新保守主義 (アメリカ合衆国)

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:アメリカ合衆国の保守主義 アメリカ合衆国における新保守主義(しんほしゅしゅぎ、テンプレート:Lang-en-short, 略称:ネオコン)は、保守派の政治イデオロギーの1つで、米国においては1970年代から独自の発展をして、共和党政権時のタカ派外交政策姿勢等に非常に大きな影響を与えた。

アメリカ新保守主義の呼称

Neoconservatism」の直訳として「新保守主義」が使用されている。この言葉は形容矛盾であるが、元祖ネオコン思想家の1人であるノーマン・ポドレツによれば、「ネオコンは元来左翼でリベラルな人々が保守に鞍替えしたからネオなのだ。」として、ジョージ・W・ブッシュなどに代表されるいわゆる旧来保守との区別を呼び掛けている。テンプレート:要出典範囲、略称として近年では「Neocon(ネオコン)」と呼ばれる事が多い。これに対し、伝統主義などを提唱する旧来の保守派は、「PaleoConservatism(旧保守主義、ペイリオコンサヴァティズム、テンプレート:要出典範囲)」と呼ばれ、ネオコンとはしばしば対立してきた。

新保守主義者の歴史

起源

アメリカ合衆国の新保守主義の源流は、後に「ニューヨーク知識人」と呼ばれるようになる、1930年代反スタ左翼として活動したトロツキストたちにまで遡る。彼らの多くは、アメリカの公立大学の中で最も歴史のある大学の一つ、ニューヨーク市立大学シティカレッジ(CCNY)に学んでいる。CCNYは、高度に選択的な承認基準と自由教育により、20世紀初頭から中期にかけて「プロレタリアハーヴァード」(“Harvard of the Proletariat”)と称されていた。それは当時、ハーヴァード大学をはじめとするアイビー・リーグの私立学校が、大多数のユダヤ系アメリカ人有色人種たちに関し排他的な入試制度を持っていたからである。

当代のニューヨーク知識人には、社会学者ダニエル・ベル、政治学者シーモア・リプセットリチャード・ホフスタッターマイケル・ハリントンシカゴ大学出身。左翼から保守に移行した知識人を批判的に「新保守主義」を名付けたのは、彼といわれている)、政治学者マーティン・ダイアモンド、文芸批評のアーヴィング・ハウなどがおり、こうした人の中に、のちにアメリカ新保守主義の創設者(founder[1]と考慮される文芸批評家のアーヴィング・クリストル、その妻であり歴史家のガートルード・ヒンメルファーブネーサン・グレイザーシドニー・フックらがいた。したがってニューヨーク知識人の中で新保守主義へと転向したのは、一部に過ぎない。また、重要な人物としてマックス・シャハトマンが挙げられる。ポーランド移民である彼はトロツキズムの党派社会主義労働者党第四インターナショナルから、独ソ不可侵条約締結とソ連邦によるバルト3国侵攻を期に、ソ連邦の国家性格やその「帝国主義からの防衛」の是非をめぐってトロツキーらと論争し、社会主義労働者党から分裂してアメリカ労働者党を結成する。ハリントンやハウは、彼に魅了され左翼になった(後に転向)。

第二次世界大戦後、シャハトマンのグループは民主党に入り込み、党内最左派として全米自動車労組(UAW)やヘンリー・M・ジャクソンの派閥などを基盤に活動していく。人数的には少数派だったがアメリカ労働総同盟・産業別組合会議(AFL-CIO)の会長や政府高官にメンバーを送り込んでいた。1970年代に入るとさらに保守化し、シャハトマンの死後このグループは分解の方向に向かった。このシャハトマン・グループ傘下の青年社会主義同盟に入っていたのがカークパトリックなどである。シャハトマンの新保守主義への貢献は、戦前にはトロツキスト・グループを形成し青年ユダヤ人に知的公共空間を提供したこと、戦後はユダヤ人たちが米国の現実政治のなかで影響力を与えていく回路をつくりあげたことだろう。

