エセックス (空母)

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ファイル:USS Essex (CV-9) - May 1943.jpg
艦歴
発注 1940年7月3日
起工 1941年4月28日
進水 1942年7月31日
就役 1942年12月31日/1951年1月15日
退役 1947年1月9日/1969年6月30日
除籍 1973年6月1日
その後 スクラップとして売却
性能諸元
排水量 竣工時
基準27,100トン
満載36,380トン
SCB-27A修正後
基準28,200トン
満載40,600トン
SCB-125修正後
基準30,800トン
満載41,200トン
全長 水線長820 ft、全長872 ft
全幅 水線長93 ft、全幅147 ft 6 in
吃水 満載:34 ft 2 in
機関 ウェスティングハウス製蒸気タービン4機, 4軸推進, 150,000 shp
最大速 33ノット
航続距離 20,000海里(15ノット時)
兵員 士官、兵員 2,600名
兵装 連装38口径5インチ砲4基、単装38口径5インチ砲4基
56口径40mm4連装機関砲8基
単装78口径20mm機関砲46基
搭載機 90 - 100機
エレベーター 中央2基、舷側1基
カタパルト

エセックス(USS Essex, CV/CVA/CVS-9)は、アメリカ海軍エセックス級航空母艦のネームシップ。艦名はマサチューセッツ州エセックス郡に因む。その名を持つ艦としては4隻目。

艦歴

エセックスは1942年7月31日にバージニア州ニューポート・ニューズニューポート・ニューズ造船 & 乾ドック社でアーテムス・L・ゲート夫人(海軍航空次官の妻)によって命名、進水し、1942年12月31日にテンプレート:仮リンク艦長の指揮下就役した。訓練航海の後、太平洋に回航された。

第二次世界大戦

1943年

1943年春のエセックスの真珠湾到着は、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将をして、新しい中部太平洋部隊の編成の第一弾として位置づけられた[1]。8月に入り第5艦隊が編成され、艦隊司令長官にレイモンド・スプルーアンス中将が、指揮下の高速空母任務部隊の司令官にチャールズ・A・パウナル少将がそれぞれ就任した[2]。エセックスは、続いて竣工したヨークタウン (USS Yorktown, CV-10) およびインディペンデンス (USS Independence, CVL-22) とともに第15任務部隊(パウナル少将)を構成し、南鳥島攻撃のための二週間に及ぶ訓練演習を共に行った。第15任務部隊による南鳥島攻撃は1943年9月1日に行われ、島の施設の70パーセント以上が破壊された。この攻撃は、新採用の機動部隊戦術の実際の運用と試験、訓練を兼ねていた[2]。南鳥島攻撃から帰投すると、エセックスはヨークタウンとともに第14任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)に配置換えとなり、10月6日から7日にかけてのウェーク島攻撃に参加した。

その頃、ソロモン諸島の戦いブーゲンビル島の戦いを目前にしており、ニミッツ大将は上陸作戦を支援する空母部隊として、南太平洋軍(ウィリアム・ハルゼー大将)指揮下の第38任務部隊(フレデリック・C・シャーマン少将)のみをあてる予定だった。一方で、中部太平洋方面でもギルバート諸島攻略のガルヴァニック作戦の開始が目前に迫っていた。エセックス、ヨークタウンに続く新鋭空母の増勢が続けられていたとはいえ、この時点でソロモン方面に振り向けることが可能だった空母は、第5艦隊から借りていたベテランのサラトガ (USS Saratoga, CV-3) と新鋭のプリンストン (USS Princeton, CVL-23) だけであった[3]。アメリカ軍は11月1日のブーゲンビル島上陸を成功させ、翌2日に生起したブーゲンビル島沖海戦大森仙太郎少将率いる日本艦隊を追い払うことに成功したが、11月4日になって栗田健男中将率いる強力な日本艦隊の来航を発見し、ハルゼー大将はこれに対抗するため第38任務部隊をラバウル近海に派遣して11月5日に第1回のラバウル空襲を実施。栗田中将の艦隊は大損害を受けトラック諸島に逃げ帰った。これに飽き足らぬハルゼー大将は、ダメ押しのラバウル空襲を行うことを決め、ニミッツ大将に新手の空母任務部隊の派遣を要請したのである[4]。ニミッツ大将はギルバート諸島方面の戦況をにらみつつ、新手の空母任務部隊を派遣することとし、エセックス、バンカー・ヒル (USS Bunker Hill, CV-17) 、インディペンデンスを基幹とする第50.3任務部隊(モントゴメリー少将)を派遣することに決した[4]

