北部同盟 (イタリア)
テンプレート:政党 北部同盟(ほくぶどうめい、イタリア語:Lega Nord、略称:LN)は、イタリアの政党。党首はウンベルト・ボッシ。工業地帯が密集し経済的に優越しているイタリア北部の自治拡大を主張する地域政党。
過激な言動や文化的保守性、反共主義、反移民運動などから極右と認識されることが多いが、政治的目標は労働者の保護と地方分権(かつては「究極の分権」として独立も視野に入れたが、パダーニア事件の不発から現在は連邦制を最終目標に掲げている)にあることから、左翼政党という見方もある[1]。近年はイタリア人労働者の職を奪っている外国人移民の排斥に軸を移している。
目次
年表
- 1989年
- 6月15日 - 1989年欧州議会議員選挙で複数の地方政党が選挙連合「北部の国民」を結成。
- 1991年
- 2月15日 - 「北部の国民」を基盤にした国内政党「北部同盟」が成立。
- 1992年
- 4月5日 - 第11回総選挙で下院55議席・上院25議席を獲得して躍進する。
- 1994年
- 1995年
- 1月17日 - 政府の分権政策に不満を表明して連立離脱、第一次ベルルスコーニ内閣総辞職。
- 1996年
- 1998年
- ? - ヴェネツィア共和国運動が北部同盟を離脱。
- 1999年
- 2001年
- 5月13日 - 第14回総選挙で右派連合「自由の家」に参加。下院30議席・上院17議席に留まり、全体議席の5%程度に大幅後退。
- 6月11日 - 第二次ベルルスコーニ内閣成立。
- 2006年
- 2008年
- 2012年
- 2013年
- 2月26日 - 第16回総選挙で右派連合「中道右派連合」に参加。下院18議席・上院18議席に大幅後退。下院においては結党以来の最低議席となる。
党史
背景
イタリアの経済は二度の世界大戦以来、復興期に工業化が進められたイタリア北部・中部の経済と、依然として自作農中心であるイタリア南部の経済とが著しく乖離(かいり)した状態が続いており、財政上、北部と中部の経済が南部の経済を支える形になっている。こうした状況を打開するべく、イタリア政府は南部も北部同様の工業地帯にしようと開発計画(バノーニ計画)を進め、多くの国営企業を誘致した。こうした行為は南部の工業化に一定の成果はもたらしたが、機械化された国営企業の誘致はインテリ層の職域を増やしただけで、肝心の大多数を占める農民達に職を与える効果はなく、経済的にも税金に頼る非効率な国営企業は南部経済の政府資金への従属を一層に深めてしまった。また第二次世界大戦中の連合国軍への協力や、戦後の混乱期を利用して勢力を伸ばしたマフィアは南部に強大な勢力を構築しており、企業誘致やインフラ整備に捻出(ねんしゅつ)された資金はこれらマフィアに吸い上げられ、南部経済の発展には寄与しないケースも散見された。
それでも国家機能の分担や、北部への公共投資(南部開発には北イタリアの民間企業が多数加わっていた)としての効果から、バノーニ計画を手本にした政策はその後も続けられた。だがイタリアの経済全体が悪化し始めると、南部は無論、北部でも失業や賃金低下が広がり、次第に「北部住民は南部住民をこれ以上養うことはできない」という反感が募っていった。実際にはイタリア経済の失墜は北欧に匹敵するとも言われた福祉政策の偏りによるもので必ずしも南部開発が原因ではなかったが[2]、同時期に発生した大規模なマフィアと政界の癒着事件(タンジェントポリ)の影響で南部は悪感情で見られがちであった。
結党経緯
北部同盟の最も主要な前身政党はヴェネツィア同盟で、同党は1983年の総選挙で初めて地方政党として国会議席を獲得した政党であった。それに続くのが1987年に書記長ウンベルト・ボッシを国政に送り出したロンバルディア同盟であり、両党は欧州議会選挙で選挙連合「北部の国民」を結み、1991年に発展的に解消させる形で北部同盟が結党された[3][4][5]。
