陸軍幼年学校
陸軍幼年学校(りくぐんようねんがっこう)とは、幼年時から幹部将校候補を純粋培養するために設けられた陸軍の全寮制の教育機関。旧制中学1年から旧制中学2年修了程度に受験資格を与えた。プロイセンの Kadettenanstalt に範をとって設立された。この記事では、日本の陸軍幼年学校を説明する。
概要
テンプレート:日本陸軍 1870年(明治3年)、横浜語学研究所を大阪兵学寮に編入、幼年学舎としたことに始まる。1871年(明治4年)、大阪兵学寮は陸軍兵学寮・海軍兵学寮に分離され、同年東京府に移転した。1872年(明治5年)、陸軍兵学令の改正に伴い陸軍兵学寮幼年学舎から独立する形として幼年学校が設立された。さらに1874年(明治7年)、陸軍士官学校が兵学寮より離れて独立。翌1875年(明治8年)、幼年学校も兵学寮より分離独立、陸軍幼年学校と改称された。1877年(明治10年)、陸軍士官学校に組み入れられ一時消滅した。
1886年(明治19年)4月に教育令に代わって中学校令等が公布されると翌1887年(明治20年)、陸軍士官学校官制および陸軍幼年学校官制が制定され、陸軍幼年学校は再度設立された。1889年(明治22年)6月、陸軍幼年学校官制を廃止し、陸軍幼年学校条例が制定された。
日清戦争後の1896年(明治29年)5月、陸軍幼年学校条例が廃止され、代わって陸軍中央幼年学校条例および陸軍地方幼年学校条例が制定された。すなわち、陸軍中央幼年学校を東京に1校、陸軍地方幼年学校を仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本に各1校が陸軍省管轄の学校として設立された。これにより、地方幼年学校には13歳から16歳で入学して3年間学び、卒業すると中央幼年学校に入学して2年間学ぶという、地方・中央合わせて5年間の修業年限となった。すると、文部省管轄の(旧制)尋常中学校(修業年限5年)と酷似する制度となり、教育界や新聞などから地方幼年学校の廃止論が活発化した。帝国議会でも貴族院で久保田譲が廃止論を唱え、地方幼年学校廃止の建議案を第11回帝国議会に提出する準備もなされたが、衆議院の解散によってタイミングを失ってしまう。また、当時の中学校では学校騒動が問題となっていたこと、中学校の自由教育を受けてきた人材は信用ならないという観念が陸軍側にあったことから、結局廃止には至らなかった。
幼年学校では、中学校相当の普通学に加え軍事学を学んだ。また、学費は陸海軍の士官子息であれば半額となり、戦死者遺児は免除とされていた。制服の襟には金星のマークがつけられたことから「星の生徒」と呼ばれた。
1898年(明治31年)5月12日、中央幼年学校は東京市牛込区市ケ谷本村町旧野戦砲兵第一連隊跡に新築された校舎に移転した[1]。1903年(明治36年)、政府の財政難により陸軍中央幼年学校と東京陸軍地方幼年学校の合併が図られた。その結果、同年6月29日、陸軍中央幼年学校条例を全部改正(明治36年勅令第108号)、陸軍地方幼年学校条例を一部改正(明治36年勅令第109号)し、従来の陸軍中央幼年学校を陸軍中央幼年学校「本科」に、東京陸軍地方幼年学校を陸軍中央幼年学校「予科」とした。また、旧東京陸軍地方幼年学校の校長職を廃止し、中央幼年学校の校長が本科・予科の校長を兼ねた[2]。
卒業後の陸軍内の出世においては、陸軍大学校卒業であるかどうか以上に、幼年学校卒業かどうかが実質的にも形式的にも問われるようになった。出身者による陸軍将校に占める割合も3分の1になった。予科士官学校においては、幼年学校出身者と、一般の中学出身者とは反目が激しく、幼年学校出身者は自分たちを、cadet・カデット(士官候補生の意)から「Cさん」と称し、中学出身者を、Cより劣るDという意味で「デーコロ」と侮称した。ころは、犬ころ のころであるテンプレート:要出典。逆に中学出身者は、幼年学校出身者を「ピーコロ」と軽蔑した。「cadet とはおこがましい、ただの pupil ではないか。」という意味で考案された侮称であるテンプレート:要出典。