護衛艦艇の手配の関係で第2回のラバウル空襲は11月11日に行われ[4]、第38任務部隊はブーゲンビル島北方から、第50.3任務部隊は同島南方から挟み撃ちの格好で艦載機を発進させた[4]。第2回のラバウル空襲は第二水雷戦隊に打撃を与えて成功した。しかし、第50.3任務部隊は第三次ブーゲンビル島沖航空戦に遭遇し、反復攻撃を中止して[5]ソロモン海域から引き揚げ、エスピリトゥサント島を経由して第5艦隊に復帰し、ギルバートの戦場に向かっていった。11月18日からはタラワ攻撃に参加し、洋上での補給の後、12月5日にはクェゼリン環礁を爆撃して所在の施設や艦船に打撃を与えた。

1944 - 1945年

パウナル少将は南鳥島攻撃を皮切りに空母作戦を滞りなく進めていったが、部下から「慎重すぎる」などと指揮ぶりを批判され、1944年になって早々に更迭された[6]。後任の司令官にはマーク・ミッチャー少将が就任し、部隊の名称も「第58任務部隊」となった[7]。エセックスはイントレピッド (USS Intrepid, CV-11) 、カボット (USS Cabot, CVL-28) と第58.2任務群(モントゴメリー少将)に属し、1月29日から2月2日までクェゼリンの戦いの支援に参加した。作戦が予想外に進捗したのを受け、エニウェトクの戦いが繰り上げて実施されることとなり、その支援のためトラック島空襲が実施された。エセックスのいた第58.2任務群は、第58.1任務群(ジョン・W・リーヴス少将)[7]および第58.3任務群(F・C・シャーマン少将)[7]とともに2月17日と18日に空襲を行い、壊滅的な損害を与えることに成功した。三個任務群は一旦引き揚げた後、2月23日にサイパン島テニアン島およびグアムを攻撃して日本側の補給路に更なる打撃を与えた。一連の作戦を終えると、エセックスはオーバーホールのためサンフランシスコに回航された。

オーバーホールを終えたエセックスは、アメリカ海軍航空隊のエース・パイロットであるテンプレート:仮リンク少佐が率いる第15飛行群を乗せ、ワスプ (USS Wasp, CV-18) 、サン・ジャシント (USS San Jacinto, CVL-30) とともに第58.4任務群を構成し[8]、5月19日から20日にかけては南鳥島を、5月24日にはウェーク島をそれぞれ攻撃。続くマリアナ・パラオ諸島の戦いでは、6月12日から8月10日までのマリアナ諸島制圧、6月19日から20日のマリアナ沖海戦、および9月6日から8日までのパラオ制圧を中心に、一貫して航空支援に努めた。この間、エセックスがいた大艦隊の司令長官は第5艦隊のスプルーアンス大将から第3艦隊のハルゼー大将に代わり、第58任務部隊は第38任務部隊と改められた。直後の9月9日から10日にかけては、第38.3任務群(F・C・シャーマン少将)[9]の一艦としてミンダナオ島攻撃を行い、ペリリューの戦いを支援した。エセックスは占領したばかりのウルシー環礁に帰投。10月2日に台風が襲来したものの乗り切って[10]、10月6日に南西諸島および台湾攻撃のため出撃した。

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エセックスに突入する彗星(1944年11月25日)
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エセックスに特攻機命中(1944年11月25日)

