ドロシー・ホジキン
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ドロシー・クローフット・ホジキン(英語:Dorothy Crowfoot Hodgkin、1910年5月12日 - 1994年7月29日)は、エジプト王国カイロ生まれ、イギリス国籍の生化学者、化学者、結晶学者。X線回折法による生体物質の分子構造の決定により1964年にノーベル化学賞を受賞したテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。旧姓はドロシー・メアリ・クローフット(Dorothy Mary Crowfoot)である。
1935年に1930年代の分子生物学に於けるX線結晶構造解析の第一人者であったジョン・デスモンド・バナールと共にペプシンの結晶で回折パターンを見出しテンプレート:Sfn、X線回折法によりペニシリン、ビタミンB12、インシュリンなどの構造を決定したことでも名高くテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn、1947年には女性初の王立協会会員に選ばれ、1965年には女性として二人目のメリット勲章をエリザベス2世から叙勲された[1]。また、1976年には王立協会よりコプリ・メダル、1982年にはロシア科学アカデミーよりロモノーソフ金メダルが授けられ、イギリスの化学者マックス・ペルーツはホジキンを「彼女は偉大な化学者で、聖人(中略)だ」と述べているテンプレート:Sfn。
夫は歴史学者のテンプレート:仮リンクで、1937年に結婚して3人の子を設けたテンプレート:Sfn。
生涯
ドロシー・メアリ・クローフットは1910年5月12日、父の赴任先であったエジプト王国のカイロに監督官の父ジョン・ウィンター・クローフット(John Winter Crowfoot、1873年 - 1959年)と考古学者であった母テンプレート:仮リンク(Grace Crowfoot、1877年 - 1957年)の元に生まれ、10歳の頃に化学の初歩を学び、結晶や化学に興味を持った。
16歳の誕生日に母からイギリスの物理学者であるヘンリー・ブラッグの『物の本性について(Concerning the Nature of Things)』(1925年)と言う本を与えられ、結晶学に興味を抱くようになるテンプレート:Sfn。18歳の頃にはパレスチナに趣き、発掘作業に参加するテンプレート:Sfnなど考古学にも関心を示したテンプレート:Sfn。
1928年にイギリスのオックスフォード大学サマーヴィル・カレッジに入学。化学を専攻する一方結晶学のコースも専攻していた。1932年にオックスフォード大学を卒業し、ケンブリッジ大学に博士課程修得のため科学史家でもあったジョン・デスモンド・バナールのもとで研究をした。なおこの頃(20代の半ば)よりホジキンは慢性関節リウマチを患うようになっていたテンプレート:Sfn。
1934年にはオックスフォード大学の講師、研究員として同大学に戻り、教鞭を執った。なお1940年代、ホジキンが受け持った生徒の中に後にイギリスの首相となるマーガレット・サッチャー[2]がいた。
1935年に1930年代の分子生物学に於けるX線結晶構造解析の第一人者であったバナールと共にペプシンの結晶で回折パターンを見出す。
1937年、歴史学者のトーマス・リオネル・ホジキンと結婚。後に3人の子を設けた。
1941年頃から1949年頃にかけて当時開発されて間もないコンピュータを用いてX線の実験データを解析してペニシリンを構造決定したテンプレート:Sfn。また1948年頃から1956年にかけてはビタミンB12を構造決定したテンプレート:Sfn。
1947年、女性初の王立協会会員に任命される。
1960年から1977年までオックスフォード大学の教授を務め、1964年には「X線回折法による生体物質の分子構造の決定」によりノーベル化学賞を受賞した。1965年にはメリット勲章を叙勲された。1976年にコプリ・メダル、1982年にはロモノーソフ金メダルが授けられた。
1994年7月29日、イギリスウォリックシャーのテンプレート:仮リンクで亡くなる。84歳没。
その他
ホジキンを扱った科学読み物
脚注
参考文献
テンプレート:ノーベル化学賞受賞者 (1951年-1975年)テンプレート:Scientist-stub
テンプレート:Chem-stub- ↑ 女性初のメリット勲章受賞者はイギリスの看護師であるフローレンス・ナイチンゲールであった。
- ↑ 当時マーガレット・サッチャーは結婚していなかったため旧姓のマーガレット・ロバーツと言う名前であった。
- ↑ ドロシー・ホジキン生誕104周年!女性化学者の功績がGOOGLEのロゴに - The New Classic、2014年5月12日閲覧。
- ↑ 両手、両足を切断した作家中村久子とは関係がない。