松屋 (百貨店)
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株式会社 松屋(まつや、テンプレート:Lang-en-short)は、東京都中央区銀座三丁目に本店、台東区花川戸一丁目に浅草店を置く百貨店。
銀座の本店は、銀座地区の百貨店において人気・売上ともに銀座三越と首位の座を争う間柄である。
目次
概要
1869年に横浜で創業された呉服店、「鶴屋」の流れを汲む百貨店。創業以降、拡大路線をひた走るが、1970年代のオイルショックを境に経営難に陥り、銀座店と浅草店2店舗の体制になる。経営再建には東武百貨店と伊勢丹が関わった。仕入れ関係は、松屋と伊勢丹主導で結成した全日本デパートメントストアーズ開発機構(ADO)に加盟し現在に至る。
高級ブランド、ラグジュアリーファッションやアクセサリー、豪華な内・外装で女性からの支持率が高く、銀座を代表する百貨店である。
伊勢丹との提携
伊勢丹(現・三越伊勢丹)とは1971年の「業務提携に関する覚書」、「商品券の相互利用に関する契約書」の締結や、1973年のADOの設立などで幅広い提携強化を図ってきた。2002年11月には更なる提携強化を目指して伊勢丹の株式を買い増し、副社長も同社から迎えた[1]。しかし、2007年に三越と伊勢丹の経営統合が発表されると、両社間にすきま風が吹き始める。伊勢丹が統合する三越の銀座店は、松屋の競合相手であるのがその理由である。2007年秋のADO会議において、ADOの総合幹事店である松屋は欠席した。 現在、三越伊勢丹ホールディングスが所有・運営する企業で、松屋の筆頭株主は存在しない。
沿革
- 1869年12月5日(明治2年11月3日)- 初代古屋徳兵衛により横浜石川町にて「鶴屋呉服店」を創業したのが始まり。
- 1899年(明治32年) - 東京神田今川橋の松屋呉服店(1776年(安永5年)創業)を買収し、東京へ進出。当時は「松屋呉服店」「鶴屋呉服店」の屋号を並行して使用していた。1978年(昭和53年)まで使用されていた紋章は「松」と「鶴」を形取っていた。
- 1903年(明治36年) - 合名会社松屋呉服店となる。
- 1908年(明治41年) - 呉服以外に雑貨、洋品の販売を始め、化粧品、帽子の一部を海外より直接輸入して販売するようになり発展した。
- その後、銀座、浅草、横浜関内の吉田橋際や伊勢佐木町に店舗を構えるなど、事業を拡張。
- 1970年代 前半のオイルショック以後、経営が傾き、現行の銀座と浅草の2店舗体制となる。再建の過程で東武百貨店や伊勢丹との関係を強化。
店舗
銀座本店
- 1925年(大正14年)5月1日に開店。翌年に本店となり、今に続く。地下1階、地上8階の豪華な建造物であったが、太平洋戦争終結後は、連合軍のPXとして接収されていた。昭和20年代後半に接収が解除された後は、改装により豪華絢爛であった内外装は廃された。
- 開店当初は贅を尽くした内装で耳目を集め、圧巻は正面玄関入ってすぐの中央ホールであった。天井のステンドグラスはローザリーの華やかなもので、ホールの内側の柱はモザイク模様を取り付け、1階のホールの四方はサラセン風の漆喰模様で飾られていた。7階のホール周りはサラセン風の柱廊となっていた。現在エスカレータ脇の鉄板が張られている吹き抜けは、当時、地上7階まで吹き抜けであった中央ホールの名残でありファッションショーも開催されていた。1964年(昭和39年)、東京オリンピックの開催に合わせて大改装を行い、現在の形となる。2006年(平成18年)には更なる改装を加え、LED照明を使用した現在の外装は4代目となる。度重なる改装により、建築当時の面影は皆無に等しいがビルの裏手へ回ると幾つかの窓が見受けられる。竣工当時のエレベーターはオーチス製。当初は客用正面に6台、ホール周りに2台、他に社員用、荷物用、料理用などがあったが、客用は後の店舗改装時に撤去され、三菱製に変更された。更に1987年に現在の形に更新された。
なお、現在でも業務用の一部はオーチス製が自動化改造されながらも現存するようで裏の通用口からは現在もオーチス製のエレベーターが確認できる。
- 店舗面積32,182m²
階 | 松屋銀座 フロアガイド |
---|---|
RF | ゴルフテラス・ソラトニワGINZA |
8F | 大催場、レストラン |
7F | リビング、美術、呉服 |
6F | 婦人服、子供、スポーツ、メガネサロン |
5F | 紳士服 |
4F | 婦人服、宝飾・時計 |
3F | 婦人服、婦人用品、婦人靴 |
2F | 婦人服、インターナショナルブティック、ハンドバッグ |
1F | 婦人服飾雑貨、化粧品 |
B1F | 食品、GINZAフードステージ |
B2F | 生鮮食品、GINZAフードステージ |
浅草店