エセックスの艦載機は10月10日に沖縄島を(十・十空襲)、10月12日から14日にかけては台湾各地を空襲してアメリカ軍のレイテ島上陸を支援した。10月24日から25日のレイテ沖海戦に参加し、10月30日まで日本艦隊の捜索を行った後、ウルシーに一旦帰投して補給を行った。11月に入ってからはマニラ空襲などフィリピン北部の要所を空襲し、日本軍に圧力をかけ続けた。11月25日から26日にかけてもエセックスの第38.3任務群はフィリピン各地への空襲を計画していた。しかし、その11月25日、エセックスは初めて敵の攻撃により損害を受けることとなる。この日、日本軍は零戦彗星銀河を基幹とする5隊の神風特別攻撃隊をマニラ近郊の航空基地から発進させ、すでに第38.2任務群(テンプレート:仮リンク少将)[11]のイントレピッド、カボットに突入して損害を与え、ハンコック (USS Hancock, CV-19) に軽微な損害を与えていた[12]。エセックスは特攻機2機の攻撃を受け、そのうちの1機を撃墜したものの、もう1機が飛行甲板に命中。15名が戦死して44名が負傷したが、幸いにも深刻な損害とはならず、被災したイントレピッドの艦載機を一時的に収容して避難させた[13]。一連の神風攻撃は、ハルゼー大将に11月26日の攻撃を中止させる決断を引き出すに至り、第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の大半はフィリピン海域から一時撤退することとなった[14]

ウルシーでの修理の後、エセックスは再び前線に出動。12月14日から16日にかけてはミンドロ島の戦いを支援。コブラ台風に遭遇の後、生存者の捜索にあたった。1945年に入り、エセックスは台湾、先島諸島、沖縄およびルソン島に対する一連の攻撃に参加し、リンガエン湾上陸に端を発するルソン島の戦いの手助けをした。続いて第38任務部隊は南シナ海に侵入し、サイゴン海南島香港、中国沿岸部を片っ端から攻撃し、軽巡洋艦香椎率いるヒ86船団などを全滅させるなど猛威を振るった。1月20日から21日にかけて台風に遭遇した後、1月26日から27日にかけての台湾、沖縄、宮古島への再度の攻撃を行い、ウルシーに帰投した。この後、ハルゼー大将はスプルーアンス大将と交代して艦隊の名称は第5艦隊となり、第38任務部隊は第58任務部隊となってミッチャー中将が指揮を執る事となった。

エセックスは、硫黄島の戦いの援護として、1942年4月18日のドーリットル空襲以来初めてとなる、アメリカ海軍による日本本土空襲[15]に参加するため出撃した。2月16日から17日および25日の3度にわたり、艦載機は東京を初めとする関東地方各地の軍事施設や工場を攻撃。日本軍の抵抗は驚くほど微弱で、艦載機は大した損害もなく空母に収容されていった[16]。続いて、エセックスは沖縄戦に参加。3月28日から5月23日までの間、断続的に航空支援を提供し続けた。この間に再び第5艦隊は第3艦隊となって、ハルゼー大将とマケイン中将が部隊の指揮を執った。レイテ湾での整備の後、エセックスはボーガン少将の第38.3任務群の一艦として、日本の本州各地に対する最終攻撃に参加した[17]。エセックスの艦載機は、7月10日の厚木海軍飛行場攻撃[18]を皮切りに、東北地方[19]青函連絡船[20]などに対する攻撃を遂行した。8月15日の日本の降伏の後、エセックスは9月3日まで戦闘哨戒を継続。その後、本国に帰投し、1947年1月からはブレマートンにおいて予備役艦隊に編入された。

