マックス・プランク
マックス・プランク | ||||||||
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マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク(Max Karl Ernst Ludwig Planck, 1858年4月23日 - 1947年10月4日)はドイツの物理学者で量子論の創始者の一人である。「量子論の父」とも呼ばれている。科学の方法論に関して、エルンスト・マッハらの実証主義に対し、実在論的立場から激しい論争を繰り広げた。1918年にノーベル物理学賞を受賞。
生涯
キールに生まれた。少年時代、母親の影響から音楽、特にピアノ演奏に関しては特異な才能を示したが、音楽家を目指すことはなく、1874年に17歳でミュンヘン大学に進学した。専攻分野は数学であったが、次第に熱力学に傾倒していった。しかし当時の指導教官は、熱力学は既に確立した「終わった分野」であるとみなしており、プランクが熱力学分野に進むことに反対をした。このため、ベルリン大学に転学し、この分野の大家であるヘルマン・フォン・ヘルムホルツ、グスタフ・キルヒホフに師事し、1879年学位を取得した。その後、ミュンヘン大学講師(1880年)、キール大学教授(1885年)を歴任し、1889年にベルリン大学に移って1892年に同大学教授に就任、のち1913年に総長となる。また1894年にプロイセン科学アカデミー会員となり、1912年には同書記となっている。1909年にはコロンビア大学講師 (Ernest Kempton Adams Lecturer in Theoretical Physics) を務めている。
第一次世界大戦中の1914年10月、プランクは進化学者のエルンスト・ヘッケル、化学者のフリッツ・ハーバー、ヴィルヘルム・レントゲン、数学者のフェリックス・クラインらと共に、ドイツの戦争を支援する「世界文明への宣言」に署名した。この宣言によって、ハーバーらによる毒ガス開発といった、研究者による大量破壊兵器の開発や、戦後の1918年から1923年まで続いた連合国側研究者による研究者コミュニティからのドイツ人排除といった、国家間の対立の構図が研究者社会にまで及ぶことになった。
第一次世界大戦では、長男のカールを失っている。
1930年、カイザー・ヴィルヘルム研究所の所長に就任。
アドルフ・ヒトラーが政権をとった1933年以降、ユダヤ人に対する迫害が始まり、ハーバー、エルヴィン・シュレーディンガー、アルベルト・アインシュタインらが迫害、追放の憂き目をみた。これに対し、プランクはヒトラーに直接抗議を行ったが、事態を改善することはできなかった。
プランクはナチス政権下においても亡命はせず、ヴェルナー・ハイゼンベルクらと共にドイツに留まる道を選んだ。第二次世界大戦中のプランクは不遇であった。1943年にはベルリン空襲によって家を失い、妻と共にエルベ川畔のローゲッツに疎開した。また、1944年のヒトラー暗殺計画に加担した次男のエルヴィン (Erwin Planck) が翌年に処刑され、自身も「国賊の父」とされた。
第二次世界大戦後、彼を記念してカイザー・ヴィルヘルム研究所はマックス・プランク研究所と改名された。マックス・プランク研究所は21世紀に入っても物理学研究の一大中心地として、様々な画期的研究成果を挙げている。
業績
黒体から放射されるエネルギー(黒体放射)に関して、熱力学の理論シュテファン=ボルツマンの法則(またはヴィーンの変位則)から導かれる予測と実験的に求められた結果(レイリー・ジーンズの法則)との間に矛盾があることが知られていた。プランクは光のエネルギーが、ある最小単位の整数倍の値しか取ることが出来ないと仮定するとこの矛盾が解消されることを発見し、放射に関するプランクの法則(1900年)を導出した。またこの過程で得られた光の最小単位に関する定数(1899年)はプランク定数と名づけられ、物理学における基礎定数の一つとなった。
プランクが導いた結果は、後にアインシュタイン、ニールス・ボーアなどによって確立された量子力学の基礎となるものであった。この業績からプランクは“量子論の父”として知られており、ノーベル物理学賞(1918年)の受賞対象となった。
関連項目
- 前期量子論
- 相対性理論:プランクによる命名
- プランク時間
- プランク (人工衛星)