- 当時の浅草店は久野節設計で、昭和初期を代表するアール・デコ調の建造物である。1974年の改装以後、外壁は白い外装材で覆われていたが、北面の壁は覆われておらず、建築当時そのままの姿であった。2012年の東京スカイツリーの開業に合わせて、外装材を撤去し外壁を修復、アール・デコ調の外観を復活させることとなった[2]。また、駅のホームや階段などにも建築当時の面影を見つけることができる。外壁が外装材で覆われて以降の松屋屋上にあった店の広告塔は、建築当時の塔屋の名残りであった。また浅草店出店の経緯から東武鉄道は、松屋に出資している。
- 長引く消費低迷のため、2010年5月末をもって浅草店の営業を大幅に絞り込んだ。地上7階から地下1階(2階は東武浅草駅)のうち4階以上の営業を取りやめ、同時に店舗名を「松屋浅草店」に改めた[3]。また、同年5月31日に日本最古の屋上遊園地である「プレイランド」が閉鎖された[4]。1931年の開店と同時に7階と屋上に「スポーツランド」がオープンした。遠藤嘉一の創案の自動機械を並べ今日のゲームセンターの嚆矢でもあった[5]。
- 2012年9月27日に東武鉄道は当店の4階から屋上までを「EKIMISE(エキミセ)」とし同年11月21日にオープンすると発表した[6]。
- 2012年11月21日、「EKIMISE(エキミセ)」がオープン、松屋浅草店はテナントとしてB1~3Fまでとなる。
- 店舗面積19,106m²⇒7,404m²。
階 | EKIMISE(東武浅草駅ビル)フロアガイド |
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RF | EKIMISE 浅草ハレテラス |
7F | EKIMISE EAST-TOKYOマーケット わのいち、駅見世ごはん |
6F | EKIMISE 総合家電量販店ノジマ |
5F | EKIMISE ユニセックスファッションフロア |
4F | EKIMISE ファッションフロア |
3F | レディースファッション、書籍、ユニクロ、リフォームコーナー |
2F | 東武線浅草駅 |
1F | 婦人服、化粧品、和洋菓子、サービスカウンター |
B1F | 浅草旬鮮市場 |
プチプチマルシェ
2010年8月25日オープン。東京高速道路下の「銀座インズ」内の専門店街で、松屋が総合プロデュースを行っている[7]。
松屋 東京丸の内
2012年10月3日オープン。東京ステーションホテルのテナントショップ。東京駅丸の内南口・南ドームの一角にある。ファッション雑貨や東京駅限定の土産物・菓子類を販売している。
台湾
松屋本体による運営ではなく、商標の貸与と業務提携のみの関係である。
- 耐斯(ナイス)松屋(嘉義市)
過去に存在した店舗
- 横浜吉田橋店
- 伊勢佐木町店
- 船橋店
- 1970年(昭和45年)開店、1976年(昭和51年)閉店。その後直近にあった丸興船橋店が移転してきたが短期で閉店した。建物はテナントビルの「テンプレート:要出典範囲」として現存している。
- 風城松屋(台湾・新竹市)
- 跡地には、ライバルの遠東百貨店グループによる「太平洋SOGO(遠東SOGO)新竹ビッグ・シティ店」がオープン。
POSシステム
主な関連会社
- アターブル松屋ホールディングス - 傘下の子会社を通じ飲食業・結婚式場経営(東京大神宮マツヤサロン他)を行う。
- シービーケー - ビル総合サービス及び広告業。
- 東京生活研究所 - マーケティング部門。
- 東栄商会 - 店舗で使用する事務機器等の納入、保険代理業。
- ギンザコア - 同名のファッションビルの運営。
- 銀座インズ - 東京高速道路下の店舗群の運営。
関連項目
- 全日本デパートメントストアーズ開発機構
- 鉄道模型ショウ
- 『東京暗黒街・竹の家』 - 日本でロケが行われたハリウッド映画で、劇中のやくざと警官の銃撃シーンが浅草店屋上で撮影された。
- 『ウルトラセブン』(東京放送(現TBSテレビ)系特撮テレビ映画、銀座店屋上でロケーション撮影を行った)
関連人物
- 山中鏆(経営再建に手腕を発揮した元副社長・社長・会長)
脚注
外部リンク
テンプレート:日本の大手百貨店- ↑ 松屋:株式会社伊勢丹の株式の一部取得について
- ↑ テンプレート:PDFlink
- ↑ テンプレート:PDFlink、2009年12月21日、松屋公式サイトニュースリリース。
- ↑ さよなら松屋浅草屋上遊園地、別れ惜しむ、2010年6月1日、日刊スポーツ。
- ↑ 橋爪紳也『日本の遊園地』講談社現代新書、2000年9月
- ↑ テンプレート:PDFlink
- ↑ 8月25日(水)、銀座インズに銀座松屋による新ショッピングゾーン「プチプチ マルシェ」登場 - OZmall・2010年9月1日