アレクサンドル・ルカシェンコ
アレクサンドル・ルカシェンコ テンプレート:Lang-be テンプレート:Lang-ru | |||
ファイル:Alexander Lukashenko 2007 cropped.jpg |
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任期 | 1994年7月20日 – | ||
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初代最高国家評議会議長 | |||
任期 | 2000年1月26日 – | ||
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出生 | テンプレート:生年月日と年齢 テンプレート:SSR1923、白ロシア共和国 コピィシ | ||
政党 | 無所属 | 配偶者 | ガリーナ・ルカシェンコ |
アレクサンドル・グリゴリエヴィッチ・ルカシェンコ(テンプレート:Lang-be テンプレート:Small、テンプレート:Lang-ru、Aleksandr Grigor'evich Lukashenko、1954年8月30日 - )は、ベラルーシの政治家で大統領(1994年 - )。また、ベラルーシ・ロシア連合国家の初代最高国家評議会議長(2000年 - )でもある。
1994年にロシア連邦との関係強化を掲げ初当選し、1996年には任期を延長、2001年に再選、2004年には憲法の3選禁止条項を撤廃し2006年に3選、2010年に4選を果たした。なお、1999年12月8日にロシア連邦とベラルーシとの間で調印されたベラルーシ・ロシア連合国家創設条約の発効に伴い、翌2000年1月に「連合国家」の初代「最高国家評議会議長(国家元首)」に就任した。名の日本語表記は、「ルカシェンコ」が一般的だが、専門家がベラルーシ語からの表記である「ルカシェンカ」と書く場合もある[1]。また、民族的にはウクライナ人である。
来歴
1954年8月30日当時のソビエト連邦白ロシア共和国のヴィテブスク州オルシャンスク地区コピィシ(コプイシ)村で生まれたとされるが、生い立ちには不明な点もある。両親はルカシェンコが1歳の時に離婚している。
1975年モギリョフ教育大学歴史学部を卒業。通信教育で農業アカデミー経済学部を卒業。1990年ソフホーズの支配人から、白ロシア共和国最高会議代議員選挙に立候補し当選する。独立後、ベラルーシは国内が混乱し政府も腐敗していた。そんな中、ルカシェンコは1993年汚職追及委員会議長に就任し、政治家達の汚職を糾弾し、有権者の支持を獲得する。
1994年ベラルーシ大統領選挙に立候補。大衆迎合的な選挙公約を掲げ、他の候補に圧勝、初代大統領に就任する。
2004年9月7日、ルカシェンコは、大統領の多選を禁じる憲法改正を可能とする国民投票の実施を発表。翌月・10月17日の国民投票の結果、8割弱の賛成で3選への道を開く。これを受け2005年、アメリカ合衆国大統領に再選を果たしたばかりのジョージ・ブッシュは、打倒すべき独裁国家のひとつとしてベラルーシを挙げた。ブッシュはまた、ベラルーシを「最悪の独裁国家」と批判している。2006年3月19日に行われた任期満了に伴う大統領選挙では、得票率82.6%(公式発表)で圧勝し3選を果たしたが、この選挙に関しては得票率改竄の疑惑や、野党候補及びその支持者への妨害などの不正が行われていたとの証言[2]が存在する。
2010年12月19日投開票の大統領選挙で4選を果たしたが(得票率79.7%)、やはり不正選挙であるという指摘がなされている[3]。 ルカシェンコの四選直後からベラルーシ経済は未曾有の危機に陥り、ロシアによるインフラを担う国営企業などが掌握される可能性が出てきており、ベラルーシが事実上ロシアに吸収合併(乗っ取りとも言える)される可能性も現実味を帯びている。2011年5月27日、ルカシェンコは政府関係者を集めた会議の席上、「ギャングども(ロシアのこと)に我々の国を売り払いなどしない!」などと述べ、感情を露にした[4]。 ロシアはかねてからベラルーシの吸収合併を狙っていた。
