 | ||
期間通算 | 672 | 114 | 74 | 12 | 42 | 12 | 157 | 29 | 19 | 1 | 961 | 168 |
獲得タイトル
クラブ
- プレミアリーグ:1992-93、1993-94、1995-96、1996-97、1998-99、1999-00、2000-01、2002-03、2006-07、2007-08、2008-09、2010-11、2012-13
- FAカップ:1994、1996、1999、2004年
- フットボールリーグカップ:1992、2006、2009年
- FAコミュニティ・シールド:1993、1994、1996、1997、2003、2007、2008年、2010年、2011年、2013年
- UEFAスーパーカップ:1991年
- UEFAチャンピオンズリーグ:1999、2008年
- インターコンチネンタルカップ:1999年
- FIFAクラブワールドカップ:2008年
個人
- PFA年間最優秀若手選手賞:1992、1993年
- ブラヴォー賞:1993年
- BBCウェールズ・スポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤー:1996、2009年
- サー・マット・バスビー年間最優秀選手賞:1997-98
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人:83位
- インターコンチネンタルカップMVP:1999年
- プレミアリーグ10周年記念ベストイレブン(1993-2003):2003年
- イングランドサッカー殿堂:2005年
- ウェールズ年間最優秀選手賞:1996、2006年
- プレミアリーグ月間最優秀選手賞:1993年9月、2006年8月、2007年2月
- PFAベストイレブン(1997-2007):2007年
- PFA年間ベストイレブン:1993、1994、1995、1996、1998、2001、2007、2009年
- PFA年間最優秀選手賞:2009年
- BBCスポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤー:2009年
監督成績
クラブ | 国 | 就任 | 退任 | 記録 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 勝ち | 分け | 負け | 勝率 % | ||||
マンチェスター・ユナイテッド | テンプレート:Flagicon | 2014年4月23日 | 2014年5月11日 | 4 | 2 | 1 | 1 |
パーソナルライフ
ギグスは、リーボック、ソヴィル・タイタス、シチズン時計、ジバンシィ、富士フイルム、パテック・フィリップ、クォーン・バーガー、ITVデジタル、セルコムの広告塔として活躍してきた。
BBCスポーツの記事によると、「1990年代前半、ベッカムがユナイテッドのトップチームでポジションを掴むまでは、ギグスが現在のデビッド・ベッカムのような存在だった。ギグスがサッカー雑誌の表紙を飾るのであれば、その号はその年の最大の売り上げを約束されたも同然だった。男性は新たなベストについて知るために、女性は寝室に飾るためにその雑誌を手にしたものだった。ベッカムがプレストン・ノースエンドFCにレンタルに出されている頃には、ギグスは富士フイルムやリーボックとは100万ポンドの契約を結び、ダニ・ベアー、ダヴィニア・テイラーといった有名人の恋人がいた。」[10]
ギグスは長年連れ添ったステイシー・クックと、2007年9月7日に親しい友人や家族だけを招待して式を挙げた[42]。現在は二人の子ども、リビーの名で知られているリバティとザックと家族4人でマンチェスターのワースリー地区で生活している[10]。
ギグスはUNICEFの親善大使に任命され、2002年から地雷の被害から子どもたちを守るためのキャンペーンに参加している。ギグスはUNICEFの企画でタイを訪問し、BBCに、「サッカー選手である僕には片足を失った人生なんて想像も出来ない…。悲しいことに実際に毎年数千人もの子どもがそうした被害に遭っている。」と、語った[43]。
2011年5月末にtwitterで元ミス・ウェールズのイモージェン・トーマスとの不倫が暴露され、更に実弟の妻ナターシャと八年間に渡り不倫していたことが英国のタブロイド紙で報じられた。なお結婚を間近に控えていたナターシャはギグスの子供を妊娠していたがギグスが500ポンドを払い中絶させたという。
エピソード
- デイヴィッド・ベッカムはギグスがイングランド北西部・ワースリーに住んでいた頃からの付き合いがある親友。
- 4歳下の弟、ロードリ・ギグスもサッカー選手で、ポジションは右サイドハーフ。
- 14歳でマンチェスター・ユナイテッドのユースの入団試験を受けたが、その様子を目にしたアレックス・ファーガソンは自身の著書『マネージング・マイ・ライフ』の中で「彼を目にして、監督になって以来流してきた汗と欲求不満と惨めさがすべて吹き飛んだ。めったに得ることができないかけがえのない瞬間だった。川も山もすべてさらった後に、突然金塊を前にしていることに気づいた金掘りだって、その日ギグスを目にした私ほど幸せではなかったにちがいない。 …(中略)… いま振り返っても、私の13年間のオールド・トラフォードでの日々に対してユナイテッドが支払った給料は、ライアンを確保したという一点のみで正当化されると確信している」と最大限の賛辞を贈っている。