北部同盟は税金を中央政府に集めてから地方経済に見合わせて再分配する財源制度を「ローマ・ルンファルド」(Roma ladrona、ローマの政府は大泥棒だの意)と呼び、戦後イタリアの集権制の象徴として厳しく批判した[6]。また貧しい南部からの国内移民(出稼ぎ労働者)、国外からの外国人移民が北部の富を奪っているとも主張された。従来の地方主義者の票だけでなく、タンジェントポリで既存の右翼・左翼の大政党に失望していた労働者層の一部は北部同盟を支持して、同盟結成は成功を収めた[4][5] 。1992年の総選挙で北部同盟はほぼ無名の状態から一挙に56名の下院議員と17名の上院議員を獲得して、政界再編の中心となった[7]。地方政界でも1993年のミラノ市長選挙で党内左派に属するマルコ・フォルメンティーニが当選を果たした[8]。
パダーニア事件
1994年の総選挙で北部同盟は同じく既存政党の票をさらって躍進したベルルスコーニのフォルツァ・イタリアが主導する右派連合「自由の極」に加わって選挙を戦い、ジャンフランコ・フィーニの国民同盟(旧ネオ・ファシスト党)や キリスト教中道民主連合らと共に第一次ベルルスコーニ内閣を樹立した。しかしその背後で選挙戦そのものは苦戦を強いられており、労働者層の多くがキリスト教民主主義を主張したフォルツァ・イタリア党に投票したことで、得票率は以前より後退してしまっていた。しかし選挙区の幾つかの投票区構造などから、得票率から見れば過大な議席数を得て存在感を発揮することができた[9]。政権でも下院議長や、5つの大臣職(副首相・工業大臣・経済大臣・欧州議会担当大臣・行政改革担当大臣)を与える厚遇だったが、友好関係は長く続かなかった。
1995年1月、ボッシは連立政権の分権政策が不十分であると表明、野党第一党である左翼民主主義者党(旧・イタリア共産党、現・イタリア民主党の前身)による内閣不信任案に賛成票を投じて造反した。しかし党内では予想以上にボッシの路線に反発があり、多くの穏健派分権主義者が北部同盟を離脱してイタリア連邦党を樹立、後にフォルツァ・イタリアへ合流した。党内には左派グループのみが残る形となり党勢衰退を危惧する声が起こったが、ボッシは分権主義に理解を示す左派連合「オリーブの木」と結びついて幾つかの地方選挙を戦っている。右派連合離脱後、命運を決める事となる1996年の総選挙で北部同盟は議席数を下院議員59名・上院議員27名と躍進を遂げ、ボッシら強硬な自治を説く党内左派が一定の力を維持する形になった[10]。従って党内意見は過激な言説が通るようになっていき、最終的に北部同盟は「中央政府が即時連邦制に移行しないなら、北部のみで連邦制の新国家を樹立する」と宣言した(パダーニア構想)。そして政府がこれを黙殺すると「パダーニア連邦政府」の樹立を宣言して対決姿勢を強めたが、国連や国連加盟国にこれを承認する国は一切現れず、国際法上は無効行為と見なされた。
1996年から1998年はこうした過激な行動も相まって北部同盟が最も注目を集めた時代となったが、元から複数の地方主義の寄り合いである北部同盟内では対立が絶えなかった。1998年には主要前身政党であったヴェネツィア共和国運動が北部同盟からの離脱を宣言し、それ以外にも多数の幹部党員がボッシの強硬路線を拒絶して離党していった。1999年、党内外の批判からボッシは事実上、パダーニア構想を無期限で凍結して、連邦制によるイタリアという枠組みでの地方分権へと再び回帰する道をとった。だがこうした一貫性のない行動はますます党内の混乱に拍車をかけ、更に北部同盟の議員・党員の離脱を生み出した。同年に行われた欧州議会選挙で北部同盟は敗北して議席を減らし、勢いに陰りが見えていることを印象付けた。
党内改革
ボッシは焦りから右派連合に対する和解すら模索し、かつて党機関紙で「ベルルスコーニはマフィア」と罵倒して政治問題となった[11]にも関わらず、かつて裏切ったベルルスコーニの政党連合「自由の家」に再び加わって総選挙を戦う選択をした。2001年の総選挙で北部同盟は穏健派・強硬派の双方から愛想を尽かされ、上院得票率に至っては3.9%にまで急落して大幅に議席を減らした。同年のフォルツァ・イタリア党が29.4%、国民同盟が12.0%を獲得した事を考えれば、右派連合で大きく存在感を失ってしまった。ボッシが脳卒中により危篤状態に陥ると、ボッシの指導力に依存していた同盟の崩壊を噂する声は決して少なくなかった。だが結果的に同盟はボッシ不在中も分裂することなく、政権の一角に加わり続けた。連立内では極右である国民同盟と対抗して、フォルツァ・イタリアと連合する姿勢を見せ[12]、ベルルスコーニも与党第二党である国民同盟への牽制としてこれを活用した。
