スラヴ人
スラヴ人[1]は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。ひとつの民族を指すのではなく、本来は言語学的な分類に過ぎない。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性は見られるものの、特に西スラヴと東スラヴの間は歴史時代以前より断絶があり、文化的共通性は希薄。
歴史
発展過程
言語の面では先史時代のトシュチニェツ文化が基層と推測されるが、政治・文化面ではその後のルサチア文化、チェルノレス文化、プシェヴォルスク文化、ザルビンツィ文化、チェルニャコヴォ文化、デンプチン文化などの発展や混交の過程を通じて地方ごとに諸部族と各地それぞれの文化が形成されたものと推定され、スラヴ語圏全体に共通する文化的な要素が希薄であるのはこれが理由と考えられる。ヘロドトスの『歴史』に登場するスキタイのうち農耕スキタイ人はウクライナ北西部のスラヴ系諸部族のことであると推定され、これはチェルノレス文化に相当する時代。当時この地方の人々は穀物の栽培や輸出を盛んに行なっていた。
スキタイの基幹民族である遊牧系の王族スキタイの遺骨から抽出された遺伝子と現代のスラヴ人の遺伝子を検査したところ、スキタイと一致するY染色体ハプログループであるR-M17 P18がスラヴ人の多くを占めていることが判明した。スラヴ人はこのほか西欧系のハプログループR1b(R-M343, P25)も多く含んでおり、これはスラヴ人がもともと西欧系の種族であった証拠でもある。このため、王族スキタイなど遊牧系のスキタイは西欧系の農耕スキタイとの婚姻により農耕スキタイ(スラヴ人)に吸収同化されて現代に至っているのであり、スラヴ人はスキタイの直系の末裔であると言える。またサルマタイの影響も強く受けている。
中世初期の民族大移動における考古文化のプラハ・ペンコフ・コロチン文化複合は、当時のスラヴ語圏諸部族のうちウクライナにおける政治集団がポリーシャからヨーロッパ全域に拡張し各地で影響を及ぼした痕跡と考えられる。それ以前は西スラヴ語群の元となった系統の諸部族と東スラヴ語群の元となった系統の諸部族は、政治的にも文化的にも断絶が続いていた時期が長いことが判明している。
9世紀に入ると、農耕に適さず人口が希薄なパンノニア盆地の広大な草原に遊牧民のマジャール人が侵入、西スラヴ語群の諸部族が北と南に分断され、それぞれ北では西スラヴ語群、南では南スラヴ語群の諸民族が中世を通じ形成されていった。
名称
テンプレート:未検証 スラヴ全体に関する様々な学問をスラヴ学という。英語で「スレイヴ」(奴隷)という誤解を含んだ不名誉なレッテルで語られることも多いが、しかしその語源となったスラヴ語本来の「スラヴ・スロボ」の意味は、『言語』、『言葉』を意味するもの[2]である。スラヴ人は奴隷という先入観も、西ヨーロッパ人の誤解や蔑称から来ているのであり、特にナチスドイツではこの説は人気で、ソ連奇襲の公式理由の一つでもあった。これは、「スラヴ」がギリシア語に入ったときに『奴隷』の意味となり(他の民族もそうであるが、スラヴ人も戦争などで捕らえられると奴隷として扱われたためであると考えられる。この時代の捕虜はどの国でも奴隷であり、戦利品のひとつに過ぎなかった)、そのギリシア文化を受け継いだローマ帝国のラテン語から西ヨーロッパ諸言語に広まったと考えられる。
政治・文化
スラヴ語の共通性を基盤とするスラヴ全体の共通性を強調する態度は汎スラヴ主義と呼ばれ、国民楽派、第一次世界大戦と民族国家、旧東欧の概念などの重要なアイデンティティともなったが、文化・宗教面ではスラヴ各民族ごとに異なるアイデンティティを持っており、ロシア・ポーランド関係、旧ユーゴスラビアなどのように血を流し合って対立する矛盾した面を持っている。
特にポーランドはポーランド語を共通語として話すが、ポーランド・リトアニア共和国に至るまで続いた「コモンウェルス」の歴史的背景から非スラヴ語圏の出自やその混交の家系の人々が多く、伝統的にスラヴを民族と捉える意識が希薄で、「スラヴ」とは単に言語的な括りにすぎないと認識している。19世紀に盛んだった汎スラヴ運動において、ポーランドの人々が関わることは一切なかった。
分布
スラヴ人の多くはコーカソイド人種の特徴を持っている。原住地はカルパチア山脈周辺と推定され[3][4]、スキタイ人やサルマタイ人を吸収同化して同一の言語集団として成立して行った。その後ヨーロッパ各地へと移住する過程で、6、7世紀頃まで言語としてある程度の一体性を持っていた[5][4]ものが、次第に東スラヴ人、西スラヴ人そして南スラヴ人といった緩やかなまとまりから、さらに各地のスラヴ民族を多数派とする集団へと分化していった歴史を持つ。
移住先では元々の在来の住民と混交する形で言語的にも文化的にも、次第に現地住民を同化しつつ、在来の住民と相互に影響を与え合う形で発展していった。特にトルコの支配を受けた南スラヴ人については、スラヴ人の移住以前からのバルカン半島の土着的な要素に加えて、オリエンタル地域に由来する文化も持ち合わせている。「ブルガリア」の名前は中世のテュルク系遊牧民であったブルガール人に由来しており、ブルガール人は彼らが支配するドナウ・ブルガール・ハン国で多数派であったスラヴ人と同化してブルガリア人となった。
