カール6世 (神聖ローマ皇帝)
テンプレート:基礎情報 君主 カール6世(Karl VI., 1685年10月1日 - 1740年10月20日)は、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位:1711年 - 1740年)、ハンガリー王、ボヘミア王。レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーネの次男でヨーゼフ1世の弟。マリア・テレジアの父。ハプスブルク家最後の男系男子である。
生涯
1700年、従兄のスペイン王カルロス2世が病死した。カルロス2世には男児がなかったため、スペイン・ハプスブルク家は断絶した。そのため、カールの父レオポルト1世は、カルロス2世の後継者としてカールを送ろうとした。しかしカルロス2世は生前、後継者としてフランス王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップ(フェリペ5世として即位)を推薦していたため、ここにスペイン継承戦争が起こった。これはイングランドやオランダ共和国などが、フランスがスペインを併合することで欧州の勢力均衡が崩れることを恐れたためである[1]。
カールは1703年に同盟国ポルトガルへ渡り、1705年にイングランドの将軍ピーターバラ伯がバルセロナを占領すると(第1次バルセロナ包囲戦)、バルセロナに入ってマドリードのフェリペ5世と対峙した。1706年にスペイン軍に包囲されたバルセロナを守り抜き(第2次バルセロナ包囲戦)、ポルトガルから進軍してマドリードを落としたイングランドの将軍ゴールウェイ伯・ピーターバラと合流した。しかし、フェリペ5世にマドリードを奪い返され、翌1707年にピーターバラがイングランドへ召還、ゴールウェイがフランスの将軍ベリック公にアルマンサの戦いで大敗するとスペインのほとんどを制圧され、劣勢になった。
1708年、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル家のエリーザベト・クリスティーネ(兄ヨーゼフ1世の皇后アマーリア・ヴィルヘルミーネと同族)とバルセロナで婚礼を挙げ、1710年にイギリスの将軍ジェームズ・スタンホープとオーストリアの将軍グイード・フォン・シュターレンベルクが反撃してマドリードを再占領したが、フェリペ5世に再び奪回された上、フランスから援軍を率いたヴァンドーム公が同盟軍を急襲、スタンホープはブリウエガの戦いで捕らえられシュターレンベルクもビリャビシオーサの戦いで敗北、フェリペ5世の優位は決定的になった[2]。
1711年、兄が死去すると情況が大きく変わった。兄には息子がなく、皇帝選出のためドイツへ戻ったカールがカール6世として帝位を継ぐことになったのである。こうなると、もしカール6世がスペイン王位も継承すれば、かつてのカール5世(スペイン王カルロス1世)のような欧州の広大な領土に君臨する強大な君主の出現となり、やはり勢力均衡が崩れてしまうことになる。そこで1713年、イギリスなどはフランスとスペインが併合されないことを条件として、フェリペ5世の即位を認めることにしてユトレヒト条約を結んだ。こうしてスペイン王位を断念せざるを得なくなり、1714年にオーストリアもフランス・スペインとラシュタット条約を締結した。残されたバルセロナは1714年にフェリペ5世に落とされている(第3次バルセロナ包囲戦)[3]。
その後は対外戦争に力を注ぎ、父の代から続いていたハンガリーのラーコーツィ・フェレンツ2世の反乱を終息させ、南ネーデルラントからミラノ公国などに勢力を拡大する。またサヴォイア公国との間でシチリアとサルデーニャの交換が成立し、その際サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世にサルデーニャ王の称号を認めた。更に1716年、オスマン帝国との間に墺土戦争が起こるとバルカン半島にプリンツ・オイゲンを派遣してオスマン帝国スルタン・アフメト3世と戦い勝利、1718年のパッサロヴィッツ条約でオスマン帝国からベオグラードを奪い、ハプスブルク帝国の最大版図を築き上げた。
しかし、スペイン領イタリアを巡ってスペインとの対立は続き、四カ国同盟戦争ではスペインに勝利したが、大北方戦争ではロシアのツァーリ・ピョートル1世のバルト海進出を抑えるためイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世及びポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世と同盟を結んだものの、その後消極的な姿勢を取ったためイギリスが離反して1721年にフランス・スペインと同盟を結びオーストリアは孤立したが、1725年にスペインとウィーン条約を締結してそれまでの対立を解消、1726年にオイゲンの尽力でロシア・プロイセンと同盟を締結して孤立から脱した。1727年からスペインとイギリスの小規模な戦争が行われ1729年にセビリヤ条約で終結するとスペインとの関係は終わったが、イギリスと新たに1731年にウィーン条約を締結して同盟を結び直した[4]。
