北条仲時

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北条 仲時(ほうじょう なかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏一門。鎌倉幕府最後の六波羅探題北方である。普恩寺流で第13代執権である北条基時の子。普恩寺 仲時(ふおんじ なかとき)とも呼ばれる。

生涯

元徳2年(1330年)11月(7月21日)、鎌倉を発って上洛する[1]。12月27日、六波羅探題北方となる[1]

元弘元年(1331年)の元弘の乱で、挙兵して笠置山(京都府相楽郡笠置町)に篭城した後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流する[1]。さらに護良親王楠木正成らの追討・鎮圧を担当する[1]

元弘3年/正慶2年(1333年)5月、後醍醐の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められて落とされると、5月7日に六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇後伏見上皇花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国滋賀県)で野伏に襲われて時益は討死し、仲時は同国番場峠(滋賀県米原市)で再び野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺に至り天皇と上皇の玉輦を移した後に、本堂前で一族432人と共に自刃した[1]。享年28。この史実は、『増鏡』、『梅松論』、『太平記』に詳しく記載されている。天皇と上皇は道誉に保護されて京都へ戻された。蓮華寺には自刃した432人の五輪塔群がある。

脚注

註釈

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出典

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参考文献

書籍
史料
  • 『増鏡』
  • 『梅松論』
  • 『太平記』

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、p.551