ヌーヴェルヴァーグ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヌーベルバーグから転送)
移動先: 案内検索

テンプレート:参照方法 テンプレート:ページ番号

ヌーヴェルヴァーグテンプレート:Lang-fr)は、1950年代末に始まったフランスにおける映画運動。ヌーベルバーグヌーヴェル・ヴァーグとも表記され、「新しい波」を意味する。

ヌーヴェルヴァーグの定義(範囲)

広義においては、撮影所(映画制作会社)における助監督等の下積み経験無しにデビューした若い監督達による、ロケ撮影中心、同時録音、即興演出などの手法的な共通性のある一連の作家・作品を指す(単純に1950年代末から1960年代中盤にかけて制作された若い作家の作品を指す、さらに広い範囲の定義もあり)。しかし、狭義には映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の主宰者であったアンドレ・バザンの薫陶を受け、同誌で映画批評家として活躍していた若い作家達(カイエ派もしくは右岸派)およびその作品のことを指す。ジャン=リュック・ゴダールフランソワ・トリュフォークロード・シャブロルジャック・リヴェットエリック・ロメールピエール・カストジャック・ドニオル=ヴァルクローズアレクサンドル・アストリュックリュック・ムレジャン・ドゥーシェ。また、モンパルナス界隈で集っていたアラン・レネジャック・ドゥミアニエス・ヴァルダクリス・マルケルジャン・ルーシュ等の主にドキュメンタリー(記録映画)を出自とする面々のことを左岸派と呼び、一般的にはこの両派を合わせてヌーヴェルヴァーグと総称することが多い。

実際には「バザンの薫陶」なるものはいささか怪しい。バザンとロメールはたった2歳しか年齢が変わらず、それぞれ「オブジェクティフ49」、「シネクラブ・デュ・カルチェ・ラタン」というシネクラブを主宰していたのであり、1951年『カイエ』創刊に向けて、ロメールは『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』を廃刊して合流したのだ。ゴダールやリヴェットは本来『ガゼット』の執筆者であり、だれもがトリュフォーのようにバザンに私淑していたわけではない。『カメラ=万年筆』でバザンを魅了したアストリュックや、「呪われた映画祭」をバザンやジャン・コクトーらとともに実現したジャック・ドニオル=ヴァルクローズとバザンの関係も、「バザンの薫陶」などというものではない。むしろ、ヌーヴェルヴァーグとは、バザンを含めたシネクラブ運動や「呪われた映画祭」の開催、ジャン・コクトーやロベール・ブレッソンとの交流、ジャン=ジョルジュ・オリオールの死による『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』の第二期廃刊から『カイエ』創刊への動きなどが、ダイナミックに生み出していったものである。

また、ヌーヴェルヴァーグの作家として、ジャック・ロジエクロード・ベリジャン=ダニエル・ポレフランソワ・レシャンバック、そしてロジェ・ヴァディムルイ・マルは忘れてはいけない。ジャン=ピエール・メルヴィルクロード・ルルーシュジャン=ピエール・モッキーセルジュ・ブールギニョンを含めることもあるが、これは場合による。

発生から終焉に至る経緯

呼称

ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)と言う呼称自体は、1957年10月3日付のフランスの週刊誌『レクスプレス』誌にフランソワーズ・ジローが「新しい波来る!」と書き、そのキャッチコピーをその表紙に掲げたことが起源とされる[1]。以降同誌は「ヌーヴェルヴァーグの雑誌」をキャッチフレーズとしたのだが、この雑誌で言う新しい波とは、当時話題になっていた戦後世代とそれまでの世代とのギャップを問題にしたものだった。この言葉を映画に対する呼称として用いたのは、映画ミニコミ『シネマ58』誌の編集長であったピエール・ビヤールで、同誌1957年2月号において、フランス映画の新しい傾向の分析のために流用した。

しかし、この言葉が用いられる以前から後にヌーヴェルヴァーグ的動向は既に始まっていた。トリュフォーは1954年1月号の『カイエ』誌に掲載した映画評論「フランス映画のある種の傾向」において、サルトル実存主義の考え方に基づいてフランソワ・モーリアックの心理小説を例に取り小説家の神のような全能性を根本的に批判したのにならい、当時のフランス映画界における主流であった詩的リアリズムの諸作品に対し同様の観点から痛烈な批判を行なった。その論法の激しさからトリュフォーは「フランス映画の墓掘り人」と恐れられたが、これはヌーヴェルヴァーグの事実上の宣言文となった。

発生

ヌーヴェルヴァーグの最初の作品は、最も狭義の概念、すなわちカイエ派(右岸派)の作家達を前提とするならジャック・リヴェットの35mm短編『王手飛車取り』(1956年)と言われている。本作はジャック・リヴェットが監督を務めたが、クロード・シャブロルが共同脚本として参画したのを始め、ジャン=マリ・ストローブが助監督、トリュフォーやゴダール、ロメールも俳優として出演したというように、まさに右岸派の面々がこぞって参加し共同し創り上げた作品だった。この作品を皮切りに、右岸派の面々は次々と短編作品を製作した。トリュフォー『あこがれ』(1957年)、『男の子の名前はみんなパトリックっていうの』(1957年)、ゴダール&トリュフォー『水の話』(1958年)など。

