アルジェリア戦争
colspan="3" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | アルジェリア戦争 | ||
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colspan="3" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | | ||
戦争:アルジェリア戦争 | ||
年月日:1954年11月1日 - 1962年 | ||
場所:アルジェリア及びフランス本土 | ||
結果:アルジェリアの独立 | ||
交戦勢力 | ||
width="33%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | FLN (1954-62) MNA (1954-62) |
テンプレート:Flagicon フランス (1954-62) | width="33%" style="border-left: テンプレート:WPMILHIST Infobox style padding-left: 0.25em;" | FAF (1960-61) OAS (1961-62) |
colspan="3" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官 | ||
width="33%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | フェルハット・アッバス オシン・アイト・アーメド ベン・ベラ ラムダーネ・アバーネ ベンユーセフ・ベンヘッダ カリム・ベルカセム ラルビ・ベン・ムヒディ ラバ・ビタト ウアリ・ブーメディエン ムハンマド・ブーディアフ メッサーリ・ハジ |
ポール・シェリエール (1954-55) アンリ・オリヨ (1955-56) ラウル・サラン (1956-58) モーリス・シャール (1958-60) ジャン・クレパン (1960-61) フェルナン・ガンビエ (1961) シャルル・アイユレ (1961-62) |
width="33%" style="border-left: テンプレート:WPMILHIST Infobox style padding-left: 0.25em;" | サイード・ボウラム ピエール・ラガイヤール ジョゼフ・オルティス ラウル・サラン |
colspan="3" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力 | ||
width="33%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 40,000人 | 国軍500,000人 国家憲兵隊及び警察300,000人 アルキ60,000人 |
width="33%" style="border-left: テンプレート:WPMILHIST Infobox style padding-left: 0.25em;" | 3,000人 |
colspan="3" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害 | ||
width="33%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 戦死141,000人以上 | 戦死28,500人 負傷者65,000人 アルキの戦死30,000 - 90,000人 |
width="33%" style="border-left: テンプレート:WPMILHIST Infobox style padding-left: 0.25em;" | 戦死100人 逮捕2,000人 |
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アルジェリア戦争(アルジェリアせんそう、Algerian War, テンプレート:Lang-ar; テンプレート:Lang-fr)は、1954年から1962年にかけて行われたフランスの支配に対するアルジェリアの独立戦争。フランス本土と当時はフランス領(公式には植民地ではなく海外県と海外領土の中間的存在とされる。)であったアルジェリアの内戦であると同時に、アルジェリア地域内でフランス本国と同等の権利を与えられていたコロンと呼ばれるヨーロッパ系入植者と、対照的に抑圧されていたベルベル人やアラブ系住民などの先住民(indigene,アンディジェーヌ)との民族紛争及び親仏派と反仏派の先住民同士の紛争、かつフランス軍部とパリ中央政府との内戦でもある。
