多良間村
テンプレート:Infobox 多良間村(たらまそん)は宮古島と石垣島の中間に位置する多良間島と水納島を行政区画とする村。
目次
地理
- 主島の多良間島は、宮古島の西方約67km、石垣島の北東約35kmに位置する、平坦で楕円形をした島である。面積約20km²、最高点は島の北側にある八重山遠見台で32.8m。水納島は、多良間島の北方12kmに浮かぶ東西約2.5km、南北約1km、面積約2.5km²の島。
- 中心的産業はサトウキビなどの農業。
- 2005年(平成17年)10月、城辺町・下地町・伊良部町・上野村が宮古郡から離脱し、平良市と合併して宮古島市となったため、宮古郡は多良間村1村のみとなった。
字
- 塩川(しおかわ)
- 仲筋(なかすじ)
- 水納(みんな)
人口
歴史
- 15世紀末に土原春源が多良間島統一。
- その後、土原豊見親の子孫による統治が17世紀初めまで続く。
- 1768年 - 宮古の特別行政区とされた。
- 1771年 - 明和の大津波。多良間島は3324人の住民のうち362人の死者を出した。
- 1855年 - アコーメー事件が起きる。役人の横暴を王府に訴えたもの。
- 1859年 - 岩手県宮古市の難破船が流れ着き、これを保護した。このことから現在宮古市と姉妹都市提携をしている。
- 1879年(明治12年) - 琉球藩を廃止し沖縄県を置く。宮古島庁が設置され、宮古島庁の下に仲筋村、塩川村、水納村が置かれる。
- 1908年(明治41年) - 宮古には平良、下地、城辺、伊良部の4村が置かれ、多良間は平良村の一部となる。
- 1913年(大正2年) - 平良村から分村し、多良間村となる。
- 1931年(昭和6年)8月 - 台風のため校舎2棟が全半壊。
- 1932年(昭和7年) - 多良間郵便局が営業を開始する。
- 1964年(昭和39年) - 電気事業が始まる。
- 1967年(昭和42年) - 南西航空の運航が始まる。
- 1972年(昭和47年) - 沖縄航空の6人乗りエアタクシーの運航が始まる。
- 1973年(昭和48年) - 簡易水道が給水を開始する。
- 1973年(昭和48年) - 村章を制定する。[1]
- 1974年(昭和49年) - 南西航空の19人乗りが運航を開始する。
- 1976年(昭和51年) - 宮古製糖多良間工場が完成し操業を開始する。
- 2005年(平成17年)10月 - 中国海軍の原子力潜水艦が多良間島沖で領海を侵犯。
- 2010年(平成22年)
- 3月 - 村議会で「ヤシガニ(マクガン)保護条例を可決。沖縄最初のヤシガニ保護条例となる。
- 9月27日 - 日本で最も美しい村連合の総会で多良間村の加盟が承認された。
行政
- 村長:下地昌明
姉妹都市
- 岩手県宮古市
教育
小学校
中学校
幼稚園
児童福祉施設(保育所)
経済
日本郵政グループ
多良間村の郵便番号は「906-06xx」となっている。
- 日本郵便 多良間郵便局(塩川)
- ※ 2013年10月現在、郵便窓口は土曜日(休日の場合を除く)の午前中も開設。なお、局内設置のゆうちょ銀行ATMはホリデーサービスは実施されていない。
交通
道路
港湾
- 普天間港
- 前泊港
- 水納港
- 宮古島~多良間島間(多良間海運)1日1往復
空港
放送
ラジオ
- RBCiラジオ(RBCi)とラジオ沖縄(ROK)の民放AM2局、そしてNHKFM放送がそれぞれFM中継局が多良間島内に置かれている(民放AMは混信対策のためFMでの放送、NHKFMは石垣島北東部でも放送エリア)。NHKのAM放送は多良間島内に中継局がなく、宮古島(平良)中継局を受信。
- ラジオ中継局周波数一覧
所在地 | RBCi | ROK | NHKFM |
---|---|---|---|
多良間 | 82.2 | 83.6 | 86.2 |
- 周波数単位はMHZ、出力は民放AM3W、NHKFM30W。
テレビジョン
- テレビ中継局周波数一覧
所在地 (ID) |
総合 (1) |
教育 (2) |
RBC (3) |
OTV (8) |
QAB (5) |
