黄長ヨプ
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黄長燁(ファン・ジャンヨプ、1923年2月7日 - 2010年10月9日[1])は、朝鮮民主主義人民共和国の思想家でチュチェ思想(主体思想)の理論家、政治家。元朝鮮労働党書記。韓国に在住していた脱北者。
来歴
咸鏡道出身とも平壌出身とも言われる。地主の家庭に生まれ、平壌と東京で学んだ。戦前に、日本の中央大学法学部で学んでいた事もあり教養のある日本語を話すことができ、北朝鮮在住時から度々日本のメディアのインタビューに日本語で応じていた。大学は2年次で中退し、平壌に帰ってからは母校である平壌商業学校の数学と珠算の教師をしていた。
1949年、ソ連(現在のロシア)のモスクワ大学へ留学し哲学博士号を取得する。帰国後は金日成総合大学で教鞭を執り、1965年同大学総長に就任。1970年には朝鮮労働党中央委員会委員に就任し、その後要職を歴任する。この時期には金日成の側近であり、金日成のゴーストライターとも言われた。
学者としても活発に活動し、諸外国に研究サークルを設立してチュチェ思想の普及に努めた。
金日成総合大学総長時代
封建主義から共産主義に至る北朝鮮の発展段階で、黄長燁の考えは金日成と違っていた。黄はマルクス・レーニン主義の社会発展論から「資本・社会両主義の過渡期を経過する必要がある」と主張したが、その過渡期を不要とする金日成から「資本・日和見両主義者」と睨まれた。これに対し金正日は「黄長燁は主体思想の体系化に必要な人材」と父を取り成して事なきを得た。
亡命
1997年、チュチェ思想に関する講演のため訪日した直後、帰路の中国の北京で秘書の金徳弘(キム・ドッコン。朝鮮労働党中央委員会資料研究室副室長)と共に韓国大使館に赴き亡命を申請する。
亡命理由について、黄長燁は手記で祖国の体制に義憤を覚え、その変革を図る為と述べている。但し、黄長燁は共産党体制よりも一歩進めた独裁化の為のイデオロギー的な整備を行った当事者でもある。この事から国内での権力闘争に敗れたため保身を図って亡命したのだとも言われている。また、在中国朝鮮人の女性との不倫関係により立場が悪化した為とも言われる。いずれにしても亡命の動機の真偽は定かではない。
黄長燁の亡命の前後には、北朝鮮当局が公式プロパガンダにおいて「チュチェ思想」の語を出す頻度を減らし「赤旗思想」の語を登場させたことが観察されている。この事から、北朝鮮当局が「チュチェ思想」(自主自立路線)を撤回する必要に迫られていることが疑われた。しかし、「赤旗思想」の語は程無くして消えた。
黄長燁ほどの高官が亡命するということは金正日体制が極めて不安定であるとの印象を海外の観察者に与えた。日本では現代コリア研究所の関係者を中心に一部では政権崩壊寸前との憶測を飛ばす者がいた。
なお、この亡命を受けて金総書記は同氏の親族3000人を一斉検挙し、強制労働収容所に収監した[2]。
亡命後
黄は亡命後、ソウルを拠点に文筆業、評論家業を営みつつ、アメリカ合衆国を中心に金正日政権打倒を掲げて活動した。
2004年2月にはソウルにある支援者の事務所に赤ペンキで汚された黄長燁の写真が脅迫文と一緒に置かれるという事件があった。黄は亡命から死去までの間ずっと、ソウル市内にある自宅の住所を徹底的に秘匿していた上、常に国家情報院職員と警察官によるボディガードを受けながら活動しており、襲撃は事実上不可能だった。その代わりに、こうして支援者が攻撃の対象とされたのである。
2006年12月21日には黄が会長を務める自由北韓放送の事務所に「残されたのは死だけだ」という内容の脅迫文と赤い絵の具が塗られた黄の写真、斧などが入った小包が送りつけられる事件が起きた。2008年9月27日には左翼系学生団体である韓国大学総学生会連合出身の運動家がこの事件の犯人として警察に検挙されており、また南北共同宣言実践連帯の事務室に対する家宅捜索でも脅迫と関連した文書が発見されている[3]。
2007年4月には警察の南北共同宣言実践連帯に対する家宅捜索では黄に対する「北朝鮮とは関連がないように」「処断と膺懲」などと記載された脅迫メモが発見された。
黄は現在の北朝鮮とチュチェ思想の関係について「本来のチュチェ思想はマルクス・レーニン主義を北朝鮮の実情に合わせて朝鮮民族が主体的に革命運動を担う為のもの。金日成らの個人崇拝などは全く含んでおらず、完全に歪められている」と日本のニュース番組のインタビューで語っている。
2009年6月23日には、CBSノーカットニュースにて、黄の家族3人が北朝鮮を脱出して第3国に滞留していると報じられた[4]。
2010年4月4日から8日にかけてに日本を訪問。亡命直前の1997年以来13年ぶりとなった[5]。
同年4月20日、韓国の警察当局は潜入していた北朝鮮の朝鮮人民軍偵察総局のスパイ2名の逮捕を発表した。供述によれば黄の暗殺が目的であったという。
同年10月10日、ソウル市内の自宅(江南区論硯洞72-10[6])の浴室で死亡した状態で発見された[7]。テンプレート:没年齢。遺体の第一発見者は、ボディガードとして黄の自宅を警備中の警察官であった。毎朝5時から7時の間に半身浴をするのが日課だったという。
同年10月19日、ソウル地方警察庁は黄が10月9日午後に半身浴をしている最中に心臓疾患で死亡したとみられると発表した[1]。
10月12日には韓国政府により無窮花章(国民勲章1等級)が贈られ、同14日、大田(テジョン)国立顕忠院に埋葬された[8]。
遺作詩
事実上の遺書として、告別式で黄の遺作詩が公開された。以下は、これを日本語訳したものである。
「離別」
退屈な夜は去り、空が明るくなりはじめたのに、地平線の黒い雲は近づき来る。
永遠な夜の使いが訪れる。
別れを告げる時間だと。
永別の時間だと。
むなしい歳月との別れは、惜しくはないけれど、明るい未来を見ようとする弱さを慰める術はなく。
愛する人々を、どうすればいいのか。
背負って歩いて来た荷を、誰に任せて行くのか。
慣れ親しんだ山河と引き裂かれた民族は、またどのようにして。
時は過ぎ去り、残されたのは最期の瞬間だけ。
遺恨なく、最善尽くし奉じよう。
人生を包んでくれた祖国の、尊い志をかみしめながら。
著作
- 『金正日への宣戦布告 黄長燁回顧録』(文芸春秋 1999年、文春文庫 2001年)
- 『北朝鮮崩壊へのシナリオ』(河出書房 2003年)
- 『金正日を告発する 黄長燁が語る朝鮮半島の実相』(産経新聞出版 2008年)
栄典
- 韓国国民勲章無窮花章(2010年)
脚注
- ↑ 1.0 1.1 黄長ヨプ氏は発見前日に心臓疾患で死亡、警察が推定 聯合ニュース
- ↑ 【オピニオン】世界で最も抑圧された国(WSJ日本語版 2011/12/21)
- ↑ ファン・ジャンヨプ氏を脅迫、容疑者を検挙(朝鮮日報 2008/09/29)
- ↑ 「黄長燁元労働党秘書の家族3人が脱北…第3国に滞留中」 中央日報 2009.06.23
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 中央日報2010年10月11日
- ↑ 産経ニュース2010年10月10日
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