ハプスブルク家ではそれまで所領の分割相続が行なわれ、家領の統治の一体性が損なわれてきた。そのためカール6世は1713年、国事詔書を出して領土の分割禁止と長子相続を決定した。この政策で全領土の支配層及び諸国の承認を求め、ハンガリーは貴族の特権を承認、ドイツ諸侯は1732年に承認、イギリスは東インド会社の解散と引き換えに1731年に、フランスは1733年から1735年のポーランド継承戦争でロレーヌ公国を手放すことで承認を取り付けた。
しかし妃との間にはなかなか子に恵まれず、ありとあらゆる治療を試み、ついに1716年にカール6世の唯一の男児レオポルトが誕生するが1歳に満たずに夭折した。その後は女児しか誕生せず、長女のマリア・テレジアを後継者にするしかなくなった。このため1724年、再び国事詔書を出してマリア・テレジアを家領の相続者に定めた[5]。
内政においては重商政策を採用して財政を潤わした。また、自身が文化人でもあったことから音楽・建築・美術を保護したが、晩年にも対外戦争は続けられ東インド会社の解散などで財政は悪化した。ポーランド継承戦争でロレーヌの放棄と引き換えにロンバルディアを得たが、スペインにシチリアを奪われた(代わりにパルマ公国を獲得)。1737年にオスマン帝国の再度の戦争に敗れてベオグラードを奪還され領土は縮小した。
ウィーンへ留学に来ていたロレーヌ公子フランツ・シュテファン(後の皇帝フランツ1世)を息子代わりと思ったのか大変気に入り、勉学のために来た彼を趣味の狩猟に頻繁に誘う。マリア・テレジアもフランツを心から愛するようになり、1736年に2人は華燭の典を挙げた。政治的にも影響力のあったオイゲンは結婚相手にプロイセンのフリードリヒ王子(後のフリードリヒ2世、大王。彼が婚約の条件としてカトリックに改宗する見込みがないため婚約は破棄された)を推挙していた。また1737年には、イタリアでトスカーナ大公国のメディチ家が断絶すると大公位はフランツが継承した。フランスとの交渉で、フランツとマリア・テレジアの結婚を認めるに当たって、フランツがロレーヌを放棄する見返りに与えられたのである。
1740年、狩猟の最中に突如腹痛を訴え、闘病の末56歳で崩御した。死因は胃癌と推定されている。国事詔書に基づいてマリア・テレジアがハプスブルク家の家督を継いだが、これを巡ってオーストリア継承戦争が勃発することとなる。
子女
皇后エリーザベト・クリスティーネ(愛称リースル、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ルートヴィヒ・ルードルフの娘)との間には4子がいるが、成人したのは2人だけである。
- レオポルト・ヨーハン(1716年)
- マリア・テレジア(1717年 - 1780年) - ハンガリー女王、ボヘミア女王、オーストリア大公、神聖ローマ皇后。通称「女帝」
- マリア・アンナ(1718年 - 1744年) - ロートリンゲン公子カール・アレクサンダー(フランツ1世の弟)妃
- マリア・アマーリア(1724年 - 1730年)
人物
- 男児にこそ恵まれなかったが、皇后エリーザベト・クリスティーネを「白き肌のリースル」と呼びこよなく愛した。
- 家臣の忠告を無視し、娘に政治家としての教育を施さず、大した軍事力を残さなかったために、各国から侵攻を受けた際、マリア・テレジアは非常に苦労した。
- 死の直前まで男児誕生(ただし娘マリア・テレジアの子=孫)を夢見ていた。なお、カール6世の死亡時にマリア・テレジアは第4子を懐妊中で、この子こそ待望の男児(後の皇帝ヨーゼフ)であったが、その誕生は1741年3月であった。
- プロイセン王国のフリードリヒ2世が王太子時代に確執関係にあった父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世から廃嫡の憂目にあったのを見かねて、自ら調停に乗り出して父子関係を修復させたことがある[6]。
脚注
参考文献
- 成瀬治・山田欣吾・木村靖二編『世界歴史大系 ドイツ史2』山川出版社、1997年。
- 南塚信吾編『新版 世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年。
- 菊池良生編『傭兵の二千年史』講談社現代新書、2002年。
- 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史』彩流社、2007年。
- デレック・マッケイ著、瀬原義生訳『プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォアテンプレート:Smaller』文理閣、2010年。
関連項目
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