元より北部同盟は北部経済を北部住民だけで分配し、北部の労働者の職を守ることを行動原理としてきた。ゆえに、北部経済の負担となる南部(あるいはその経済)への攻撃を主張していたのだが、近年では南部への補助金よりも外国人移民が安価な労働力として雇用されることの方が北部の人間にとって深刻な労働問題となりつつある。この流れから、北部同盟党もその批判の矛先を次第に南部経済から移民へと変え始めている。党首ボッシのサッカー・フランス代表に対する暴言(「黒人、イスラーム教徒、共産主義者のチームに勝った」)を初めとして、移民排斥に関する発言が取りざたされることも増加し、2002年7月にはEU圏外からの移民に指紋押捺を課す「移民対策法」を成立させている。
上述した「南部経済への批判」から「外国人移民への排斥」へと軸を移し始めた北部同盟は、ボッシの復帰も相まって、2008年の総選挙において大幅に議席数を増やす大躍進を見せ、パダーニア事件以来低迷が続いていた党勢を立て直した。これまでの低迷の原因は(その成立の経緯からすれば当然ではあるが)支持が北部の、それも一部の保守派にのみに限られていた点にあった。独立を明確に放棄した上での確実な分権政策や、相変わらず続く経済不安・政情不安によって一定の支持者は確保していたものの、頭打ちになっている感は否めなかった。
だがこの選挙では、労働問題に熱心ながらも人権問題から移民対策には弱腰の左派政党を見限った北部在住の南部出身者の支持を集め、ボッシも「レガ・ノルドは全イタリア人労働者の党である」と演説するなど、南部出身者への結束を促す主張を行っていた。これまで北部同盟にとって完全なアウェーであった南部出身の党員も増加しており、従来の地域政党から脱皮し、かつてボッシが進めていた「イタリア全土の連邦主義者を統括する政党」に変貌しつつある。父が南部出身者である北部同盟のエマヌエーラ・ムネラート議員は、南部での躍進について「(我々は)昔の北部同盟ではない」と語っている。北部同盟という名から受けるイメージと実際の政治活動に差異が生じ始めており、「イタリア人民党」という表現が相応しくなりつつある。ボッシ自身、同郷でもあるリソルジメント期の政治家カルロ・カッターネオの後継者を自負する行動をしばしば行っている。
内紛と衰退
総選挙でパダーニア事件により低迷が続いていた党政を回復させた一方、同盟内の党内対立は解消されずにむしろ深刻な段階に至っていた。コリエーレ・デラ・セラは今や同盟は4つの派閥に分裂していると指摘している。2009年から本格化した党内対立で同盟内は「魔方陣」(cerchio magico、チェルキオ・マギコ)と揶揄されるマルコ・レッグツォーニ議員らを中心とした親ボッシの過激派、第三次ベルルスコーニ内閣で同盟出身の閣僚となったロベルト・カルデロリを中心とする中立派、ボッシの強硬路線に批判的だったロンバルディア州知事ロベルト・マローニらの穏健派に三分された。またジェン・パオロ・ゴッボ欧州議員らヴェネト州の同盟支部は指導部と距離を取る傾向が見られていた。
2010年、マローニら穏健派は同盟内の世代交代を強く訴え、徐々に親ボッシ派を党内で追い落としていった。2011年にはカルデロリら中立派とも連合して党内の主導権を奪う所にまで漕ぎ着けた。しかし依然として同盟の精神的指導者でもあったボッシの権威は決定的には揺るがず、対立は長期化の様相を見せ始めた。
2012年、際限なく続くかと思われた党内対立は思わぬ形で決着を迎える。党内で政治資金の大規模な横領疑惑が持ち上がり、その中に党首ウンベルト・ボッシの名が含まれていたのである。同時期にロンバルディア州議員を務める息子レンツォ・ボッシのスキャンダルも追い打ちをかけ、同年中にボッシの務める同盟党首の役職からは実権が剥奪された。これにより、ボッシは同盟内で事実上の失脚に追い込まれる形となった。ロベルト・マローニは同盟内協議で書記長職を新設し、自らが初代書記長となった。
2013年、党内内紛と汚職疑惑、そしてこれまで助力してきたベルルスコーニ政権への批判票などから北部同盟は再び大幅に議席を失い、特に下院議席数は結党以来で最悪となった。全体得票率は4.1%にまで下落し、小政党へと衰退した。
思想
連邦主義
