グラハム・ボネット
テンプレート:Infobox Musician グラハム・ボネット(Graham Bonnet, 1947年12月23日 - )は、イギリス生まれでロサンゼルス在住のロックシンガー。レインボーやアルカトラスのヴォーカリストとして有名。声域は4オクターブあると言われている[1]。Grahamの実際の発音はグレアム。
目次
経歴
初期
イギリスのリンカーンシャー州スケグネス出身。10代前半はイギリスの地元でジャズ・バンドのギタリストをしていたが、10代後半はローカル・バンド「Blue Sect」や「Graham Bonnet Set」を率いて活動していた。1967年、20歳の時に従兄弟のTrevor Gordonと新たなバンド「Bonar Law」を結成。Trevor Gordonがビージーズのバリー・ギブの友人であったことから、バリー・ギブやビージーズのマネージャーロバート・スティッグウッドがBonar Lawのライブを見に来てGrahamとTrevorを気に入り、とんとん拍子に二人のレコーディングが決まった。GrahamとTrevorのデュオはバリー・ギブによってザ・マーブルスと命名され、1968年10月にデビュー。バリー・ギブが提供した「Only One Women」がUKチャート・ベスト5入りする大ヒットとなったが、アルバム発表前に解散する。解散後の1969年、RSO・レコードからフルアルバム『The Marbles』が発売されている。
その後、一時期、Southern Comfortにベーシストとして加入するが、ソロに転向。70年代の前半にはRCAレーベルからロイ・ウッドの「Whisper In The Night」とニール・セダカの「Trying To Say Goodbye」を、そしてDick Jamesのレコード・レーベルからボネット自身の「Back Row In The Stalls」という3枚のシングルを発表している。
1974年、Dick Jamesがプロデュースしたイギリスのコメディ映画『Three for All』内で架空のアイドル・ロック・バンド、Billy Beethovenのリード・ヴォーカル兼ギタリスト役(役名"Kook")で出演した。劇中では、自ら作詞・作曲した「Don't Drink The Water」、「Dreams」、「Here Comes The Rain」、「We're Free」の4曲を演奏し、1975年にリリースされたこの映画のサウンド・トラックにも収録され、「Dreams」はシングル・カットされた。尚、グルーピー役の主演女優Adrienne Postaとは後に結婚したが、間もなく離婚している。
1976年にはSpike Milliganの指揮によるPaul Gallicoの「The Snow Goose」というLPに1曲だけハミングで参加している。 翌1977年、リンゴ・スターのレーベル、Ring O Recordsと契約し、初のソロ・アルバム『Graham Bonnet』を出す。ボブ・ディランの「It's All Over Now, Baby Blue」をカバーしたシングルはオーストラリアで大ヒットとなり、アルバムもオーストラリアなど数カ国でゴールド・ディスクを獲得。翌年。2作目のソロ・アルバム『No Bad Habits』とディスコ調のシングル「Warm Ride」も大ヒットした。この『No Bad Habits』は、Rainbow脱退後に日本で再発されているが、これには「Warm Ride」の代わりに、3作目のソロアルバムの『Line Up』のアウトテイクである「Bad Days Are Gone」(邦題「孤独の叫び」)が収録されている。この2枚のソロ・アルバムにより、広い音域と圧倒的なパワーを持つ声で知られるようになる。しかしハードロックに特化したシンガーではなくロックや、ポップス、R&BやAORなどを幅広くこなせる歌手だった。
レインボー
1979年、マーブルスの「Only One Woman」を聴いたリッチー・ブラックモアの提案で、レインボーの新しいヴォーカリストとしてグループに加入。アルバム『ダウン・トゥ・アース』で評価を得る。「シンス・ユー・ビーン・ゴーン」は1979年にシングル・カットされ、バンドにとって初のUKトップ・テン入り(最高6位)、アメリカでもビルボード100の最高位57位を記録させた。また「All Night Long」も1980年にシングル・カットされてUKでは最大のヒット(最高5位)を記録する。ファッション的にはヘヴィー・メタルの正装である、長髪、革ジャンのスタイルを拒み、短髪オールバックに白いスーツでステージにでることをポリシーとした。ちなみに「シンス・ユー・ビーン・ゴーン」のミュージック・ビデオではアロハシャツを着用している。
