日本勧業銀行
日本勧業銀行(にほんかんぎょうぎんこう)はかつて存在した日本の特殊銀行、普通銀行。通称・勧銀(かんぎん)。統一金融機関コードは0007。
1971年に第一銀行と合併し第一勧業銀行となった。現在のみずほ銀行の前身の一つである。
概要
1896年(明治29年)、農工業の改良のための長期融資を目的に「日本勧業銀行法」(勧銀法)が制定され、翌年に政府を中心に設立された。東京に本店を置き、支店は大阪のみに限られ、それ以外の地域には北海道を除く各府県には事実上の子会社である農工銀行(勧業銀行法と同時に制定された「農工銀行法」に基づく)が設置され、勧銀への取り次ぎまたは勧銀と同等の業務を行った。なお、基幹産業(特に重化学工業)向けには別途日本興業銀行(興銀)が設置され、勧銀との棲み分けが行われた。また、北海道には勧銀や興銀の代わりに北海道拓殖銀行(拓銀)が設置された。
長期融資が基本であるため、預金が原資とは成り得ず、代わりに金融債の発行が認められ、かつ割増金付きの債券が唯一認められ、発行した(抽選を行い、当選番号の債券を持つ者に対しては割増金付きで償還された。農工銀行や興銀、拓銀も金融債を発行したが、割増金は認められていなかった)。
だが、農業に関する融資は個々の農家に対してではなく、事業や組合、担保能力のある地主を対象としたために全く融資が進まず、1911年(明治44年)の法律改正で商業に対する融資も解禁された。大正末期より市街地の不動産金融に乗り出す一方、業務の重複と機能低下を理由に1921年(大正10年)の法律改正(「勧・農合併法」ともいう)以後、各府県の農工銀行を悉く合併し店舗網を拡大した(このことが、後述のように現在のみずほ銀行が全国の県庁所在地に必ず支店を設置することになる嚆矢となっている)。また1923年(大正12年)に当時日本領であった台湾には台北州・台北市に台北支店が開設され、その後も五州の州庁所在地高雄・台中・台南・新竹に支店を次々と開設した[1]。割増金付き金融債の発行実績が認められ、太平洋戦争中の割増金付き戦時債券の幹事銀行となるが、やがてこの債券は射幸性が高くなり終戦直前には「勝札」と言う名の富籤となり、これが現在の「宝くじ」に繋がる。戦後は福徳定期預金(割増金付きの定期預金)の幹事銀行にもなる。
戦後の1950年に勧銀法が廃止され、特殊銀行から民間の普通銀行に転換[2]。さらに長短分離政策に伴い拓銀と共に普通銀行の道を選択することとなり[3]、金融債の発行を打ち切って都市銀行の一角となる。
以降はシンボルをバラの花、コーポレートカラーをローズレッドと定め、漫画家・岡部冬彦がデザインしたオリジナルキャラクター「のばらちゃん」やイメージキャラクターに抜擢された女優の山東昭子(現・自民党参議院議員)が店頭や広告媒体などに登場。「ばらの勧銀」のキャッチコピーを採用して大衆化に努めた。法人部門では、融資系列で財閥色の薄いフコク生命や日産火災、日立製作所を交えて勧銀十五社会を結成。また、戦時債券の名残で、戦後「宝くじ」の業務を受託していた。
宝くじ業務の関係や、大正時代に全国各地にあった農工銀行からの事業譲渡や農工銀行の吸収合併に伴う受け皿支店の開設などの理由により、全国都道府県庁所在地に必ず一店舗は存在した[4]。他の都市銀行とは異なり、かつてあった、都市銀行の出店規制[5]があったが、都道府県庁所在地名の支店は廃止の対象にならなかった。むしろ、他の都市銀行の地方支店の廃止の際には受け皿となっているケースがある(1960年代後半の旧富士銀行の秋田[6]、福井、鳥取、松江支店など。逆に、当行の釧路、帯広、旭川、函館[7]、平各支店等を富士銀行に営業譲渡していた[8])。
勧銀末期における地方部での出店は上記経緯から店舗数が多かった反面、在京行としては首都圏での出店は手薄であり、全体の4割弱と当時の関西系上位行とほぼ同等の店舗数の留まっていた。
初代勧銀本店は1926年、京成電気軌道(現京成電鉄)に売却され、「谷津遊園楽天府」として阪東妻三郎プロダクションが使用した。その後千葉市に移管、千葉市役所庁舎を経て、現在は千葉トヨペット本社となっている[1]。登録有形文化財である。また、内幸町の本店も、第一勧銀発足後の10年間を除き、引き継がれ2度の建て直しを経て、現在はみずほ銀行内幸町本部ビルとなっている。