フランス政府では公式には戦争として認定されず、「アルジェリア事変」(évènements d'Algérie)や、「北アフリカにおける秩序維持作戦[1]」と呼称されていたが、1999年10月になり法改正され正式にアルジェリア戦争(Guerre d'Algérie)と記される様になった[2]。
目次
背景
テンプレート:Main 1830年以降、フランスはアルジェリアを支配下に置き、1848年に3つの直轄県(オラン県・アルジェ県・コンスタンチン県)を置いて内地、本国の一部としたほか、1881年に東隣チュニジアをオスマン帝国から確保、1912年に西隣モロッコを保護領として支配下に組み込むなど、北アフリカ支配の拠点としていた。その様子は、アルジェリア戦争初期には「セーヌ川がパリを横切るように、地中海がフランスを横切る」と称されるほどであった[3]。
ヨーロッパ系コロン(ピエ・ノワール)と、同化によって市民権を付与されたユダヤ教徒や一部のムスリム以外の先住民は差別、抑圧されており、1945年の第二次世界大戦終結後、アジアなどから急激に広がった民族自決の流行の中で、反仏抵抗運動が高まっていた。1952年1月に起こったフランスによるチュニジア民族運動弾圧は、植民地支配に固執するフランス人の国際的評価を下げた。また、1954年のジュネーヴ協定によってインドシナ4国(南北ベトナム含む)が正式に独立に至ったことは、フランスの全植民地・海外領土に暮らす人々を力づけるものであった。
経過
FLNの軍事闘争と内務省主導の治安維持作戦
1954年、アルジェリア民族解放戦線(FLN)が組織され、同年11月1日に一斉蜂起を開始した。FLNは軍事部門であるアルジェリア国民解放軍(ALN)を設立し武装闘争を本格化させた。これに対してピエール・マンデス=フランス内閣は治安事態とみなして即応兵力を増強し各地の蜂起を鎮圧した。1955年4月、フランス軍はNATOに派遣中の1個師団を引き上げ決定、同年8月には抽出部隊は2個師団に変更され10万人を超える規模にまで膨れ上がった。1956年1月の総選挙では弾圧政策をとるエドガール・フォール内閣に対し融和政策を掲げたギー・モレが勝利した。しかし、ピエ・ノワール達の反発に遭い同年3月には政策を転換、国民議会で圧倒的多数の支持で非常大権を獲得し緊急事態法が公布され、4月11日に20万人の予備役の招集が決定された。
一方の民族解放戦線のゲリラ部隊も最初の1年間だけで6,000以上の農場、400の学校を破壊し、数十万の家畜を略奪、他にも道路・橋梁、通信施設を破壊、軍人、警察官や役人、人種を問わず現地住民を殺害した。1957年秋ごろまでには、各地のゲリラ部隊はフランス軍を翻弄しつつも指導者層が次々と逮捕され、チュニジアへ撤退していった。
1955年にはチュニジア・モロッコでも民族運動が盛り上がり、反仏暴動につながった。結果、翌1956年にはチュニジアとモロッコはフランス連合内で独立を達成したものの、フランス内地化が進み、コロンなどの問題を抱えるアルジェリアに関しては、対応をめぐってフランス政府が分裂した。戦争は、FLN支持者とみなされた現地住民や村落に対するフランス軍による虐殺や、FLNによるフランス人経営のカフェや映画館などを狙った市街地での爆弾テロにより泥沼化していった。
国防省主導の平定作戦
1956年3月の緊急事態法の成立に伴い、予備役の動員が決定され4月15日には兵役期間を28ヶ月に延長し、予備役4万人および予備役将校を召集し同年2月1日には19万1000人の兵力は年末までに25万人に増強された。さらにアルジェリア派遣軍兼第10軍管区司令官ラウル・サラン将軍に軍・警察の権限を集中させ平定作戦を強化した。
アルジェリア国民解放軍は本部をチュニスに置き、オーレス・カビリーには秘密拠点を設けて戦力の増強と民心獲得を行なっていた。チュニジアの難民キャンプに避難していたゲリラ部隊は頻繁に越境攻撃を実施するもフランス軍の警戒防御線の前にただ損害を増やすだけであった。5月28日には国境の村サキエトに対する誤爆事件が発生、チュニジアや世界各国はこれを非難しフランスは解決策として国境地帯の無人化を提案したがチュニジアは拒否。6月1日にフランスは親書をチュニジアに渡し、同月17日に紛争処理協定が結ばれフランス軍の越境攻撃は中断、チュニジアとの全面戦争の危機は回避された。
1958年6月6日には陸海空軍が51万3000人、補助兵力約13万人にまで拡大した。戦闘は1958年から1960年半ばまでがもっとも激しく、モーリス・シャール将軍の指導によるシャール計画(シャール攻勢)では各地のALN部隊を壊滅状態に追い込んだ。
フランスの政治的混乱
フランス第四共和政#共和国の崩壊も参照の事。