「国を売らない」と公言していたルカシェンコであったが、ベラルーシ国内の反政府運動の激化と、ロシアとの対立で国家財政の重要な収入源である天然ガスの国内通過料が得られなくなる可能性が出てきたため、2011年12月にロシア主導の「ユーラシア連合」構想への参加を表明。それと引き換えに天然ガスをロシアがベラルーシに「統合割引価格」で提供、そして、ロシアがベラルーシ国内のガスパイプラインを買い取るという協定を結んだ。これにより、ベラルーシ経済はロシアに掌握された格好となった[5]。
政策
ルカシェンコ自身は特定の政党に所属していないものの、ベラルーシ人民戦線とベラルーシ共産党 (KPB) などが政権を支持する事実上の与党である。特に共産党とは「ソ連の復活」で一致し、レーニン像を保護するなど容共である。大統領就任後、国旗もソ連時代のものに倣った国旗に変更し、前国旗を使用禁止にした。また、大統領就任直後、政府庁舎に掲げられていた旧国章を鎌とハンマーがあしらわれている白ロシア・ソビエト社会主義共和国の国章に付け替えた(現在はそれを一部修正した現行のベラルーシの国章が付けられている)。また、ロシア語を公用語であるベラルーシ語と同等とし、強いロシア語化政策およびベラルーシ語の迫害政策を敷いている(国営テレビ放送や、大統領就任式などの国家行事でもベラルーシ語ではなく、ロシア語が使われている)。このため、ベラルーシ語自体が絶滅の危機に瀕しているとされる。
ロシア連邦との「連邦国家」の実現による両国の政治・経済・軍事などの各分野での両国の統合構想を強く推進し、1999年12月8日には、当時のボリス・エリツィン・ロシア連邦大統領との間でベラルーシ・ロシア連合国家創設条約に調印しているが、その後、彼に代わってロシア連邦大統領に就任したプーチンらが提唱するロシアによる事実上のベラルーシ併合発言に反発し、両国の統合構想は行き詰ったままである。
経済の市場化に逆行した政策をとったため、市場化と民主化の推進を主張する欧米諸国政府からは「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれ、時に強権的政治手法をとる政権運営は、諸外国やメディア等から批判の対象となることもある。
一方、経済面ではソ連崩壊後の経済危機を乗り切り、国内総生産の成長や工業生産の回復など一定の成果を収めており、ベラルーシの1人当たり国民所得は中所得国水準を維持しており、特に農村部に多くの支持者がいる。
グルジア紛争でのロシアの旧ソ連諸国に対する軍事的な強硬姿勢や、ベラルーシのロシアへの併合への圧力をかけるための天然ガスの値上げなどの諸政策を受け、再度欧米への接近を図っているとも伝えられるが、欧米およびロシアと付かず離れずの関係を維持し、自らの権力を維持しようとしているという見方もある。そして、2008年9月の下院選に監視団を受け入れることで、これを機に西側との関係改善を図ろうとしたが、10月6日にプーチン首相がベラルーシを訪問。連邦国家実現へ向けての政策を実行することを確認した。これは、ロシアに西側への接近を引き止められたといえる。しかしながら、同月EUが民主化の兆しと下院選を評価し、制裁が一部解除されることとなった。制裁の解除により、2009年3月26日にはローマ法王ベネディクト16世との会談が実現した(ただし、ルカシェンコは無神論者である[6])。
2009年に入ってベラルーシは西側への接近を強め(ルカシェンコ自身「我々は西側との関係を正常化する」と言明している)、ロシアとの関係が悪化している。ロシアから約束されていた5億ドルの支援が棚上げになったことに立腹し、「ロシアに泣きついて頭を下げることはない」と述べ、欧米への接近を図った[7]。これに対し、ロシアは対抗措置としてベラルーシ産の乳製品を輸入禁止にした。連合国家構想もこのような点や、またもはや双方共にやる気がないとの見方もある[8]。しかし、金銭面での支援を得るためにEUへ接近したものの独裁体制などを理由に支援を却下され、これにルカシェンコは立腹し、ロシア、EU双方を「わが国の主権を侵害している」と非難した。ベラルーシの国家財政の基盤だった他国からの援助が得られず、ルカシェンコは国際社会から孤立した。ロシアの財務相であるアレクセイ・クドリンはベラルーシが市場改革や財政面での見直しを行っていないため、近い将来ベラルーシは財政破綻するとの見方を示している。