1920年(大正9年)、陸軍幼年学校令が制定され、同年8月10日、陸軍中央幼年学校本科を陸軍士官学校予科に、陸軍中央幼年学校予科を東京陸軍幼年学校に、陸軍地方幼年学校は陸軍幼年学校とそれぞれ改称された。しかし、1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約に代表される世界的軍縮傾向のなか、同年、大阪校が廃止された。続いて1923年(大正12年)名古屋幼年学校、1924年(大正13年)仙台校、1925年(大正14年)広島幼年学校、1926年(大正15年)熊本幼年学校が順次廃止され、東京の陸軍幼年学校のみとなった。
1935年(昭和10年)3月27日に日本が国際連盟から正式脱退すると、翌1936年(昭和11年)には再び広島幼年学校が復活した。さらに1937年(昭和12年)には仙台幼年学校、1939年(昭和14年)には熊本幼年学校、1940年(昭和15年)には大阪幼年学校および名古屋幼年学校が順次復活した。大阪校は場所を楠木正成の居城近くの千代田村(現:河内長野市)に移し、1940年(皇紀2600年、昭和15年)4月1日に44期生150名が入校した。
太平洋戦争の敗戦に伴い、陸軍幼年学校は陸軍士官学校とともに廃止され、解散した。
歴代校長
- 陸軍幼年学校(第一次)
- 武田成章 大佐:1875年5月2日 -
- (兼)保科正敬 中佐:1875年9月7日 - 1877年1月13日廃止
- 陸軍幼年学校(第二次)
- 藤井包聡 工兵中佐:1887年6月 - 1889年6月3日
- (職務取扱)藤井包聡 工兵中佐:1889年6月11日 - 7月10日
- (心得)古川宣誉 工兵少佐:1889年7月10日 - 1889年11月2日
- 古川宣誉 工兵中佐:1889年11月2日 - 1890年8月25日
- 山内長人 歩兵中佐:1890年8月25日 - 1892年12月7日
- 佐々木直 歩兵中佐:1892年12月7日 -
- (兼・事務取扱)波多野毅 歩兵大佐:1894年9月13日 - 1895年8月10日
- 粟屋幹 歩兵中佐:1895年8月10日 - 1896年5月15日
- 陸軍中央幼年学校
- 粟屋幹 歩兵中佐:1896年5月15日 - 1896年9月25日
- 谷田文衛 歩兵中佐:1896年9月25日 -
- 伊崎良凞 歩兵中佐:1898年10月1日 -
- 小野安堯 砲兵大佐:1904年9月7日 -
- 竹内武 歩兵中佐:不詳 - 1906年3月9日
- 野口坤之 歩兵大佐:1906年3月9日 - 1908年3月18日
- 久能司 歩兵大佐:1908年3月18日 - 1910年11月30日
- 松浦寛威 歩兵大佐:1910年11月30日 - 1915年8月10日
- 岩崎初太郎 歩兵大佐:1915年8月10日 -
- 長谷川直敏 少将:1920年5月12日 - 8月10日(陸軍士官学校予科へ改組)
主な地方校長
- 橘周太 - 名古屋校長。歩兵第34連隊第1大隊長として、遼陽の戦いで戦死。
- 千田貞季 - 仙台校長。独立混成第2旅団長として、硫黄島の戦いにて戦死。
- 百武晴吉 - 広島校長。第17軍司令官 / ガダルカナル島の戦い参照。
- 阿南惟幾 - 東京校長。陸軍大臣。終戦の前日に陸相官邸で自刃、介錯を拒み、翌朝に絶命。
中途退学者
終戦時に在学中だった生徒
- いずみたく(作曲家)- 仙幼
- 加藤秀俊(評論家)- 仙幼
- なだいなだ(作家、精神科医)- 仙幼
- 西村京太郎(作家) - 東幼
- 加賀乙彦(作家) - 名幼
- 水島一也(学者)- 名幼
- 藤岡琢也(俳優) - 広幼
- 國分康孝(カウンセリングサイコロジスト) - 東幼
- 大原健士郎(大学教授) - 東幼
- 杉山邦博(NHKアナウンサー) - 熊幼
- 相倉久人(音楽評論家) - 東幼
脚注
関連項目
- 東京陸軍幼年学校
- 大阪陸軍幼年学校
- 熊本陸軍幼年学校
- 仙台陸軍幼年学校
- 名古屋陸軍幼年学校
- 広島陸軍幼年学校
- 陸軍士官学校 (日本)
- 陸軍大学校
- 自衛隊生徒・少年工科学校・陸上自衛隊高等工科学校
- 海軍兵学校予科 - いわば陸軍幼年学校の海軍版。終戦間近である1945年(昭和20年)4月に開校された。
- 海軍飛行予科練習生 - 海軍兵学校予科の航空機搭乗員養成機関の生徒。
- 沼津兵学校