バンドはダウン・トゥ・アースのツアーを終えコペンハーゲンのスタジオで次のアルバムの製作に入ったが、グラハムは、メンバーの中で最も仲の良かったコージー・パウエルが脱退したり、新しい曲作りもなかなか進まなかったことから意欲を失い、新しいアルバムに収録する「I Surrender」のバック・コーラス部分のみ録音したのち、ロサンゼルスの自宅に戻った。新作のプロデューサーもつとめていたロジャー・グローヴァーはジョー・リン・ターナーを新たにボーカルとして選任し二人のボーカルで歌を分けることを提案したため、グラハムは納得いかず自らレインボーを脱退した。
ソロ活動、MSG
1981年、ソロ・アーティストとしてヴァーティゴ・レコードと契約して三作目『孤独のナイト・ゲームス "(Line UP)"』をリリース。シングル・カットされた「Night Games」(邦題:孤独のナイトゲームズ)が最高6位のUKトップテン・ヒットとなった。(1983年に西城秀樹が「ナイトゲーム」のタイトルでカヴァーする。)この頃、リーバイスのコマーシャル・ソングとして、Young & Moodyが作曲した「These Eyes」という曲を歌っているが、リリースはされていない。また、二人目の妻となるJo Eimeと結婚する。
1982年に、ギタリスト、マイケル・シェンカーの強い希望があって、MSG(マイケル・シェンカー・グループ)の三枚目のスタジオ・アルバムとなる『黙示録 ("Assault Attack")』のヴォーカリストとして録音に参加する。アルコール摂取が原因でボネットはツアーに参加することはなく、その後、アメリカ、ロサンジェルスに拠点を移しアルカトラスの結成に着手する事になる。なお、アルカトラス結成前に、グラハムはロイヤルフィルハーモニックオーケストラによるポリスのカバーアルバム『ARRESTED』に、ドン・エイリー、ニール・マーレイ、ゲイリー・ムーアというメンバーで「Truth Hits Everybody」を収録している。
アルカトラス
1983年、レインボー のスタイルを踏襲したバンドを結成すべく、アメリカ西海岸でニュー・イングランドのゲイリー・シェア、ジミー・ウォルドー、当時はまだ無名だったスウェーデン出身のギタリスト、イングヴェイ・マルムスティーンをオーディションによって獲得、アリス・クーパー・バンドのヤン・ウヴェナを加えてとともにアルカトラスの活動を始める。同年、アルバム『ノー・パロール・フロム・ロックン・ロール』を発表、ビルボードのチャートを7週間記録、最高128位を記録した。日本のマーケットで成功を収める。ミュージック・ビデオ、ステージでは常時、アロハシャツや白いスーツで登場するなど個性を発揮した。
マルムスティーンのソロ活動により、新たにフランク・ザッパのスティーヴ・ヴァイを加えて日本でのライヴを行ない、1985年には、2作目のスタジオ・アルバム『ディスタービング・ザ・ピース』を発表、ビルボードのチャートを15週間記録して、最高位145位を記録した。"80年代で最も演奏テクニックを持つギタリスト"と言われるようになるギタリスト、スティーヴ・ヴァイを世に送り出すが、彼もデイヴィッド・リー・ロスに引き抜かれる。
1987年にはエルトン・ジョン・バンドや、ミートローフ、アリス・クーパー等の作品を制作していたベテラン・セッションマン、ダニー・ジョンソンとともに、最後のスタジオ・アルバムとなる『デンジャラス・ゲームス ("Dangerous Games")』を制作発表する。アルバムにはザ・マーブルス時代の"Only One Woman" の再録音をおこなうなど、バンド作品としての完成度を高めたが、人気ギタリストの不在がバンドの活動期間を縮めた。
インペリテリ、1990年代
1988年、ギタリストのクリス・インペリテリの強い希望により、彼のバンドインペリテリに参加する。アルバム『スタンド・イン・ライン』発表した同年7月、東京ドームのこけら落としとなるイベント第1回 「KIRIN DRY GIGS'88」にビリー・ジョエル、ボズ・スキャッグス、アート・ガーファンクル、フーターズとともに出演する。ボネットはヘッドライナーのビリー・ジョエルのアンコールのステージで、ビートルズの「I Saw Her Standing There」にも参加して唄った。
