アレクセイ・クドリン
テンプレート:政治家 アレクセイ・レオニードヴィチ・クドリン(クードリン、テンプレート:Lang-ru、ラテン文字表記の例:Aleksei Leonidovich Kudrin、1960年10月12日 - )はロシアの政治家。前副首相兼財務大臣。プーチン政権では、彼の出身地であるサンクトペテルブルクで共に働いた急進改革派の経済専門家が多数登用されているが、クドリンもその一人である。但し、プーチンよりもアナトリー・チュバイスの直系であると見なされる。
経歴
1960年10月12日、ソビエト連邦ラトビア共和国のドベル市に生まれる。1983年にレニングラード大学経済学部を卒業後、ソ連科学アカデミー社会経済問題研究所に勤務し、ここでチュバイスと知り合い、親交を持つ。1988年にソ連科学アカデミー経済研究所大学院を修了し、経済学博士候補号を授与される。
1990年、レニングラード市長のアナトリー・サプチャークのもとで同市執行委員会経済改革委員会副議長に就任し、以後、サプチャーク市政の下、1992年からサンクトペテルブルク市財政局長、1994年からサンクトペテルブルク市副市長、経済・財政委員会議長を務める。プーチンとの関係もこの頃形成された。
1996年のサンクトペテルブルク市長選挙でクドリンは現職のサプチャークを支持し選挙対策責任者となる。しかしこの選挙ではウラジーミル・ヤコブレフ第一副市長がサプチャークを破ったため、クドリンはサプチャークに殉じる形でサンクトペテルブルク市政から離れる。
その後、チュバイスの引きで1996年8月に大統領府副長官に就任。チュバイスが第一副首相兼蔵相に就任すると、1997年4月に第一財務次官に就任する。1999年1月から統一エネルギーシステム副会長、1999年6月から第一財務次官をそれぞれ務める。
エリツィン大統領が辞任し、首相のプーチンが大統領代行に就任すると、同郷のサンクトペテルブルク出身の経済テクノクラートであるクドリンは、2000年5月にミハイル・カシヤノフ内閣で副首相兼財務相に就任する。2004年3月に発足したミハイル・フラトコフ内閣でも財務相。続く2007年9月からのヴィクトル・ズブコフ内閣で副首相兼務となり、2008年5月からのプーチン内閣でも副首相兼財務相に留任した。
2011年9月24日、統一ロシアの党大会でプーチン首相が2012年大統領選挙に立候補を表明すると、翌25日、訪問先のワシントンで、プーチン大統領の下、メドヴェージェフ首相の内閣が組閣されれば、新政権には加わらない考えを示した[1] [2]。そのため、9月26日にメドヴェージェフ大統領より辞任を求められ、副首相兼財務相を辞任した[3]。その後、12月12日には新党結成を目指す事を発表した。
脚注
- ↑ テンプレート:Ja icon テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Ja icon テンプレート:Cite web
- ↑ 露大統領、財務相に辞任要求 次期政権めぐり波乱 MSN産経ニュース・2011年9月27日
外部リンク
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ミハイル・カシヤノフ
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon ロシア連邦財務相
第11代:2000 - 2011
|style="width:30%"|次代:
アントン・シルアノフ
(代行)
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