遠山景晋
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遠山 景晋(とおやま かげくに / かげみち)は、江戸時代後期の江戸幕府の幕臣。永井直令の四男で、遠山景好の養子。通称は金四郎。左衛門尉は官職名。隠居後は楽土。
経歴
明和4年(1767年)12月遠山家と養子縁組、天明6年(1786年)閏10月遠山家を養子相続する。寛政元年(1789年)5月、榊原忠寛の娘と婚姻。寛政6年(1794年)、第2回昌平坂学問所の学問吟味に甲科筆頭で及第、同年、養父の実子(義弟)景善を養子に迎えた。
文化元年(1804年)のロシア船来航の際には、幕府の代表としてニコライ・レザノフと会談を行い、レザノフ事件のきっかけを作った。後に長崎奉行となり、江戸に戻った後は勘定奉行などを勤めた。文政年間の能吏として知られ、中川忠英、石川忠房と共に三傑と呼ばれた。
最も名を馳せているのは町奉行・遠山景元の父親としてである。もともと景晋の養子入りした遠山家は、明知遠山氏庶流の出で、あまり昇進とは縁のない家であったが、景晋は実家永井家がたどって来た出世ルートに乗り、後の景元が活躍する基礎を築いた。景晋は蝦夷地でロシア人との交渉の記録を松前奉行村垣定行とともに「西蝦夷日記」にまとめた。「国書総目録」には、他にも景晋の著作が14冊も挙げられている。
天保8年(1837年)に死去。法名は、静定院殿従五位下前金吾校尉光善楽土大居士。墓所は遠山家の菩提寺である本妙寺。学問を通じた交流があり、墓碑銘を撰した林述斎は、その碑文で景晋の功績を讃えた最後に、「急流勇退」の人物だと高く評価している。
江戸幕府役職履歴
- 天明7年(1787年)、小姓組番に就任。
- 寛政4年(1792年)、第1回昌平坂学問所の学問吟味に上役の薦めで参加。及第者の発表はなかったが、将軍徳川家斉が上覧するため答案を清書するよう命じられており、実質最高成績かそれに近かったと考えられる。
- 寛政6年(1794年)、第2回昌平坂学問所の学問吟味に甲科筆頭で及第。同じ甲科には大田南畝がおり、漢詩のやり取りなどの交流があった。
- 寛政11年2月10日(1799年3月15日)、西丸小姓組のまま蝦夷地御用を命じられ蝦夷地・幌泉まで検分。同年冬、蝦夷地御用を離れる。この時の紀行『未曾有之記』を著わす。
- 寛政12年1月25日(1800年2月18日)、西丸小姓組番頭松平図書頭忠命組衆から十三番徒頭に異動。時に金四郎を称す。
- 享和2年3月17日(1802年4月19日)、徒頭から目付に異動。在職中、金四郎から左衛門に改称する。
- 文化元年(1804年)12月、ロシア船来航につき長崎に出張御用。
- 文化4年6月3日(1807年7月8日)、異国船来航により蝦夷地へ出張御用。同日、従五位下に叙し左衛門少尉に任官。
- 文化9年2月17日(1812年3月29日)、目付から長崎奉行に異動。
- 文化13年7月24日(1816年9月13日)、長崎奉行から作事奉行に異動。
- 文政2年9月24日(1819年11月11日)、作事奉行から勘定奉行・公事方に異動。
- 文政3年6月24日(1820年8月2日)、公事方から勝手方に異動。
- 文政12年2月7日(1829年3月11日)、勘定奉行を辞す。
備考
参考作品
- 夢暦長崎奉行 - NHK「金曜時代劇」ドラマ(1996年)。景晋が主人公(演:小林稔侍)。
- 歴史秘話ヒストリア 第21回「一件落着!?桜吹雪伝説」 - NHKの歴史情報番組 (2009年10月28日)。(演:南条好輝)。
参考資料
- 岡崎寛徳「遠山金四郎」講談社〈講談社現代新書〉、2008年 ISBN 4-06-287974-3テンプレート:Japanese-history-stub