その後、ボネットはオーストラリアを生活の基盤として、イアン・ギラン・バンドのレイ・フェンウィックのプロジェクト、フォースフィールドの2枚のアルバムに参加、1991年には4作目のソロ・アルバム、『Here Comes the Night』もレイ・フェンウィックの協力の下リリースした。また、オーストラリアのロックバンドThe Party Boysに参加する他、オーストラリア国内でもソロ名義で数回コンサートを行った。その後、ロサンゼルスに戻り、1993年には、キッス(バンド)のギタリスト、ボブ・キューリックのアルバム、Blackthorne『Afterlife』のレコーディングに参加するなど、コンスタントにアルバムを制作して、、1997年には韓国のサムスンレーベルから5作目の『Underground』、1998年には日本のビクターから6作目の『The Day I Went Mad』をリリースしている。
2000年代
2000年には日本のヘヴィ・メタル・バンドANTHEMのセルフ・カヴァー・アルバム『HEAVY METAL ANTHEM』に参加、同年の国内ツアーにも参加しRAINBOWナンバーも含めて熱唱を響かせた。
2001年、キーボードに現・ディープパープルのドン・エイリー、ベースChris Childs、ドラムHary Jamesという布陣でイギリスツアーを行う。
2002年に『システムX』を制作するというワンポイント契約でインペリテリに一時的に復帰した。
2004年、『エレクトリック・ズー "Elektric Zoo"』というバンドに参加、ヨーロッパ各地でライブ活動を行う。
2005年、イギリス人のギタリストTaz Taylorのバンド、Taz Taylor Bandのヴォーカリストに迎えられる。アルバム『WELCOME TO AMERICA』をリリース(日本版未発売)。
2006年、イタリア人ギタリストMatteo Filippiniのプロジェクト、『Moonstone Project』に参加。アルバム『Time To Take A Stand』をリリース。また、24年ぶりにマイケル・シェンカーと合流しMSGの25周年記念アルバムに参加、「Rock'n'Roll」でドラマチックな歌唱でファンを感動させた。
2007年、Howie Simon、Tim Luce、Glen Sobelという全く新しいメンバーで新生「アルカトラス」を結成し、来日公演をジョー・リン・ターナーとのダブルヘッドライナーツアーとして実現させた。60歳を超えたが、パワフルな歌い方と声量は健在である。
2008年はTaz Taylor Band名義でヨーロッパでクラブツアー終了後、ノルウェーのグループTomorrow's Outlookプロジェクトに参加、Lizzy Bordenのカバー「Red Rum」をレコーディングしたり(日本版未発売)、J21というギタリストのデビューアルバムに参画する一方、新生アルカトラスによるニューアルバムの制作を続けている。また、Forcefieldやソロアルバムで共演したギタリストMario Pargaを中心としたSavage Paradise(ドラム:Kevin Valentine、ベース:Tim Luce, キーボード:Eric Ragno)プロジェクトにも参加している。
人物・エピソード
- 前述のとおり、革ジャンやロングヘアに代表されるハードロックファッションを嫌う。アルカトラスのプロモーションで来日した際に出演したベストヒットUSAで、「ヘアスタイルのことではリッチーとよく喧嘩をした」とコメントしており、小林克也の「リッチーからギターで殴られたのは本当?」という質問には「髪の毛を五分刈りにしてきたからね」と答えている。「髪を伸ばしてハードロックファッションをするようリッチーに言われたが、自分に求められたのは声であり、ハードロックファッションやヘアスタイルではないから」、また「リッチーは声とスタイルが合っていないと思っていたのではないか」とレインボー時代のことをコメントしている。
- インタビューではそのときの気持ちを率直に話してしまう。
- 右利きだが腕時計は右腕につけている。ステージに立つときも腕時計をつけたままで歌うことがある。
- 10代の頃に肉屋でバイトをしていた際、動物が屠殺されるのを見て嫌悪感をもよおし、それ以来、ベジタリアンとなったため、肉類は一切口にせず、また革製品(人工皮革は除く)も身につけない。