フランス本国の世論もFLNの独立運動を支持する側とフランスの国家的威信を優先させる側に分裂する。1958年5月13日、「フランスのアルジェリア」を支持する現地軍人やコロンたちの暴動は済し崩し的にクーデターに発展し、フランス本土侵攻の脅威によって第四共和政政府は有効な解決策を出せずに危機に追い込まれ、崩壊状態となった。
政府の出馬要請により軍部を抑えることのできる人物としてシャルル・ド・ゴールが首相に就任し、9月28日に新憲法を国民投票で承認させ、10月5日第五共和政が開始された。コロンやアルジェリア駐留軍はド・ゴールに期待したが、ド・ゴールはアルジェリア戦争の戦費による赤字財政を危惧し、同年9月にアルジェリアの民族自決を支持した。12月12日に人事刷新を図り自らを担ぎ出したサラン将軍を閉職に追いやり、軍政を廃止して文民であるポール・ドルーヴリエに統治をゆだねた。また、空軍部隊司令官に自らの派閥に近いシャール空軍大将を就任させた。ただし、中核的人物であったジャック・マシュ将軍はアルジェ地区行政長官に就任させ、駐留軍の動揺を抑えた。1959年1月、ド・ゴールはフランスの大統領に就任し、直ちに非常事態権を発動した。
1960年、フランスは年頭からアフリカ植民地の独立を次々に承認し、後に「アフリカの年」と呼ばれるようになる。1月24日、アルジェではマシュ将軍の師団長更迭に端を発する暴動事件であるバリケードの1週間が発生、事態は解決したが極右活動家や過激傾向の軍人は逮捕あるいは更迭された。このような情勢下でド・ゴールは7月に「アルジェリア平和計画」を発表した。これはアルジェリアで戦う軍人とコロンの更なる反発を買い、11月にはアルジェリアでコロンらの反ド・ゴール暴動を招いた。しかし、1961年1月にフランス本土で行ったアルジェリア独立をめぐる国民投票では、75パーセントがアルジェリアの民族自決を、つまりはド・ゴールの植民地独立政策を支持した。
一方、フランスではバリケードの1週間の首謀者連に対する裁判が行なわれたが、被告人のほとんどが軽い量刑で済まされ、釈放後は多くが地下活動に転じ秘密軍事組織(OAS)を結成してフランス軍やフランス官憲に対して反乱を開始した。彼らはアルジェリアはフランス固有の領土であると信じ、この戦いをヨーロッパ文明と野蛮との戦いと位置づけた。OASはアルジェリアやフランス本土で、フランス人政治家や警察官僚らを殺害するなどテロ活動を活発化させ、1961年9月にド・ゴールの暗殺を計画するが失敗した。だが、暗殺計画の発覚でコロンとOASへの支持は失墜して、フランス本国でもアルジェリア独立の支持が高まった。
1961年4月には将軍達の反乱が発生、アルジェリア駐留軍から空挺部隊が決起し、OASも参加して1958年5月の危機と同じく内戦の寸前の事態にまで陥ったが、ドゴール大統領の強硬な態度と駐留海空軍の離反、そして混乱のさなかにサハラ砂漠で実施された核爆発実験の衝撃がクーデターに止めを刺した。このときフランス国民は空挺部隊が本土を奇襲するのではと大変恐れたという。この事件以降、ALNの軍事行動は激減し、フランス軍の平定作戦は小康状態となり軍内部の粛清とOASとの戦いに注力した。
休戦交渉
OASのフランス軍、FLN、およびアルジェリア人市民に対するテロが激化する中、ドゴールはFLNに和平交渉を呼びかけ、1962年3月、レマン湖畔・エヴィアン=レ=バンでエビアン協定を締結。アルジェリア独立が承認され、フランス軍とFLNの戦闘は停止する。4月のフランス本国で行われた国民投票では、大多数の国民が戦争の終結を望み90%以上がアルジェリア独立を支持した。
一方、OASはますますテロを激化させ、FLNを襲撃するほか「アルジェリアをフランス統治時代以前の状態に戻してから返還する」としてフランスがアルジェリアに建設してきた近代的インフラストラクチャーをも破壊し始めた。FLNも報復テロを行い、アルジェリアに留まることがエヴィアン協定で認められていた一般人のコロンらはテロの応酬による無政府状態を恐れて次々とアルジェリアからフランスへの移住を開始した。OASにもさすがに敗北を認めるものが現れ、6月にはFLNと停戦に至ったが、もはやコロンの大半はアルジェリアを脱出しようとしていた。
6月28日、休戦交渉中にフランス軍はNATO抽出の2個師団を西ドイツに帰還させ、7月にアルジェリアで実施された投票では絶対多数で独立が採択され、アルジェリアの独立が決定する。初代大統領にはFLNの創設者であるベン・ベラが就任した。
FLNは以後アルジェリアを主導する政治勢力となったが、長期政権化して次第に国民の不満が高まるようになった。OASはこの戦争後もフランス本土でドゴール暗殺とクーデターを試みたが失敗し続け衰退した。アルジェリアに残ったフランス系住民はわずかにとどまり、フランス側に味方して戦った25万のアルジェリア人(アルキ、harki)に対してはFLNなどによる報復が行われ、多くが殺され多くがフランスへ亡命することとなった。