一方、西ヨーロッパにおいても少数ながらスラヴ民族が現在も住居している。特にドイツ東部においては、古来よりポーランドとの国境付近にはドイツ人とポーランド人との混血集団であるシレジア人を始め、エルベ川東部にもスラヴ系集団が住居し、現代に至るまでドイツ人との間で複雑な相克の歴史を持つ。現在もドイツ東部にはソルブ人が住居している。また中世以来の古い家系でありながらスラブ系やスラブ系由来の姓を持っているドイツ人は多数いる。近代以降はカナダに大量のスラヴ人が移住している。彼らは英語化し、もとの母語であるスラヴ語を失っているものの、カナダ最大の民族はアングロサクソンではなくウクライナ人やポーランド人を基幹とするスラヴ人であるとされる。また、シカゴを含むアメリカのイリノイ州の住民は圧倒的にスラヴ系が多い。
なお、スラヴ人の中で最大の民族集団であるロシアの語源については、いくつか説はあるが、現代のウクライナの首都、キエフを中心としたキエフ・ルーシ(キーフルーシ大公国)の国号からとられたとも言われている。この「ルーシ」をギリシャ語読みすると「ロシア」となる。本来、地理的にキーフルーシがルーシ(ロシア)の名を引き継ぐべきところであるが、歴史的にモンゴル支配以降、急速に台頭してきた新興国家モスクワ公国(キーフルーシの一構成国でのちにロシア帝国となる)に「ロシア」の主導権を握られ、先を越された感がある。なお、キーフルーシはその後ロシア帝国の一構成集団として取り込まれていった後、ウクライナとして現代ロシアとは別の国家として存続している。
そのため、ウクライナ人の中には、これらの歴史的経緯からウクライナ人とロシア人は同じスラヴ民族であり、近隣同士の間柄としてともに歩んできたものの、ロシア人とウクライナ人とは一線を画している、とする論調が存在し、それが両民族の間にさまざまな軋轢をもたらしていることも、また事実である。なお、ウクライナ人自身も長い歴史の中でゴート人、ノルマン人、スキタイ人そして東スラヴ人との混血によって形成された民族集団である。
ロシアについては、歴史的に民族の行き交う十字路に位置しており、古来にはスキタイ人やサルマティア人、フン人そしてハザール人を始めとする遊牧民族、中世にはモンゴル人やタタール人等による支配を経験している。その後、ロシアが領土を中央アジアからシベリア、極東方面へ大きく拡大し周辺の諸民族を征服する過程で、これらの民族と言語的、文化的に混交、同化していった経緯から、ロシア人はコーカソイドを基調としながらも、東へ向かうにつれてモンゴロイド人種の特徴を含む人々も見られ、人種的に相当なばらつきがあるといわれている。
国旗
スラヴ人が多数派を占める国々の国旗には、赤、青、そして白色からなる配色による構成が見られる。この配色は汎スラヴ色と呼ばれ、自由と革命の理想を象徴したものである。
汎スラヴ色を国旗の意匠とする国々は、ロシア、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチア、セルビアなどであり、南スラヴ族のモンテネグロ人を主要民族とするモンテネグロも2004年7月まで、汎スラヴ色を基調とする国旗を使用していた。また、同じ南スラヴ族のブルガリア国旗についても、青色の配色が農業を表す緑色に置き換えられているが、汎スラヴ色に分類される。
ポーランドは他国とは異なり、かつてポーランド・リトアニア共和国として大国だった時代にコモンウェルスの軍旗として使用されていた紅白旗を一貫して用いている。正式には国章の白鷲が付く。
主なスラヴ民族
関連項目
脚注
- ↑ テンプレート:Lang-uk、テンプレート:Lang-csb、テンプレート:Lang-cu、 テンプレート:Lang-sk、テンプレート:Lang-sl、テンプレート:Lang-hsb、テンプレート:Lang-dsb、テンプレート:Lang-cs、テンプレート:Lang-bg、 テンプレート:Lang-be、テンプレート:Lang2、テンプレート:Lang-pl、テンプレート:Lang2、テンプレート:Lang-ru。
- ↑ スラヴ語: テンプレート:ルビ
- ↑ 中世以前のスラブ人は文字を持っていなかったので、初めはどこで居住していたのか、いつ民族として独立したのかなどのことが分かっていない。しかし、初めはカルパティア山脈の北部、プリピャチ川の南に居住していたが、4世紀頃には西はオドラ川流域、東はドニエプル川中流域、北はバルト海沿岸、マズーリ湖沼帯プリピャチ川に至る広い領域に広まっていた。 - 伊藤一郎『歴史の起源』22-23、35ページ
- ↑ 4.0 4.1 伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『新版世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社 1998年
- ↑ 伊藤一郎『歴史の起源』22ページ
参考文献
- テンプレート:Uk icon Етимологічний словник української мови: В 7 т. (ウクライナ語語源辞典。7巻) / АН УРСР. Ін-т мовознавства ім. О. О. Потебні; Редкол. О. С. Мельничук (головний ред.) та ін. — К.: Наук. думка, 1982—2006.
- テンプレート:Ru icon Свод древнейших письменных известий о славянах: в 2-х Т. (I-VI вв.). М., 1994—1995.
外部リンク