静岡県立掛川西高等学校
静岡県立掛川西高等学校(しずおかけんりつ かけがわにしこうとうがっこう)は、静岡県掛川市城西一丁目に所在する県立高等学校。
目次
設置学科
概要
1901年に静岡県立掛川中学校として開校した。通称は「西高(にしこう)」、「掛西(かけにし)」。
普通科、理数科ともに1時限50分授業である。普通科は月,水,木曜日は7時間目まで、火,金曜日は6時間目までだが、理数科は毎週火曜に7時間目の授業がある。英語は原則2週間木曜日に1度のweekly test、数学は原則毎週火曜日の確認テストが実施されており、国数英では週末課題が有る。理数科は数学の授業進度が普通科と比べて速く(普通科は理系クラスでも3年生で教科書の内容を1通り終えるのに対し、理数科は2年生で終える)、物理・化学・生物の3科目が全て必修となっている(普通科は文系クラスで理科総合Aと生物Iの2科目)。また12月から3月にかけて『理数科課題研究』を行っている。
掛川市の中心市街地にあり、校地に隣接して東に掛川城、北に国道1号、南に逆川がある。この中でも特に掛川城の麓に存在することは校歌にも歌われておりこの学校の大きな特徴のひとつであるが、中心市街地に3.7haの土地を占めていることから、移転論が出る事もある。
沿革
- 1877年 - 岡田良一郎が倉真村(現在の掛川市倉真)に私塾「冀北(きほく)学舎」を設立。
- 1880年 - 静岡県立掛川中学校として設立。岡田良一郎が校長を兼任。
- 1882年 - 佐野郡城東郡立掛川中学校となる。
- 1886年 - 中学校再編により浜松中学校と統合。掛川中学校廃止。
- 1901年 - 静岡県立掛川中学校として設立。開校式の行われた1901年6月1日を創立記念日とする。
- 1948年 - 学制改革により静岡県立掛川第一高等学校となる。
- 1949年 - 静岡県立掛川西高等学校と改称。男女共学となる。
- 1986年 - 理数科を設置。
交通
制服
- 男子
- 女子
- 冬は紺色のダブルのブレザー(裾短め)に同色の襞スカートを着用し、校章を左襟上方につける。靴下は紺ハイソックスである。シャツは白Yシャツ。夏は所定の白の上着に、冬と同様のスカートを着用。中間服として、シャツの上にクリーム色で右胸にワンポイント刺繍があるベストを着用。冬季は指定のベスト以外のベストやセーター等の着用も許可されるが、ブレザーを脱いだ際、シャツのみや指定のベスト以外の衣服(ジャージ含む)の着用は「風紀上の理由」として禁止されている。ブレザーの裾が短いため、中に着たベスト、セーターなどをすそからほとんどの女子生徒が出しているが、これも指導対象となる。
- 共通
- その他
- 男子の服装指導はそれほど厳しくないが、女子に対する指導は厳しい
部活動
- 音楽部
- 吹奏楽部
- 自然科学部
- 美術部
- 科学技術部
- 文芸部
- 演劇部
- ギター部
- 囲碁部
- 将棋部
- 食物研究部
- 英語部
- クイズ研究部
- パソコン部
- 茶華道部
- 野球部
- バレー部(男・女)
- サッカー部
- テニス部(男・女)
- 柔道部
- 剣道部
- 水泳部
- 陸上競技部
- 卓球部
- 弓道部
- バドミントン部
- バスケット部(男・女)
- アウトドア部
- 應援團指導部
- ダンス部
- ビリヤードサークル
- ソフトテニスクラブ
- 競技カルタサークル
- 社会文化研究会
以上4サークルは、平成19年度にメンバー募集を停止することが決定している。
甲子園出場
全国高等学校野球選手権大会
選抜高等学校野球大会
著名な卒業生
政治
- 足立篤郎(衆議院議員、農林大臣、科学技術庁長官)
- 柳澤伯夫(衆議院議員、自由民主党、元厚生労働大臣)
- 石川嘉延(前静岡県知事、第二東名自動車道建設促進期成同盟会会長、元自治省官僚)
- 太田順一(菊川市長)
- 黒田淳之助(旧小笠町長)
- 榛葉賀津也(参議院議員、民主党)
- 榛村純一(旧掛川市長)
- 戸塚九一郎(建設大臣、労働大臣、北海道開発庁長官)
- 松井三郎(掛川市市長)
経済
司法
軍事
- 松浦永次郎(海軍中将、戦艦金剛艦長)
文化
- 朝比奈豊(毎日新聞社代表取締役社長)
- 小澤祥司(環境ジャーナリスト)
- かまちよしろう(漫画家。『こにくらじいさん』などで知られる)
- 木曽美雪(元静岡放送アナウンサー)
- 窪川鶴次郎(文芸評論家、石川啄木研究者)
- 久保田真弓(元静岡朝日テレビアナウンサー)
- 清水真砂子(翻訳家、児童文学評論家。ゲド戦記の翻訳で知られる)
- 鈴木康一郎(福島テレビアナウンサー)
- 高木まみ子(女優)
- 高須沙知子(元NHK静岡キャスター)
- 高須基仁(写真集編集者)
- 所十三(漫画家。『疾風伝説 特攻の拓』(作画)、『名門!多古西応援団』など)
- 三戸岡道夫(作家、大日本報徳社副社長、旧協和銀行元副頭取)
- 望月正子(児童文学作家)
- 山川紘矢(翻訳家、作家)
学術
- 栗田子郎(千葉大学名誉教授、理学博士)
- 田辺昭三(考古学者)
- 角皆静男(北海道大学名誉教授、理学博士)
- 橋本梧郎(生物学者)