朝鮮戦争・大改修工事

エセックスの近代化改装工事は、予備役艦隊在籍時の1951年1月16日から行われ、新しい操縦室や洗練された艦橋構造物が設置された。工事終了後、エセックスはA・W・ウィーロック大佐が艦長に就任して再就役した。ハワイ近海での簡潔な訓練の後、エセックスは朝鮮戦争に第1空母戦隊と第77任務部隊の旗艦を兼ねて極東水域に向かった。朝鮮戦争におけるエセックスの行動期間は、1951年8月から1952年3月までと同年7月から1953年1月までの2度にわたった。エセックスは、F2H バンシーを実戦で初めて発艦させた空母となった。1951年9月16日、被弾し帰ってきた1機のF2H が爆発と炎で7名を戦死させた後、飛行甲板前部に待機中の他の航空機に衝突した。エセックスは朝鮮水域から引き揚げて横須賀で修理を行い、10月3日には前線に戻って鴨緑江近辺への国連軍攻撃の支援を行った。後年、アポロ11号の船長となるニール・アームストロングはこの頃、エセックスにパイロットとして配属されていた。

1953年12月1日からは東シナ海において休戦監視哨戒を行い、1954年11月から1955年6月にかけては訓練に従事。その間の3ヵ月、エセックスは第7艦隊と行動をともにし、1955年2月の大陳島撤退作戦への支援および、沖縄沖での艦隊行動に従事した。1955年7月、極東水域での行動を終えたエセックスは本国に帰投し、ピュージェット・サウンド海軍造船所に入渠して修理と大改修工事が行われた。SCB-125 近代化計画として行われたこの大改修は、ジェット機運用のためのアングルド・デッキ設置と後部エレベーターの再配置を主として行われた。工事終了後の1956年3月、エセックスは太平洋艦隊に編入され、14ヵ月もの間を西海岸水域で行動した後、第7艦隊で行動した6ヵ月間を除いたほとんどの期間を大西洋艦隊で行動することとなった。エセックスは1957年8月21日にサンディエゴを出港し、ホーン岬を巡って8月1日にメイポート海軍補給基地に到着した。

大西洋・地中海

ファイル:USS Essex (CV-9) - January 1960.jpg
大改修後のエセックス(1960年)

1957年秋、エセックスはNATOによる演習テンプレート:仮リンクに対潜空母として参加。1958年2月からは第6艦隊に加わって地中海東部に向かった。7月14日には、中東危機に呼応してベイルートに進出するアメリカの平和維持軍の上陸を手助けし、8月20日まで哨戒活動を続けた。次いで、エセックスは再び極東水域に進出するよう命を受け、スエズ運河を通過して台湾近海に向かって任務を終えた後、メイポートに帰投し所定の航空業務を終えた。エセックスは地中海東部に戻り、1959年秋には第2艦隊およびイギリス艦隊と合流して行動。同年12月には、フランスフレジュスで発生した洪水の被災者の救援活動に従事した。

1960年春、エセックスは対潜支援空母(ASW)に艦種変更され、ロードアイランド州テンプレート:仮リンクを母港とし、第18空母戦隊と第3対潜空母群の旗艦を兼ねることとなった。ニュージャージー州沖での救助活動の後、エセックスは海軍少尉候補生を乗せ、インド洋に向かった。その途中、NATOとCENTOの訓練に参加し、スエズ運河を通過してカラチアデンイギリス連邦内の二港に寄港した。11月には、フランス海軍との合同演習「ジェットストリーム作戦」に参加した。

ピッグス湾事件とキューバ危機

テンプレート:Seealso テンプレート:Seealso 1961年4月、エセックスはジャクソンビルの海軍航空隊の隊員技量維持のための訓練に参加するため、2週間の通常訓練航海の名目でフロリダ沖を航行した。この時、エセックスには12機のA-4 スカイホークを搭載し、パイロットはテンプレート:仮リンクから派遣されていた。A-4 は20ミリ機銃で武装されており、数日後には識別標識は機体と同じグレーの塗装で塗りつぶされた。やがて、A-4 の一隊は事実上の戦闘哨戒飛行のため昼夜分かたず飛行するようになった。一連の行為は4月15日から19日にかけて起こったピッグス湾事件で出動した爆撃機護衛のための任務であったが、エセックスの一般の乗組員には真相は知らされなかった。エセックスの航空活動は、ジョン・F・ケネディ大統領とエセックスの高級幹部の間で交わされた極秘指令により中止された。