北部同盟のイデオロギーにおける最大の目標は地方分権であり、具体的には各自治体の伝統文化の保護や税収の直接管理を主張している。そしてそれを最大限に実現するために連邦主義が必要だと説いており、集権的なイタリア共和国をドイツ連邦やロシア連邦のような連邦制国家へと移行させたいと考えている。冷戦後のイタリアにおける連邦主義・地方分権主義の代弁者として、北部同盟はこうした問題を国家に強く訴えかける事に成功した。冷戦後の欧州で盛んになりつつある地方運動の中、北部同盟は最大の成功例として注目を集めた。党勢を拡大した理由として複数の立場の異なる地方運動を糾合した点があり[13][14][15] 、他の地域政党の多くが地域別に個別活動を行い(例えばバスク民族主義党、カタルーニャ左翼共和党、プライド・カムリ、フラームス・ベランフ、南チロル人民党など)、故に国家規模の大政党による国家運営に影響を与えられないという弱点を克服した。このような「内側の自治と外部への団結」はまさに連邦主義の理想とするところである。
北部同盟は「北部の同盟」から中部や南部の分権主義者との同盟への拡大をしばしば構想しているが、上手くは進んでいないのが現状である。南チロル人民党、トレント人民党、アオスタ自治運動、サルデーニャ行動党、自治という選択(南イタリア一帯)などと友党関係を構築している。また海外の地方運動とも欧州議会などで連帯を図っているが、地方主義による欧州議会政党「欧州自由同盟」には加盟していない[16]。
文化面では「北部の同盟」に留まっていることもあり、概ね古代から現代にかけてイタリア大陸部の歩んできた特有の歴史と伝統を重んじる事を掲げている。党シンボル「生命の花」と並んで象徴とされている騎士アルベルト・ダ・ジュッサーノは、中世時代に他の文化圏に跨る神聖ローマ帝国によるイタリア大陸部支配に立ち向かった事で知られている[17]。また古代には帝政期に本土編入を受けるまで「属州ガリア・キサルピーナ」としての歴史があり、その点から「自身の源流」としてケルト文化の保護にも熱心である。反対に中部・南部で父祖として尊敬されているローマ文化(ラテン人)に対してはその征服者として否定的に捉える向きがある。
方向性
連邦主義を目標として掲げ、党憲章で「連邦制が果たされたなら同盟の役割は終わり、元の複数政党へと戻る」と述べられているが、逆に他の政策に関しては一貫性に欠けており、いわゆる左派・右派のどちらにも分類し難い。
例えば彼らは財政政策については自由主義経済を擁護して、自由競争と市場原理を強く支持している。しかしその一方で企業の人員削減や国家の年金減額に反対するなど、手厚い労働者保護政策を支持しており、幾分に支持勢力の相反する主張を行っている。これは北部の様々な政治主張の寄り合いだからであるが、ある論者は労働者保護が連邦主義に次ぐ主張として掲げられていることから、彼らを「イタリア労働党」と通称し[18]、同盟内の一部派閥もこれを使用している[19][20]。
同盟の創設者であるウンベルト・ボッシ自身は、北部同盟について「自由主義者であるが、社会主義者でもある」とインタビューで解説している。そして自分自身は「反国家主義者」で、「民衆の負担にならない政府を望ましく考えている」と述べた。更にボッシは尊敬する政治家を尋ねられてジャコモ・マッテオッティ(イタリア統一社会党書記。1925年にファシスト党によって暗殺された)を挙げ、更にはベルルスコーニと対立するイタリア民主党のワルテル・ヴェルトローニ書記長を「勇敢な人物」と賞賛している[21]。しかし右派勢力との連帯も維持されており、一部報道では2013年までに北部同盟が自由の人民に合流して同盟幹部が党役員に迎えられるだろうと推測、仮にそうなった場合、北部同盟出身の首相が誕生する可能性もあるとしている[22]。
結局の所、北部同盟は何より大多数の国民(大衆)が望む気持ちを敏感に察知して、その代弁者となる(=状況によって簡単に変節する)という点で人民主義(大衆主義)的である。こうした要素から反大企業・反富裕層でもあり、いわゆる既得権益や特権を持つ人々(ボッシはこれを「アニェッリ、教皇、マフィア」と要約した)を敵視している。こうした大衆の率直な反感を代弁するという立場こそが、北部同盟の政治的立場の中でもっとも支持に繋がっているとすらいえる[23]。
北部同盟の執行委員会はこうした問題について、新たに同盟全体の方針として「連邦主義者の自由主義」を新たに掲げた[24]。事実、北部同盟は「連邦主義」以外の政治的主張を何度も変更し続け、例えば社会自由主義をより保守的な自由主義と入れ替えている。他にも政教分離や欧州連合などに対するスタンスも変更したり[25][26]、最初期に唱えられていた平和主義・環境主義も後に主な目標ではなくなった[27]。