しかし、2009年11月にはロシアからの経済支援を引き出すため、アブハジアと南オセチアの独立を承認することを検討している[9]。このように、ルカシェンコはロシアとEUを天秤にかけ、双方から経済支援を引き出す外交を展開している。このような外交手腕には、専門家も舌を巻いている[10]。また、ロシアとの関係改善のメドがついたことで、2009年12月には連合国家の最高国家評議会も行われる運びとなった。
2010年6月にロシアの天然ガスをめぐる紛争が発生。紛争自体は数日で解決を見たが、両国関係には大きな傷がついたと思われた。しかし、ルカシェンコはすぐにロシア・カザフスタン・ベラルーシの三カ国で発足する予定だった関税同盟に参加を表明。関係修復を素早く行なった。
2011年12月、「ユーラシア連合」構想への参加を表明。
人物
私生活
妻帯、ヴィクトルとドミトリーという2人の息子がいる。このほかにもニコライという2004年に生まれた婚外子がいる。妻は公式の場に姿を見せない。ルカシェンコはニコライを大変かわいがっているようで、北京オリンピックの開会式や2009年と2010年の軍事パレード、ベネディクト16世との会談時など、ありとあらゆる行事にニコライを同席させている。
タバコは吸わず、酒もほとんど飲まない。趣味はスポーツで、特にサッカーとアイスホッケーを好む。アイスホッケーに関しては自身も選手として参加しており、ベラルーシ国内にミンスク・スポーツ宮殿やミンスク・アリーナなどといったアイスホッケー場を多数建設するよう命じている。1998年2月の長野オリンピックの際に非公式で来日しており、公式来日を希望したが警備上の理由で拒否され競技見たさに非公式で来日した[10]。
ベネズエラのウゴ・チャベス大統領と友好的であり、よく会談していた。
発言・主張
アドルフ・ヒトラーを「彼のおかげで(ドイツは)残骸から立ち直った」と賞賛し(自身のちょび髭もヒトラーを真似ているとされる。また、閲兵の際肘から指先までを挙げるヒトラーが行っていた答礼をしたことがある[11])、「ユダヤ人は、ボブルイスク(ベラルーシ国内の一都市)を豚小屋に変えた」など、反ユダヤ的発言をしている(ベラルーシには約7万人ほどのユダヤ系住民がいる)。そして、「ドイツの歴史はベラルーシの歴史のコピーだ」と発言している[12]。
「ベラルーシには美人がたくさんいる。しかし私が毎日通る道の交差点にクチャクチャな顔をしたフランス人の顔が写っている。とんでもないことだ」と発言し、広告の撤去を命令、さらにベラルーシ国内の広告に国外女性モデルの使用を禁じた[10]。ちなみに、かつてベラルーシではベラルーシ人女性の人身売買・海外売春が問題になった。そこで、現在ではそれを防ぐためにベラルーシ人女性の出国を一部規制する法律が存在している[10]。
「プレジデントは自分一人で十分」との理由で、大統領職以外の会社社長などに「プレジデント」を別名として使用することを禁じた[10]。
自身の三選について、「私が大統領選に参加できない理由などありません」と述べ、また、「独裁者」との批判については「私は国民に与えられた権限しか行使していない」と反論している[10]。
野党が議席を確保できなかった2008年の下院選について、「これでも非民主的と言うのなら、彼ら(EU)との対話を絶つ」と強硬な主張をした。
色の革命について、「ベラルーシではピンクだの、オレンジだの、バナナだのといった革命はありえない」と発言している。
2010年4月14日、ワシントンD.C.での核安全保障サミットにベラルーシが招待されなかったことに対し、「(自分を招待しなかった奴らは)脳みそが足りない」と過激な発言をした[13]。
また、NATOによるリビアへの軍事介入を「ナチスより最悪だ」と2011年11月に評している[14]。
2012年3月には、ドイツのギド・ヴェスターヴェレ外相がベラルーシを「独裁国家」と批判したことに対し、「ゲイより独裁者のほうがマシだ」とヘイトスピーチをした[15]。
フランスのニコラ・サルコジ前大統領の不正資金疑惑(大統領に当選した2007年に、当時のリビアの最高指導者ムアンマル・カッザーフィーから5000万ユーロを受け取ることを合意していたというもの)について、「ムアンマル・カッザーフィー本人からサルコジに1億ドルを渡したと聞いた」と証言し、大きな波紋を呼んだ[16]。
服装
普段はスーツを着用しているが、国の重要行事では軍服を着用することもある。また、軍の視察に訪れる際には迷彩柄の野戦服姿の時もある。非軍人であっても国の重要行事で軍服を着用することは独裁者にはよくあるものである。