なお、左翼からネオコンに至ったことで、両者に通底する何らかの部分があったとするマイケル・リンドは、新保守主義の「民主主義の輸出」というコンセプトは彼らが青年期に信奉したトロツキズムの「革命の輸出」の焼き直しであるとしているが、これは全米民主主義基金が創設された当時左翼からの転向者が幹部に居たことから指摘されていたものである[1]

新左翼及びソ連との緊張緩和(デタント)への反対

最初の社会政策批評家の重要なグループが労働者階級から出現したのち、元祖ネオコン(当時この言葉はまだ存在しなかった)たちは、基本的に社会民主主義者か社会主義者であった。彼らは第二次世界大戦を強く支持した。

元祖ネオコン思想家こと、アーヴィング・クリストルノーマン・ポドレツは、『コメンタリー誌』に関係していた。

初期ネオコンたちは反スタであり、1950年代 - 1960年代初頭の時期に公民権運動キング牧師を強く支持していた。しかし、彼らはジョンソン政権のいう「偉大な社会」に幻滅を感じ、1960年代のカウンターカルチャーを軽蔑した。そして彼らは、ベビーブーマーの間、とりわけベトナム反戦運動新左翼運動の中に反米主義が広がっているのを感じた。

アーヴィング・クリストル(『コメンタリー誌』の元編集長、ワシントンのアメリカンエンタープライズ研究所の上級フェロー、タカ派雑誌『ナショナル・インタレスト』の出版者)によれば、ネオコンは、「リアリティに襲われたリベラル」である。

ネオコンとイスラエルの関係

ネオコンを支えているのは共和党の親イスラエル(シオニズム)政策を支持するアメリカ国内在住のユダヤ(イスラエル)・ロビーである。アメリカのユダヤ系市民はアメリカの総人口3億人に対して600万人に満たないが、その内富裕層の割合が多くアメリカの国防・安全保障政策に深く関わっている。歴史的に数多くの差別を受けてきた経緯からかつてはリベラル派の民主党支持者が多かったが、民主党のビル・クリントン政権が進めた中東政策に対する不満から、共和党に鞍替えしている有権者が多い。共和党の掲げる中東の民主化政策が結果的にはイスラエルを利することになるからである。また、同時にイスラエルの右派政党リクード党も共和党と利害が一致しているため手を結ぶことが多い。このような経緯から、2001年に登場した共和党ジョージ・W・ブッシュ政権には数多くのネオコンが参入しており、同時多発テロ以降の強硬政策を推し進めた。

アメリカ合衆国の保守合同

ファイル:William F. Buckley, Jr. with President Reagan 1986.jpg
ウィリアム・バックリィ(左)とロナルド・レーガン大統領(1986年撮影)

アメリカ合衆国の保守の立場を採る組織や個人の間では、必ずしも利害が共通しているわけではなかった。特に伝統主義とリバタニアニズムはしばしば対立する。例えば、キリスト教精神に重点を置く伝統主義者やキリスト教原理主義者と、完全なる自由競争を唱えるリバタリアニズムの間で、政治的対立を引き起こした。しかしリバタリアニズムを信奉する人物がキリスト教の中絶・ゲイ反対に賛同していることからもわかるように、必ずしも両者が激しい意見の相違があると決め付けるのは誤りである。

また、外交政策や安全保障政策に重大な関心を払わない(モンロー主義孤立主義を提唱する)伝統主義者や、リバタリアニズムの対外不干渉主義は、反共主義者の積極介入主義との間で、極めて深刻な政治対立を引き起こした。