「連邦主義者」か、「分離主義者」か
北部同盟の政治目標は創立当初、それほど明確に決定された物ではなかった。当初、同盟の構成政党は、地方運動が団結することで地方自治を前進させるという程度の発想で動いていた。彼らの地方分権運動、連邦主義運動が「イタリアからの分離独立」を策動するものであるという主張は、むしろ北部同盟を批判する保守派によって喧伝された部分が大きい。後に策定された政治目標でも北部同盟は連邦主義を掲げるのに留まっていたが、急速に彼らの運動は冷戦後の政界再編で注目を集める事となる[28][29]。急速に政治的権力を与えられた事で過度の自信を得た同盟内では、長期的な政治運動ではなく過激な強硬論が罷り通るようになっていった。
1996年、ベルルスコーニ政権内で主流派であるフォルツァイタリア党と北部同盟が対立する事件が起きると、分権政策を不服とした北部同盟は政権を離脱する。先鋭化した同盟では分離主義すらも交渉手段に用い始め、北部独立論に関する一種の理論武装を行った。その中で党のイデオローグ(理論家)として著名であった政治学者ジャンフランコ・ミグリオはイタリアを「パダーニア、エトルリア、スッド」という三つの国家に分離すべきと主張した[14][15]。
1996年9月15日にボッシはパダーニアの語源であるポー川で独立闘争の開始を宣言し、北部同盟のシンボルカラーである緑になぞらえて「緑シャツ隊」(黒シャツ隊の模倣)を組織した。
しかし党勢が衰退し、ベルルスコーニ政権と復縁した2001年頃から再び強硬論は鳴りを潜める。先の三国論も「連邦制移行後の行政区画として希望する」というものへと戻っていった[30]。党の度重なる方針転換は少なくない離脱者を党内で生む事となった。同時に単純な特定地域の優遇ではなく地方分権主義そのものの前進を望むという立場は、北部同盟が単なる地方運動から脱却する結果も生み出した。
欧州議会
北部同盟は地方運動を掲げる欧州規模政党「欧州自由同盟」に加わっていたが、一部は後に解散された虹の同盟にも関わっていた。1994年に欧州自由同盟・虹の同盟から離脱すると欧州自由民主改革党に移るが、1999年に離脱して他の無所属勢力(イタリア急進党など)と一時的な暫定会派「技術上の独立同盟」を結成した後、無所属となった[31][32][33][34]。
2004年の欧州議会選挙後に「独立と民主主義」、「欧州連邦主義連合」など複数の政党に働きかけて、会派「欧州の地方主義」を組織しようとしたがこれは失敗し、2006年まで欧州自由民主同盟に席を置く事となった。またこの時に欧州民主主義協会に加盟している[35]。2009年の欧州議会選挙後、北部同盟は欧州懐疑派の新会派「自由と民主主義のヨーロッパ」への参加を表明した。
政治主張
- 中絶・幹細胞研究・同性愛・安楽死などキリスト教文化に反する社会倫理への反対
- ただし、前述の通り支持基盤の関係から反教会主義を放棄するまではこれらの問題には穏健であった。
- 現在でも「ロスパダニア協会」という性の自由を容認するグループが同盟内の派閥として存在する[36]。
- 同様に社会倫理の観点からのマリファナ完全非合法化
- これも党内でかつて合法化を党の目標に掲げており、現在でも現方針に反対する議員団が組織されている[37]。
- 反国家主義・反中央集権(小さな政府)[15][38]。
- 反公共投資・反公的援助
- 異文化圏の移民、特にイスラム圏からの移民者排除
- 緑化保全運動[40][41]
- 農業の保護[39][40]
- 欧州連合懐疑主義[42][43][44][45]
- 反NATO[46][47]
- 親米主義
脚注
外部リンク
- www.leganord.org(公式サイト)
- ↑ Fabbriche e Gazebo: la Lega modello Pci". Corriere della Sera. 2009-06-10.
- ↑ http://www.lcv.ne.jp/~saland/qanda200211.htm
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