カイエ派(右岸派)にとって最初の35mm長編作品となったシャブロルの『美しきセルジュ』(1958年)が商業的にも大成功したことにより、シャブロルの『いとこ同志』(1959年)、トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959年)、ロメールの『獅子座』(1959年)、リヴェットの『パリはわれらのもの』(1960年)と言った今日においてヌーヴェルヴァーグの代表作と言われている作品が製作、公開された。『美しきセルジュ』がジャン・ヴィゴ賞を受賞したのを始め、『いとこ同志』がベルリン映画祭金熊賞(大賞)、トリュフォーの『大人は判ってくれない』がカンヌ映画祭監督賞を受賞するなどヌーヴェルヴァーグの名を一挙に広めたが、ヌーヴェルヴァーグの評価をより確固たるものにしたのはゴダールの『勝手にしやがれ』(1959年)だった。即興演出、同時録音、ロケ中心というヌーヴェルヴァーグの作品・作家に共通した手法が用いられると同時にジャンプカットを大々的に取り入れたこの作品は、その革新性により激しい毀誉褒貶を受け、そのことがゴダールとヌーヴェルヴァーグの名をより一層高らしめることに結びついた。1959年には『勝手にしやがれ』を始めとしたヌーヴェルヴァーグを代表する作品が次々と公開されたため、この年は「ヌーヴェルヴァーグ元年」と言われているテンプレート:要出典

一方、左岸派の活動はカイエ派(右岸派)よりも早くにスタートしていた。時期的にはアラン・レネが撮った中短編ドキュメンタリー作品である『ゲルニカ』(1950年)や『夜と霧』(1955年))が最も早く、その後レネは劇映画『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』(1959年)と『去年マリエンバートで』(1961年)を製作した。カイエ派、左岸派を含めた中で最初の長編劇映画はアニェス・ヴァルダの『ラ・ポワント・クールト』(1956年)だった。ジャック・ドゥミは『ローラ』(1960年)を公開した。これらが商業的な成功も収めたことから、1950年代末をヌーヴェルヴァーグの始まりとすることが多い。

実際のところは、動きはもっと早くから起きている。まだ「ヌーヴェルヴァーグ」などということばの生まれるずっと前、1951年『カイエ』創刊の年、ロメールがゴダールを主演に『シャルロットと彼女のステーキ』を撮影し、翌年アストリュックが本格的中編作品『恋ざんげ』を撮る。このとき、トリュフォーは兵役によって不在(1950年 - 1953年)であり、『カイエ』創刊にも立ち会っていない。そのトリュフォーが1953年にパリに帰還、『カイエ』に執筆を開始する。トリュフォーは、リヴェットがルーアン時代に撮っていた短編を観て、創作意欲をかき立てられ、リヴェットの撮影監督としてのサポートのもと『ある訪問』を1954年に撮影している。この20分のラッシュを観た(「カイエ派」ではないはずの)アラン・レネが編集をし、7分40秒の短編映画が出来上がるのだ。この年に、スイスでゴダールは『コンクリート作業』という短編を撮り、トリュフォーが『勝手にしやがれ』の最初の原案シナリオを書く。1956年、ロジェ・ヴァディムが妻のブリジット・バルドーを主演に撮ったデビュー作『素直な悪女』は賛否両論を浴びたが、もちろんトリュフォーは絶賛する。このアメリカナイズされた新しいフランス映画の興行的成功の延長線上におかれたことで、経済的な意味でヌーヴェルヴァーグの作品群は存在することが可能になった。また、1958年に撮影が始まったリヴェット『パリはわれらのもの』は、トリュフォーのレ・フィルム・デュ・キャロッス社とシャブロルのAJYMフィルム社の合作であり、前述の「カイエ派」ではないはずのジャック・ドゥミも出演している。現実のヌーヴェルヴァーグにあっては、カイエ派も左岸派も乖離した存在ではないのだ。

終焉と継承

一方その終焉に関しては諸説があり、その始まり以上に論者による見解が一致していない。最短なものでは60年代前半の上記の嵐のような動向が一段落するまでの時点であり、最長のものとなると現時点におけるまで「ヌーヴェルヴァーグの精神」は生き続けているとしている。しかし、一般的にはトリュフォーやルイ・マルなどが過激な論陣を張った1967年のカンヌ映画祭における粉砕事件までを「ヌーヴェルヴァーグの時代」と捉えるのが妥当であると言えよう。この時点までは右岸派や左岸派の面々は多かれ少なかれ個人的な繋がりを持ち続け動向としてのヌーヴェルヴァーグをかろうじて維持されていたが、この出来事をきっかけとしてゴダールとトリュフォーとの反目に代表されるように関係が疎遠になり、蜜月関係と共同作業とを一つの特徴とするヌーヴェルヴァーグは終焉を迎えることとなったと言われる。