---|---|---|---|---|---|
多良間 | 22 | 18 | 43 | 45 | 47 |
出身有名人
- 島袋脩 - 元プロバスケットボール選手(bjリーグ・大分ヒートデビルズ)
- 豊里実令
- 豊見城あずさ
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
祭事
スツウプナカ
スツウプナカは「節祭」を意味し、5月20日ころの「壬辰(みずのえたつ)」と「癸巳(みずのとみ)」の2日間にわたって行われる。豊年の感謝と豊穣を祈願する伝統祭祀である。祭場(シュニ)では、魚料理や神酒を供えて豊年を祈願する。古くから神々しい厳粛な祭りとして受け継がれてきた。
村には8つの字(あざ)があり、2字ずつが1つの祭祀集団を作り、4つの祭場で祭りを実施する。祭場は、仲筋字にナガシガー(土原区、宮良区)とフダヤー(天川区、津川区)、塩川字にパイドニ(大木区、吉川区)とアレーキ(嶺間区、大道区)がある。祭場ごとに、ウイピトゥ(老人)座(祭事の中心をになう係)、カンジン(幹人)座(幹事を担当)、プシャ座(神酒を作る係)、イム(海)座(供え物の魚を準備する係)、クバン(供番)座(料理を作る係)といった組織を持ち、村人はそのいずれかの「職」につき、それぞれの役割をこなすことで、滞りなく祭りが進行する。ニィリ(祭歌)もいくつかあり、長い歌は106番まである。ニィリにはウイグスクカンドヌやカデカリのウヤという人の業績を讃えたものもあるが、これは後に加えたものだといわれる。
漁を担当するイム座の男性たちは干潮時を見計らって、追い込み漁でイラブチャー、タマン、カワハギなど色彩豊かな魚を水揚げする。また、クバン座は、神様への供物・客(各ウタキの司、二才頭、村の要人)の弁当などを用意する。クバン座の男性たちは供え物やもてなしに使う魚料理の準備に大忙しで、イム座から運ばれた魚を慣れた手つきでさばき、刺身やかまぼこに調理するなどの作業に追われる。ブシャ座は、スツウプナカの数日前にミシュ(神酒)を仕込む。
祭の壬辰(みずのえたつ)の日が神ガウェ(神への祈願とおもてなし)、その翌日が人ガウェ(お客のもてなし)、その次の日がキダリ(神を送る)となる。
「アカツキヌニガイ(暁の願い)」は、1日目の夜から行われる。村内4つの祭場で、薄明かりの電球のもと男衆が芋や米を発酵させたミス(神酒)を角皿(ツヌザラ)に入れてまわし飲みされ、竜宮の神への感謝と祈願で酔いしれる。「ユノーレガ(豊年よ)、ヒヤ、ヤッカ、ヤッカ、ヤッカ」「ヒヤ ヤッカ ヤッカ」と囃したてる。
2日目は、ナガシガーから始まる。ナガシガーでは、昼から供物とミシュ(神酒)を捧げて祈りが始まる。その供物が客に振る舞われたあと、ミシュを飲んでヤッカヤッカが始まる。一番ブシャ2人のうち2人は、ミシュを入れたバタスを、もう一人は盆に載せたツヌジャラ(お椀の左右に取っ手がついたもの)を持って来て、神様に祈ったあと、司から順に囃していく。
囃子は「ウヤキツヌジャラヲ ピャーシバドゥユヤナウリ(見事な角皿を持って囃せば豊作になる」ということばで始まる。次に2番ブシャがユナウスジャラ(大きめのお椀)で同じように囃してまわる。全体が終わって弁当をいただいた客は、司を先頭に次のフダヤーへと歩いて行く。各祭場で同じように繰り返し、フダヤー、パイジュニ、アレーキへと4祭場をめぐる頃には日が暮れる。70回以上も囃して立ったり座ったりを繰り返した客たちもこれで帰る。しかし、その後も夜通しミシュを飲むヤッカヤッカの祭りは続くのだ。
八月踊り
八月踊り豊年祭は、旧暦8月8日から3日間にわたって催される。かつては、「八月お願」「皆納祭」と呼ばれていた。この行事は、1637年に先島諸島で実施された人頭税によって苦しみを味わった人々が、神に人頭税をすべて納め終えたことを報告するとともに翌年の豊年を祈願することを年中行事としたことから始まったものと言われる。納税が終わる旧暦8月に、「八月御願」という祭事を各御嶽で行い、神前で奉納踊りをし、人々がこぞって祝い楽しみ、納税の苦しみをみずから慰めていたものであろう。現在の古典踊りや組踊りを踊るようになったのは、明治になってからのようである。