この保守思想の分裂を1つの大きな「保守主義」としてまとめあげることに成功したのが、1955年に創刊されたナショナル・レビューという雑誌である。この雑誌は伝統的な保守派だけでなく、リバタリアンやウィルモア・ケンドールウィリー・シュラム ジェームズ・バーナムフランク・マイヤーのような元左翼も集結させた点が特徴であった。この雑誌の編集者のウィリアム・バックリー・ジュニアは、上記3つの保守派に対し、それぞれの問題の起因はリベラリズムにあると主張した。「リベラリズムは反共主義者の嫌う共産主義を容認し、リベラリズムは伝統主義者の嫌う伝統の破壊者であり、リベラリズムはリバタリアニズムの嫌う大きな政府の支持者である」とし、リベラリズムと対立する3つの異なる保守の合同に成功したのである。この試みは1960年代のアメリカの保守主義運動と連動して、1つの潮流を作り出した。

1964年、共和党大統領候補バリー・ゴールドウォーターの有名な演説が行われた。

「自由を守るための急進主義は、いかなる意味においても悪徳ではない。そして、正義を追求しようとする際の穏健主義は、いかなる意味においても美徳ではない」

保守派はこの演説を大歓迎した。そして、このゴールドウォーター演説に影響された多くの保守派の政治家が、アメリカの次代を担うことになる。

また重要な指摘として、それまでの共和党は、現在のような保守主義ではなかったという点がある。共和党が保守派を利用したのではなく、保守派が共和党を利用したのである。これにより、共和党の保守化が進み、1980年代のレーガン政権誕生へと繋がってゆく。

2001年、保守派は「思いやりのある保守主義」(共産党からの転向者のマーヴィン・オラスキーが「思いやりのある保守主義の父」とニューヨーク・タイムズで呼ばれている[2])を掲げ、それらの政治勢力に後押しされる形でブッシュ政権が誕生した。前述のような背景、思想を持つ人物がブッシュ政権の中枢を担っている。

ネオコンの軍事・外交政策

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現在のネオコンの代表的人物とされるウォルフォウィッツ国防副長官とそれに理解があるとされるブッシュ大統領

ネオコンは、自由主義を世界に広めることと自由化、民主化を理想とし、軍事政策や外交政策は新現実主義路線を採る。また、自由民主主義は人類普遍の価値観であると考え、その啓蒙と拡大に努めている。

また、ネオコンは核戦略において、元トロツキストでランド研究所の重鎮アルバート・ウォルステッター (w:Albert Wohlstetter)の予防的戦争限定核戦争などの議論に強い影響を受けている。

「緊急事(同時多発テロなど)にはアメリカの国防に何ら寄与しない」として、国際連合に極めて批判的である(ジョン・ボルトンの発言に端的に現れている)。国際連合の枠外による国活動を主張するが、それは単独行動主義的であるとして、同盟諸国から批判されることも多い。「有志連合」などは、国際連合の影響力の及ばない多国籍からなる一時的な国際組織として注目されたが、アメリカ合衆国はこの有志連合を恒久的に維持する姿勢を現時点では見せていない。

中央情報局(CIA)にも批判的であることが多い。そのため、軍産複合体と利害が近く、CIAを犠牲にして国防総省の発言力を高めることに積極的である。彼らがCIAを嫌う理由は職員に民主党員が多いためなど、諸説あるが、最も考えられるのはCIAの過去にあるといわれている(反共を理由に、腐敗する独裁政権や軍事政権に対し援助を続けた事に反感を持っているとされる)。といってもこれもブッシュ政権での傾向であり、カークパトリックといったかつてのネオコンはその援助に積極的だった。ポスト冷戦であるジョージ・H・W・ブッシュ政権の時代から中東の民主化構想が考えられ、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権のイラク戦争はそれに基いているとされる。オレンジ革命など俗に「色の革命」と呼ばれる民主化ドミノもネオコンの援助があったと言われ、中央アジアといった旧ソ連や共産圏から同盟国のサウジアラビアバチカンまでも民主化の対象にされている。

ネオコンとされている有名な思想家・政治家

脚注と出典

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

  • "A 1987 article in The New Republic described these developments as a Trotskyist takeover of the Reagan administration" wrote テンプレート:Harvtxt.