- 常にコンバースのスニーカーを履いている。ステージでスーツを着る際も、靴はコンバースである。
- 歌詞を覚えるのが苦手でレインボー時代からステージに歌詞カードを置くことが多いが、これは長年のアルコール依存症で脳が悪影響を受け、記憶力に問題があるためだと自身で述べている。アルカトラスの「Too Young To Die, Too Drunk To Live」はアルコール・ドラッグについて綴った歌詞であり、「Will You Be Home Tonight」は米国で飲酒運転撲滅キャンペーンにも使われた。また、インペリテリの『Stand In Line』に収録されている「Secret Lover」も酒のことを比喩的に綴った歌詞である。
- 2000年、ANTHEMの『HEAVY METAL ANTHEM』ツアー初日の大阪公演ではハリきり過ぎてステージから転落している。
- 2006年のTaz Taylor Bandの公演で、2004年からは断酒していると告白。アルコール依存症は完治したとも述べている。
- 2007年10月23日のマリブ火災では自宅の裏庭にまで火が押し寄せ、隣人と消火作業を行っている。
- 2008年離婚。現在は独身である。
ディスコグラフィ
- 1970年:THE MARBLES - THE MARBLES
- 1975年:THREE FOR ALL - SOUNDTRACK
- 1977年:GRAHAM BONNET - GRAHAM BONNET
- 1978年:GRAHAM BONNET - NO BAD HABITS
- 1979年:RAINBOW - DOWN TO EARTH
- 1981年:GRAHAM BONNET - LINE UP
- 1982年:THE MICHAEL SCHENKER GROUP - ASSAULT ATTACK
- 1983年:THE ROYAL PHILHARMONIC ORCHESTRA & FRIENDS - ARRESTED
- 1983年:ALCATRAZZ - NO PAROLE FROM ROCK'N' ROLL
- 1984年:ALCATRAZZ - LIVE SENTENCE
- 1985年:ALCATRAZZ - DISTURBING THE PEACE
- 1986年:ALCATRAZZ - DANGEROUS GAMES
- 1988年:IMPELLITTERI - STAND IN LINE
- 1989年:FORCEFIELD - TO OZ AND BACK
- 1990年:FORCEFIELD - LET THE WILD RUN FREE
- 1990年:GRAHAM BONNET - THE ROCK SINGER'S ANTHOLOGY(POLYGRAM)
- 1991年:GRAHAM BONNET - HERE COMES THE NIGHT
- 1993年:BLACKTHORNE - AFTERLIFE
- 1997年:GRAHAM BONNET - UNDERGROUND
- 1999年:GRAHAM BONNET - THE DAY I WENT MAD
- 2000年:ANTHEM - HEAVY METAL ANTHEM
- 2002年:IMPELLITTERI - SYSTEM X
- 2005年:IAIN ASHLEY HERSEY - THE HOLY GRAIL
- 2006年:MOONSTONE - TIME TO TAKE A STAND
- 2006年:MICHAEL SCHENKER GROUP - 25 YEARS CELEBRATION
- 2006年:WELCOME TO AMERICA - TAZ TAYLOR BAND
- 2008年:J21 - YELLOW MIND : BLUE MIND
- 2010年:ALCATRAZZ - LIVE'83
- 2010年:ALCATRAZZ - NO PAROLE FROM ROCK 'N' ROLL TOUR LIVE IN JAPAN 1984.1.28 AUDIO TRACKS
- 2010年:ALCATRAZZ - DISTURBING THE PEACE TOUR LIVE IN JAPAN 1984.10.10 AUDIO TRACKS
脚注
外部リンク
テンプレート:レインボー- ↑ シンコーミュージック刊『リッチー・ブラックモア レインボー編』 ISBN 4401612027 より。