1961年後半のエセックスは「人々から人々へ」と題された北部ヨーロッパへの航海を行い、ロッテルダムハンブルクおよびグリーノックを訪問した。ハンブルク寄港時には、100万人もの人々がエセックスを見学した。ハンブルク出港の際、エセックスはエルベ川の浅瀬に座礁しかけたが、この時は事なきを得た。しかし、1962年1月に北大西洋において暴風雨に遭遇し、艦全体にわたって大きな損害を受けた。エセックスはこの損傷の修理とオーバーホールのため、1962年上半期の大半をブルックリン海軍工廠乾ドックで過ごした。

エセックスが6ヵ月にわたるオーバーホールを終え、グアンタナモ湾周辺で試験航海を行っていた1962年10月、ケネディ大統領は、キューバソ連準中距離弾道ミサイルが配備されていたことが判明したため、キューバ周辺の公海上の海上封鎖を行う旨宣言を行った。エセックスもカリブ海での1ヵ月に及ぶ海上封鎖に参加し、感謝祭直前に母港に帰投した。

アポロ計画

エセックスは1967年に行われたアポロ1号において、宇宙飛行士を収容して回復される母艦として使われる予定だった。計画では、14日間の周回の後にプエルトリコ北方海上に1967年3月7日に着水が予定されていた宇宙飛行士を収容する予定だった。しかし、打ち上げ予定の宇宙船AS-204 は1月27日に訓練中の事故で炎上し、宇宙飛行士3名が死亡したので任務は行われなかった。この後、エセックスは1968年10月に行われたアポロ7号で再び母艦として起用され、10月22日にプエルトリコ北方海上でアポロ7号のクルーを無事収容した。その間の1968年5月25日には、ノルウェー海を航行中に、旧ソ連海軍ツポレフ Tu-16による威力偵察を受ける、Tu-16はエセックスに対して異常接近やエセックス飛行甲板と同じ高さほどを低空飛行を行っていたが、Tu-16はエセックスの近くに墜落した。

エセックスは1969年6月30日に退役した。1973年6月1日に除籍され、1975年6月1日に防衛再利用マーケティングサービス (Defense Reutilization and Marketing Service, DRMS) によってスクラップとして売却された。

エセックスは第二次世界大戦の戦功で殊勲部隊章および13の従軍星章を、朝鮮戦争の戦功で海軍部隊栄誉章と4つの従軍星章を受章した。

脚注

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参考文献

  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0、ISBN 4-7887-8218-9
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • C・レイモンド・カルフォーン/妹尾作太男・大西道永(訳)『神風、米艦隊撃滅』朝日ソノラマ、1985年、ISBN 4-257-17055-7
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 石井勉(編著)『アメリカ海軍機動部隊 英和対訳対日戦闘報告/1945』成山堂書店、1988年、ISBN 4-425-30121-8
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
  • 谷光太郎『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年、ISBN 978-4054009820
  • トーマス・B・ブュエル/小城正(訳)『提督スプルーアンス』学習研究社、2000年、ISBN 4-05-401144-6

関連項目

主な登場作品

外部リンク

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  1. ニミッツ、ポッター, 208ページ
  2. 2.0 2.1 谷光, 471ページ
  3. ニミッツ、ポッター, 177ページ、『戦史叢書96』375ページ
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 『戦史叢書96』413ページ
  5. 『戦史叢書96』417ページ
  6. 谷光, 471、472、473、474ページ
  7. 7.0 7.1 7.2 『戦史叢書96』589ページ
  8. ニミッツ、ポッター, 265ページ
  9. ポッター, 463ページ
  10. ポッター, 463ページ
  11. ポッター, 463、505ページ
  12. ウォーナー『ドキュメント神風 上』233ページ
  13. ポッター, 505ページ
  14. ポッター, 506ページ
  15. ブュエル, 498ページ
  16. ブュエル, 506ページ
  17. 石井, 148、149ページ
  18. 石井, 71ページ
  19. 石井, 74,93ページ
  20. 石井, 76ページ