- 村松岐夫(学習院大学法学部教授、京都大学名誉教授、法学博士)
- 鷲山恭彦(東京学芸大学学長)
スポーツ
- 赤堀大智(プロ野球選手、横浜DeNAベイスターズ所属)
- 天野竹一(プロ野球選手)
- 荒川宗一(プロ野球選手)
- 鵜藤俊平(ベルリンオリンピック銀・銅メダリスト、競泳男子400m自由形)
- 大石直弘(プロ野球選手)
- 岡本教平(プロ野球選手)
- 鈴木寛樹(プロ野球選手(投手)、元横浜ベイスターズ)
- 西加南子(旧姓:伊藤加奈子(いとうかなこ)、アジア大会出場、2009年全日本自転車競技選手権大会エリート女子優勝(日本チャンピオン)、自転車ロードレース)
- 村松幸雄(プロ野球選手(投手)、名古屋軍(現中日ドラゴンズ))
- 山崎諭(東京六大学野球・東大投手 / 東大唯一の2位の時のエース)
- 山本篤(北京パラリンピック銀メダリスト、陸上男子走り幅跳び)
野球と応援団
野球の名門校であり、その応援にも力を入れている。
全校生徒が一丸となって応援団を結成するという考えから、例年、應援團指導部(通称エンダン)による熱血的な応援指導が行われている。特に一学期においては新入生に対する応援指導は厳しいが、この応援指導により結束感を高める狙いがあり、異なる中学校から進学した新入生たちのコミュニケーション形成にも役立っている。
応援の際には校名を「掛高」と称するが、同校の歴史上、「掛川高校」という名称を称したことは一度もない。対戦相手が「掛工」(静岡県立掛川工業高等学校)の場合は、例外的に「西高」と称している。
守備の際、本校のピッチャーがボールを投げた後「ストライク」(「アウト」)と叫ぶ応援パターンがあり、これが「ヤジ行為」との指摘を受けたため近年では公式試合において一部応援パターンの変更が見られる。
校歌
下記すべての曲は公式ホームページで聴くことができる。
- 静岡県立掛川西高等学校校歌
- 制定年:不詳(概ね1904年(明治37年)ごろとされている)
- 作詞:藤井金吾
- 作曲:不詳(塙福寿とする資料もある)
- 第一応援歌
- 制定年:不詳
- 作詞:不詳
- 作曲:不詳
- 野球の応援においては本校が敗北した際に斉唱する。ただし、次の高校の応援団との交代の支障になるため、最終試合で敗北した際にしか斉唱しない。
- 第二応援歌
- 制定年:1963年(昭和38年)
- 作詞:高橋昭夫
- 作曲:水谷直子
- 野球の応援においては本校が得点した際に斉唱する。
群馬県立沼田高等学校と、校歌が歌詞、曲ともに酷似している。掛川西高で国漢教師をしていた岩崎莞爾教諭がその後沼田高で校歌の制定に携わったためと伝えられている。
学校行事
学校祭
- 葛城祭(かつじょうさい)
- 文化の部(6月)
- いわゆる文化祭。2日間行われる。3年の各クラスが2年の内から企画を立案し(2年次から3年次のクラス替えは無い)、体験型アトラクションや自主制作映画等を一般入場者(内部生徒も視聴可)に披露する「クラス展」と、文化部の作品を展示した「文化部展」、体育館では吹奏楽部や音楽部、ギター部、應援團指導部の発表もある。また、1日目の展示終了後、本校の生徒対象の「中夜祭」がある。以前は2日目の展示終了後に行われていたが、そのときも文化の部と体育の部の間で行われるという意味から「中夜祭」と呼ばれていた。
- 体育の部(9月)
- いわゆる運動会。各学年1クラスを含む8つのグループで得点を争う。例年、優勝したグループには賞品が与えられる。
冀北講演会
当校の前身である冀北学舎の名を冠した講演会。年に一回、社会で活躍するOB、OGを招いて開かれる。演目は講演者に委ねられているため、年によって異なる。
過去の講演者
肩書きは講演時のもの。
- 平成19年度 - 鷲山恭彦(東京学芸大学学長)
- 平成20年度 - 村田繁(パシフィック野球連盟事務局長)
- 平成21年度 - 石川嘉延(前静岡県知事)
- (甲子園出場記念特別講演会) - 朝比奈豊(毎日新聞社社長)
掛西紛争
1969年、全国の安保闘争のあおりを受け、西高でも学園紛争が勃発した。生徒から逮捕者4名を出した「掛西紛争」である。
発端は、アジア太平洋閣僚会議(略称 “ASPAC”, 伊東市川奈で開催)の開催を阻止すべく1969年6月8日に行われた「ASPAC闘争」と呼ばれるデモ。
学校側は、このデモに参加した3年生8人に対する無期限の謹慎処分を決定。これに反発した生徒会長をはじめとする十余名の生徒らが「掛西反戦会議」を名乗り処分撤回を求め抗議行動を展開した。そしてこの抗議行動に外部の政治団体が加わるなどし、紛争の規模が急速に拡大。8月31日には若者ら300名と機動隊300名が衝突する騒ぎとなった。ただしこの騒ぎに参加した生徒はごく一部であり、ほとんどの生徒はこの動きを冷視していたと伝えられている。
掛西紛争は、高校生の活動が発端となって起こった学園紛争の希な例であり、大学生を中心に行われていた安保闘争が高校生に飛び火し拡大するのではと、当時全国から注目された。
参考文献
- 掛中掛西高百年史(2000年、「掛中掛西高百年史」編集部会、静岡新聞社)
- 軌跡の探求(平成2年度葛城祭実行委員会)