戦後
フランス政府は忘却政策を行いアルジェリア戦争に関する報道を規制して過去の汚点として忘れ去ろうとした。 しかし、1990年代に入ると記憶の義務運動が起こり、アルジェリア戦争の記録がマスメディアで報道されるようになった。 拷問やテロなど非人道的な問題が頻繁に取り上げられ、これにピエ・ノワール(アルジェリアからの引揚者達)による抗議活動が活発化した。 2005年2月には「フランスの植民地支配を肯定する法律」を成立させアルジェリアの支配を正当化しようとしたが、猛反発を招き一年後には廃止されている。
関連作品
関連項目
脚注
外部リンク
- ド・ゴール伝(日本語)
- Algerian War Reading
- アルジェリア戦争の写真(フランス語)
- Algerian War of Independence
- Algerian National Liberation
- Biography of Ahmed Ben Bella
- Biography of Frantz Fanon
- Excerpts from The Wretched of the Earth by Frantz Fanon
- Pacification in Algeria: 1956–1958 by David Galula
メディア・アーカイブ
- Audiovisual National Institute's declassified Algeria War archives (hundreds of free video: news rushes, interviews, official speeches, retrospectives, etc.)
- Algerian War Retrospective
参考文献
- 淡徳三郎『アルジェリア解放戦争 FLNの7年半』青木新書、1962年
- アリステア・ホーン『サハラの砂、オーレスの石 アルジェリア独立革命史』北村美都穂:訳、第三書館、1994年
- 柏木明『フランス解放戦争史』原書房、1995年
- 渡邊啓貴『フランス現代史 英雄の時代から保革共存へ』中公新書、1998年
- 栗栖弘臣『マジノ線物語 フランス興亡100年』K&Kプレス、2001年
- シャルル=ロベール・アージュロン『アルジェリア近現代史』私市正年/中嶋節子:訳、白水社、2002年
- 永原陽子:編『「植民地責任論」脱植民地化の比較論』青木書店、2009年
- Guy.Pervillé Cécile.Merin,Atlas de la guerre d`Algérie,Editions Autrement,2003
- Benjamin Stora, Histoire de la guerre d'Algérie, 1954-1962, la Découverte, 1993
- Yves Courrière,La guerre d'Algérie 1957-1962,Fayard,2004
- Library of Congress Country Study of Algeria
- Modern Warfare: A French View of Counterinsurgency Roger Trinquier (1961)
- Leulliette, Pierre, St. Michael and the Dragon: Memoirs of a Paratrooper, Houghton Mifflin, 1964
- Rita Maran, Torture. The role of ideology in the French-Algerian war, New York: Prager Publishers 1989
- Jouhaud, Edmond. O Mon Pays Perdu: De Bou-Sfer a Tulle. Paris: Librarie Artheme Fayard, 1969.
- Cinq Colonnes à la une, Rétrospective Algérie, ORTF, June 9th 1963
- Cinq Colonnes à la une, Rushes Interview Pied-Noir, ORTF, July 1st 1962
- 『歴史群像No64 アルジェリア戦争』学習研究社、2004年
- ↑ フランスの植民地支配を肯定する法律とその第4条第2項の廃止について
- ↑ テンプレート:Frテンプレート:Lien web
- ↑ 永原「植民地責任論」青木書店、P70。原典はBenjamin Stora,Appeles en guerre d`Algerie