しかし、即興演出、同時録音、ロケ中心を手法的な特徴とし、瑞々しさや生々しさを作品の特色とする「ヌーヴェルヴァーグの精神」はその後も生き続け、ジャン・ユスターシュフィリップ・ガレルジャン=クロード・ブリソージャック・ドワイヨンクロード・ミレールらは「カンヌ以降(もしくはほぼ同時期)」に登場し評価を得た作家だが、いずれも「遅れてきたヌーヴェルヴァーグ」との評価を得た。

ヌーヴェルヴァーグへの影響

精神的な父

ヌーヴェルヴァーグには、「精神的な父」と呼ばれる人物が複数存在する。端的に言って、以下の人物である。アンドレ・バザンロベルト・ロッセリーニジャン・ルノワールロジェ・レーナルトジャン=ピエール・メルヴィル。ロッセリーニの項には項目をもうけて詳述してある。

いわゆる影響

ヌーヴェルヴァーグが興った1950年代から1960年代にかけては、フランスにおいては映画に限らず多くの文化領域で新たな動向が勃興しつつあった。それはサルトルを中心とした実存主義や現象学を一つの発端とするもので、文学におけるヌーヴォー・ロマンや文芸批評におけるヌーヴェル・クリティック、さらには実存主義を批判的に継承した構造主義など多方面に渡った現象であり、ヌーヴェルヴァーグもこれらの影響を様々に受けていると言われる。事実、ヌーヴォーロマンの旗手であったアラン・ロブ=グリエマルグリット・デュラスは、原作の提供や脚本の執筆のみならず、自ら監督を務めることでヌーヴェルヴァーグに直接的に関与している。

しかし実際には、ヌーヴォー・ロマンという運動自体があったわけではなく、その呼称すら1957年5月22日『ルモンド』での論評に初めて現れたものであり、『レクスプレス』誌の引用で『シネマ58』1957年2月号に現れた「ヌーヴェルヴァーグ」という呼称の方が早い。『勝手にしやがれ』に代表されるアンチクライマックス的説話論自体は、文学の影響というよりも、むしろバザンが熱烈に擁護した『無防備都市』(1945年)や『ドイツ零年』(1948年)のロッセリーニや、『カイエ』の若者たちを魅了した『拳銃魔』(1950年)のジョセフ・H・リュイス、『夜の人々』(1949) のニコラス・レイ、『暗黒街の弾痕』のフリッツ・ラングらのアメリカの低予算Bムービーのほうにダイレクトな影響関係がある。文学ではトリュフォーは『大人は判ってくれない』にあるようにむしろバルザック、アストリュックは『女の一生』つまりはモーパッサンが原作、と非常に古風である。哲学や文学領域の新傾向とヌーヴェルヴァーグとは、一方的な影響関係にあるというよりも、異分野で同時多発的に起きたものであり、だからこそ、デュラスらは彼ら映画人と対等に共同戦線を張ったのである。

『カイエ』の思想といえば、ヒッチコック=ホークス主義に代表される「作家主義」である。この源泉は、1948年、アストリュックの論文『カメラ=万年筆、新しき前衛の誕生(Naissance d'une nouvelle avant-garde : la caméra-stylo)』(『レクラン・フランセ』(L'Écran Français)誌)であり、これにバザンも魅了され、アストリュックともに『レクラン・フランセ』を飛び出し、ジャン=ジョルジュ・オリオールやジャック・ドニオル=ヴァルクローズの『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』に加担していくわけである。ヌーヴェルヴァーグへの思想的影響というならば、実存主義よりも明快に作家主義なのだ。ちなみに、その「作家主義(La Politique des Auteurs)」ということば自体の初出は、ヌーヴェルヴァーグ前夜の1955年2月、映画作家デビュー(短編)直後の批評家トリュフォーが、「カイエ」誌上に発表した『アリババと「作家主義」』(Ali Baba et la "Politique des Auteurs")であった。

また、とりわけトリュフォーには、中平康狂った果実』のパリ上映の多大なる影響があったことが知られている。1956年7月12日に日本で公開された本作がその年、パリで上映され、それを目撃した批評家トリュフォーは、『Si jeunes et des japonais』を書いて絶賛した。当時のトリュフォーは『カイエ』のなかでも、率先してアジテーションする役割を果たしていたので、ゴダールもリヴェットも本作を観た。そして、トリュフォーはシネマテーク・フランセーズにこの作品の所蔵を熱烈に勧めたのだった。ヌーヴェルヴァーグよりも前にヌーヴェルヴァーグだったのは、日活調布撮影所だったのであり、同世代の日本の若者の表現は、ヌーヴェルヴァーグをよりヌーヴェルヴァーグらしいものへと導いた[2]。また、まったくの同世代であるブラジルの映画作家ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスが撮ったセミドキュメンタリー『リオ40度』も1956年パリで上映され、この年に、ヌーヴェルヴァーグ的なるものがパリになだれ込んだことがヌーヴェルヴァーグに火を点けた。

出典

テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目

  • FRANÇOISE GIROUD À PROPOS DE LA NOUVELLE VAGUEテンプレート:Fr iconINA、2010年1月28日閲覧。
  • La Nouvelle Vague à la Nikkatsu CinemAsie 仏語</br>:Passions juvéniles 仏語</br>:Kurutta kajitsu - IMDb 英語