字塩川にあたる集落と、字仲筋にあたる集落にわかれて、2か所の踊り場で行われる。両字とも、それぞれの初日には、芸能を上演する前に、御獄(うたき)にその年の豊作を感謝し、来年の豊作を祈願する。仲筋は多良間神社・運城(うんぐすく)御獄・泊(とまり)御獄に、塩川は嶺間(みねま)御獄・塩川御獄・普天間(ふてんま)御獄に参拝する。
祭の初日は仲筋の土原御願所(ンタバルウガンジュ)で、2日目は塩川のピトマタ御願所で芸能上演がある。3日目は「ワカレ」と言って、両字の御願所で演じる。
名所・旧跡
湧水
昔は、飲み水を得ることが大切な仕事だった。多良間に水道設備ができたのは昭和の初めで、それまでは、自然洞穴の内にある泉が生活のための水源地になっていた。洞穴の入口から泉まで下っていく。奥に行くにしたがって暗くなるので、足で探って水を汲んだという。
- アマガー
- シュガーガー
- ナガシガー
- フシャトゥガー
御獄
御獄(うたき)は沖縄固有の信仰。部落を守る祖先神(守護神)が宿る神聖な場所で、拝所(うがんじゅ)になっている。沖縄には仏教も神道もなく、その代わり精霊信仰と先祖信仰が深く信じられ、儀式・行事化されていた。
- 嶺間御獄
嶺間御獄(みねまうたき)は字塩川嶺間区の北方に隣接した小高い丘にあり、嶺間按司(みねまあじ)を祭る。嶺間御獄の祭神である嶺間按司は、成化年間(1470年頃)の人で、多良間島を統一した土原豊見親春源はまだ出現していなかった。
按司は「キムンデバティビキ、ティンデバキムピキ」物語りの教訓を残したと伝えられる。遺漏説伝(球陽外巻)に、兼城間切糸満村のこととして、幸地村の美殿なる者と倭人(薩摩人)との問答に「心怒れば則ち手を動かす勿れ、手動けば則ち当に戒心すべし」とあり、嶺間按司の物語りとどちらが古いか定かでない。
按司はまた、「神なしぎ祭」といわれる「神名遊び」の伝授でも名高い人物である。白装束で男20人、女10人が13年廻りの子、丑、寅に当たる毎に10月中に13昼夜にわたり神歌を高唱して神眞似遊びをするものであった。この「神名遊び」は現在ではその面影もとどめていないが、中世まで行われていたと「宮古史伝」に記されている。
按司は嶺間丘(ツヅ)に起居し、境内の北よりにあるミネマガー(泉)を整備して住民の飲料水に供したり、神名遊びを伝授するなど人心教化に努めた功績は著大であった。(多良間村教育委員会が1991年(平成3年)3月に設置した解説板を転記したもの)
東隣りには、嶺間公民館がある。
- 泊御獄
- 塩川御獄
- 普天間御獄
- 泊御獄
運城御獄(うんぐすくうたき)の神名を「オトガフセライ神ニフセライ」と唱える。300年前の創設。
- 水納御嶽
もと集落があった地区の北方、小高い丘にある。15世紀後半に水納島を統治したミンナペーユヌスを祭る。島のすべての年中行事の中心で、島の繁栄や航海安全などを祈る拝所であった。
- 多良間神社
2007年(平成19年)4月、多良間村の宮古遠見、八重山遠見、水納遠見のほか、宮古島・八重山諸島の10の遠見番所(火番盛)が、文部科学省の史跡文化財指定を受けた。宮古島で指定を受けたのは平良地区の池間遠見・狩俣遠見・島尻遠見、城辺地区の砂川遠見(トゥンカイフツイス)、下地地区の来間遠見であった。この他、八重山諸島の10の遠見番所も指定を受けた。いずれも良好な状態で遺構が残されていることから、国の史跡としての十分な価値があると判断された。遠見番所は、1638年(寛永15)に長崎港外に設置されたのが始まりとされ、異国船の侵入を監視するためのものだった。火をたいて警戒したことから、火番盛とも呼ばれた。琉球における遠見番制度は1644年が始まりで、宮古・八重山諸島はフィリピン・台湾に近接していることもあり特に重要視された。琉球諸島の最西端にあって中国に最も近く位置しながら、薩摩の支配を受け日本の鎖国体制の影響を受けざるを得なかった先島の歴史的な背景を物語る史跡である。遠見番所は、他にも航海の安全や王府への伝令など、重要な役割を果たした。
- 宮古遠見
- 八重山遠見
- 水納遠見
関連事項
脚注
- ↑ 図典 日本の市町村章 p240