ポメラニア
ポメラニア、ポモージェ、ポンメルン(テンプレート:Lang-pl, テンプレート:Lang-de, ポメラニア語(カシューブ語): Pòmòrze, Pòmòrskô, ラテン語、英語: Pomerania, Pomorania)は、ポーランド北西部からドイツ北東部にかけて広がる地域。伝統的、或は地勢的には北にバルト海、東西をオーデル川とヴィスワ川にはさまれた地域である。ポメラニアの東端部の、ヴィスワ川を挟んでプロシアに接する地方はポメレリア(Pomerelia, テンプレート:Lang-de)と呼ばれる(中心都市はグダニスク)。
イヌの品種ポメラニアンは、ポメラニア地方が原産地である。また、世界の琥珀の90パーセントがポーランド領ポモージェ地方の海岸で産出されている。
地理
ポーランド側は、南はノテチ川(ネッツェ川)、西はオドラ川(オーデル川)までがポーランド領ポモージェ地方で、東西240km、南北140km、面積はおよそ33,600平方kmにおよぶ。西ポモージェ県、クヤヴィ・ポモージェ県、ポモージェ県の3つの県に分けられている。ドイツ側はメクレンブルク=フォアポンメルン州の東部にあたる。
歴史
土地が痩せていて農業に適さず、古くから海岸より奥は人がほとんど住んでいなかった。紀元前500年ころから民族移動時代までゲルマン系の部族(ゴート族、ルギ族など)が海岸地方一帯に住んでおり、紀元後6世紀頃以来スラヴ系のカシュープ族、ポメラニア族、オボトリト族、ルジャニ族などが住むようになった。特にオボトリト族はユトランド半島の近くまで進出した。中世以降いわゆる東方植民により低地ドイツ系の住民が増えていった。
古くからポーランド王国とデンマーク、スウェーデン、ドイツ騎士団、ザクセン公国など周辺諸国との間で争奪されてきた。ポモージェのほとんどは低地で、海岸の砂地のほかはマツ・ブナ・ナラ・カバなどの原生林や沼沢地が多くを占めている。農業に適さない土地であり、東方のプロイセンのほうが豊かだったため、中世の植民者たちも、海岸地帯以外にはほとんど足を踏み入れることはなかった。12世紀にポメラニア公国が成立し、最初はポーランド王国に臣従していたが、13世紀以降は神聖ローマ帝国領に入り、17世紀にヒンターポンメルン地区がプロイセン領になり、19世紀に全土がプロイセン王国領に編入され、ドイツ統一によりドイツ帝国領になった。
一方、都市化の進んだフォアポンメルン地区は、17世紀以降スウェーデンによって支配され(1653年のシュテッティン条約でブランデンブルク=プロイセンと分割)、1679年及び1720年にプロイセンに南部を奪われているが、北部はスウェーデンのヨーロッパ大陸における拠点となった。19世紀初頭のキール条約とウィーン会議によってプロイセン王国に譲渡され、1945年、ドイツ側のメクレンブルク州と合併した。
1939年に第二次世界大戦が始まるとポーランド系住民はナチス・ドイツによってすべての財産を奪われ東方へと強制追放された。1945年のポツダム協定の結果、ポモージェの大半にあたるオーデル川以東の地域はポーランド領に併合された。ドイツ系住民はオーデル・ナイセ線以西に強制追放され、戦争中に東方へ強制追放されていたポーランド人が、ソ連領に併合された旧ポーランド領に住んでいた人々と共に戻ってきた。シュチェチン、コウォブジェク、グダニスクなどといった主要都市の市街地は戦争でほとんどすべて破壊され人が住めない状態であったが、残された史料をもとにポーランド市民が数十年をかけて中世の姿に再建した。冷戦時代は大規模なソ連軍が駐屯していた。1990年代に入り、駐留していたソ連軍はこの地から引き上げた。
代表都市
- グライフスヴァルト
- シュトラールズント
- ペーネミュンデ
- ザスニッツ
- シフィノウイシチェ (ドイツ名 スヴィーネミュンデ)
- シュチェチン(ドイツ名 シュテティーン スウェーデン王国、プロイセン王国、ドイツ帝国時代のポンメルン州の州都で、現在はポーランド共和国西ポモージェ県の県都)
- コウォブジェク(ドイツ名 コルベルク)
- グダニスク (ドイツ名 ダンツィヒ プロイセン王国、ドイツ帝国時代には西プロイセンに属しており、現在はポーランド共和国ポモージェ県の県都)
- グディニャ (1920年代にポーランドによって建設された港湾都市 グダニスク、ソポトと共に「三連都市」を形成する)
- ソポト