人物像
権力欲が非常に強い人物として知られる[17]。連合国家構想ももともとは自らがロシアの最高指導者になりたいが故に発案したものであった。事実、連合国家構想は、初め国力が低下し混乱していたロシアとは対照的に、1994年以来の自らの独裁政治により国力を増したベラルーシがイニシアチブを握っていた[17]。性格的には気難しい人物とされ、過激な発言も多く、アメリカだけではなく、友好国であるはずのロシアをも激しく批判するその姿勢から、「奇人」とも評されている[18][19]。
ロシアのメドベージェフ大統領はルカシェンコを「外交的規範どころか、人間としての基本的礼儀さえわきまえない」と嫌悪感を露にしている[20]。
その他
ルカシェンコを支持する人々からは、ルカシェンコは「バトゥカ」(「父」の意)と呼ばれ、尊敬(個人崇拝)されている。「ルカモール」などと揶揄される「ベラルーシ共和国青年団」というコムソモールを真似た青少年組織も存在する。
出典
外部リンク
- President's official site テンプレート:En icon テンプレート:Ru icon テンプレート:Be icon
- BBC - Profile: Alexander Lukashenko
- Statement at the 60th Session of the UN General Assembly
|-style="text-align:center"
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|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon ベラルーシ共和国大統領
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最高国家評議会議長
初代:2000 -
|style="width:30%"|次代:
(現職)
- ↑ 廣瀬陽子「旧ソ連諸国の権力維持の構造」 2010年9月7日 SYNODOS JOURNAL。
- ↑ 服部倫卓「2006年ベラルーシ大統領選特報」 服部倫卓のロシア・ウクライナ・ベラルーシ探訪、2006年3月20日。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ http://www.russiatoday.com/Top_News/2009-04-27/What_has_Aleksandr_Lukashenko_told_Benedict_XVI.html
- ↑ http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090530/erp0905301051005-n1.htm
- ↑ http://www.svobodanews.ru/content/transcript/1741981.html
- ↑ http://www.asahi.com/international/update/1122/TKY200911220188.html
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 10.5 日本テレビ 「緊急!ビートたけしの独裁国家で何が悪い!」 2008年9月17日放送。
- ↑ http://www.youtube.com/watch?v=UjuMFHg8SF8&feature=related
- ↑ "Bigotry in Belarus" THE JERUSALEM POST, October 20, 2007.
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Citenews
- ↑ テンプレート:Citenews
- ↑ テンプレート:Citenews
- ↑ 17.0 17.1 http://sankei.jp.msn.com/world/europe/071214/erp0712142103010-n2.htm
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
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