812年
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他の紀年法
できごと
- :フランク王国のカール大帝の帝位を「僭称である」として認めなかった東ローマ帝国が、第二次ブルガリア帝国の台頭などによる脅威の増したミカエル1世ランガベーの代で、ようやくこれを容認し、アーヘンにて講和条約を締結する[1]。ただし、ローマ皇帝(ローマ人の皇帝)はコンスタンティノポリスのローマ皇帝(東ローマ皇帝)のみで、カールはフランクの皇帝であるとした(cf. 皇帝#カール大帝の「西ローマ帝国」)[1]。また、カールは交換条件して、南イタリアの一部とヴェネツィア共和国およびダルマチアが東ローマ帝国の傘下にあることを認めた[1]。
- 6月-8月 - クルム・ハーン率いる第一次ブルガリア帝国軍がトラキア(東ローマ帝国領内)に侵攻。
- 10月15日-31日 - クルム率いる第一次ブルガリア帝国軍が、メセンブリア(Mesembria。現・ネセバル。東ローマ帝国領内)を攻撃し、占領する。
- :その2週間後、東ローマ帝国軍が包囲戦によってクルム軍を撤退させる。
- 月日不明
- ヴェネツィア共和国が中心地をトルチェッロ島からテンプレート:仮リンク島(現・リアルト地区)へ移す。
- :元首テンプレート:日本語版にない記事リンク 治世下の移民。
- 第二次ロンスヴォーの戦い
- :フランク王国のカール大帝がバスコニアに侵攻したテンプレート:仮リンクの一局面 (cf. en:Battle of Roncevaux Pass#Second and Third battles of Roncevaux)。
- ハーフェル川流域にてテンプレート:日本語版にない記事リンク の一派テンプレート:日本語版にない記事リンク が反乱を起こすも、失敗。
日本
- :神泉苑にて嵯峨天皇が日本の記録上初めての花宴之節を開く[2][3]。『日本後紀』に「幸神泉苑 覧花樹 命文人賦詩 賜綿有差 花宴之節始於此矣」とあり[2][3]、これ以降、貴族の間にも桜の花見が急速に普及してゆくこととなる[3][注 1](少し後の時代に著された『作庭記』には「東ニハ花の木をうへ 西ニハ…」[意訳:〈庭を造るにあたっては、〉東には桜の木を植え、西には…]とあり、桜の木が造園に欠かせないものとなっている)。ここでいう「花宴」とは「桜の花見の宴」であり、日本の朝廷においての公式初[3]は、記録に残る日本初・世界初もである。
誕生
死去
- 9月14日(弘仁3年8月6日) - 布勢内親王、平安時代初期の皇族(* 生年未詳)
- 12月24日(弘仁3年11月13日) - 藤原内麻呂、平安時代初期の公卿(* 756年)
- 杜佑、唐代中国の歴史家(『通典』編纂者)(* 735年)
- テンプレート:仮リンク、アグラブ朝の初代アミール(* 756年)
- サングラーマグナンジャヤ王、シャイレーンドラ朝の王(* 生年未詳)
- 阿倍枚麻呂、平安時代初期の官人(* 生年未詳)
- 大元瑜、渤海国第7代王(* 生年未詳)
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
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