沿革
- 1897年(明治30)7月 - 株式会社日本勧業銀行設立。日本勧業銀行法(勧銀法)による特殊銀行として開業。
- 1899年(明治32) - 妻木頼黄、武田五一設計による新社屋落成。
- 1921年(大正10)9月 - 山梨・佐賀県両農工銀行を合併。以降全国各地の農工銀行を統合(1944年(昭和19)完了)。
- 1950年(昭和25)5月 - 勧銀法廃止に伴い、民間の普通銀行に転換。
- 1952年(昭和27年)11月 - 金融債の発行を停止し預金主体の都市銀行に転換。
- 1971年(昭和46)10月 - 株式会社第一銀行(1873年創業)と合併し、株式会社第一勧業銀行に商号変更。
歴代総裁
- 河島醇:1897年6月14日 - 1899年4月11日
- 高橋新吉:1899年10月24日 - 1909年10月23日
- 山本達雄:1909年11月29日 - 1911年8月30日
- 志村源太郎:1911年12月27日 - 1922年10月7日
- 梶原仲治:1922年10月7日 - 1927年10月6日
- 馬場鍈一:1927年10月7日 - 1936年3月9日
- 石井光雄:1936年3月12日 - 1941年3月11日
- 西野元:1941年3月12日 - 1946年3月11日
- 西田太郎:1946年3月12日 - 1950年3月31日
出身者
- 横田郁 - 1933年入行、日本勧業銀行最後の頭取、第一勧業銀行初代頭取
- 羽倉信也 - 1941年入行、元第一勧業銀行頭取
- 三田村俊文 - 1960年入行、福邦銀行会長
- 叶内紀雄 - 1963年入行、元殖産銀行頭取
- 中島久彰 - 1963年入行、元第一勧業銀行専務取締役、元日本土地建物社長
- 井手和英 - 1964年入行、元第一勧業銀行常務取締役、筑邦銀行頭取・会長
- 青柳一彦 - 1965年入行、元第一勧業銀行本店審議役、元兼松日産農林社長
- 竹田駿輔 - 1965年入行、元株式会社大京取締役兼代表執行役会長
- 杉田力之 - 1966年入行、元第一勧業銀行会長兼頭取、みずほホールディングス社長
- 神田紘爾(小椋佳) - 1966年入行、元第一勧業銀行浜松支店長、シンガーソングライター
- 上原征彦 - 1968年入行、明治大学教授
- 上埜進 - 1969年入行、President of Asia-Pacific Management Accounting Association、 日本管理会計学会副会長
- 小谷野俊夫 - 1969年入行、静岡県立大学教授
- 古市宏幸 - 1970年入行、元第一勧業銀行銀座支店長、元株式会社ヤナセ社長
- 小嶋善吉 - 1971年入行、元静岡県議、初代静岡市長(旧静岡市の最後の市長)
- 佐藤清一郎 - 1971年入行、元みずほコーポレート銀行常務執行役員、筑邦銀行頭取
- 杉山清次 - 1971年入行、みずほフィナンシャルグループ初代副社長、元みずほ銀行頭取・会長
脚注
- ↑ 戦後は台湾に進駐した中国国民党が接収し、台湾土地銀行となった。
- ↑ この時、興銀との合併話(興勧合同)が取り沙汰されるが、引き続き長期金融を中心とした銀行を志向した興銀と、短期金融を中心とした都市銀行への鞍替えを志向した勧銀とで方向性が合わず、立ち消えになる。
- ↑ この時、同じ特殊銀行だった興銀は長期信用銀行の道を選択。また勧銀と拓銀の長期信用銀行部門は日本長期信用銀行に引き継がれた。
- ↑ ただし、農工銀行に相当する業務を行っていた北海道拓殖銀行の本店のあった札幌市の場合は、別の理由で設置されている。宝くじ関連は、戦後に入ってからの話であり、県庁所在地以外の政令指定都市の支店という点ではほぼ的を射ているが、県庁所在地名支店については、宝くじ以前の問題である。
- ↑ 新規に出店する場合それとほぼ同数の支店を廃止しなければならない
- ↑ 富士銀秋田支店廃止の理由は、道内強化のための既存支店整理の一環とされる。
- ↑ 旧第一勧銀函館支店は第一銀行を前身とする。
- ↑ その後富士銀行とは、2002年にみずほ銀行として合流することとなるが、それらの店舗は当然ながらであるがいずれの店舗も旧一勧店(赤みずほ)として営業していた(逆も同様)。
関連項目
外部リンク
- 旧日本勧業銀行の建造物