- イングランド代表の左サイドの人材難から、彼の才能に敬意を表し、もしイングランド代表なら…と考えるイングランド人は非常に多く、メディアでもしばしば話題にのぼる。これについてギグスは「何度過去にさかのぼっても、ウェールズ代表を選ぶだろう」と答えている。
- 現役引退後は「指導者としてウェールズ代表に携わり、メジャーな大会へと導きたい」と語っている[44]。
脚注
外部リンク
- Ryan Giggs Official Website テンプレート:En icon
- Manchester United Official Website Biography テンプレート:En icon
- 出場記録 Soccerbase.com テンプレート:En icon
テンプレート:マンチェスター・ユナイテッドFCのメンバー テンプレート:ロンドンオリンピック (2012年) サッカーグレートブリテン代表 テンプレート:Navboxes テンプレート:Navboxes
- ↑ OBE honour for United hero Giggs
- ↑ Ryan Giggs wins BBC Sports Personality of the Year 2009
- ↑ Teams of the Century
- ↑ Spot-on Giggs overtakes Charlton
- ↑ Ryan Giggs: You must speak out on abusers
- ↑ 1999年まで使用されていたユナイテッドのトレーニンググラウンド。英語版のページ、The Cliff。
- ↑ Ryan Giggs
- ↑ http://www.manutd.com/en/Players-And-Staff/First-Team/Ryan-Giggs.aspx
- ↑ The teenage tornado
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 BBC SPORT | Football | My Club | Man Utd | Ryan Giggs in a league of his own
- ↑ Milestone looming for Giggs
- ↑ Football Hall of Fame - Ryan Giggs
- ↑ Ryan Giggs
- ↑ The Life of Ryan Giggs
- ↑ Giggs is underrated - Ferdinand
- ↑ Giggs signs up for 100 club in Lyon
- ↑ Ryan Giggs reaches Bobby Charlton mark
- ↑ Report: MU 1 (6) Chelsea 1 (5)
- ↑ Ryan Giggs faces up to life after Old Trafford
- ↑ West Ham 0-1 Man Utd
- ↑ Giggs signs new Man Utd contract
- ↑ Man Utd dominate PFA awards list
- ↑ Giggs earns prestigious PFA award
- ↑ Ferguson backs Giggs to win award
- ↑ Man Utd 1-0 Arsenal
- ↑ Giggs' glee at first hat-trick
- ↑ Saturday football as it happened
- ↑ Man Utd 2 - 1 Wolfsburg
- ↑ Manchester United great Ryan Giggs to be offered 12 month contract extension and stay with club until 2011
- ↑ Ryan Giggs wins 2009 BBC Sports Personality award
- ↑ Ryan Giggs signs new deal at Manchester United
- ↑ フットボーラーの鑑ギグス、現役続行発表Livedoorスポーツ 2011年2月19日
- ↑ 記録更新のギグス、シーズン終盤の連戦を楽しむLivedoorスポーツ 2011年4月14日
- ↑ ユナイテッド、ギグスを選手兼コーチに任命
- ↑ ユナイテッド、ギグスが暫定的にチームを指揮
- ↑ Could Ryan Giggs have played for England?
- ↑ Ferguson `protects' Giggs from Wales
- ↑ Brazil's Dunga dazzled by Giggs
- ↑ Giggs ends international career
- ↑ 1995-96シーズンはUEFAカップ。
- ↑ その他とはコミュニティーシールド, UEFAスーパーカップ, インターコンチネンタルカップ, FIFAクラブワールドカップのこと。
- ↑ Ryan meets his match
- ↑ Ryan Giggs speaks to Unicef
- ↑ Goal.com ギグス、引退後の夢を明かす