コシロ・バジリ
コシロ・バジリ(テンプレート:Smallحسین خسرو علی وزیری / Hossein Khosrow Ali Vaziri、1943年3月15日 - )は、イラン・テヘラン出身の元プロレスラー。現役選手時代は、アイアン・シーク(The Iron Sheik)のリングネームで知られた。
来歴
イランではクシュティやレスリングの選手として活躍し、モハンマド・レザー・パフラヴィーのボディーガードも務めていたという[1]。レスリングではメキシコシティオリンピックのイラン代表であるとされるが、選手としての五輪出場経験は無く、1970年にイランからアメリカ合衆国に亡命後、翌年のAAU選手権に優勝し、1972年のミュンヘンオリンピック、1976年のモントリオールオリンピックに米国代表チームのアシスタント・コーチとして参加した。
1972年にAWAの世界チャンピオン兼オーナーであったバーン・ガニアに見出されてプロレスラーとしてデビュー。同じ時期にガニア・キャンプでトレーニングしていたメンバーには、リック・フレアー、ケン・パテラ、ジム・ブランゼルなどがいる。コーチは主にビル・ロビンソンが務めたが、当時の様子はフレアーの自著に詳しい。デビュー後の数年間はベビーフェイスとして本名で活動。そのレスリングの実力を見込まれ、ガニア・キャンプのトレーナーも兼任した。
1978年、アイアン・シークと改名してヒールに転向。太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト・レスリングやNWAオールスター・レスリングなどを転戦後、1979年にWWF(現・WWE)デビュー。しかし、当時はまだ現在のようにアメリカと中東の間での政治的衝突は無かった上、アラブ系ギミックの大御所としてザ・シークの存在が知られていたため、観客の反応は鈍かった。しかし同年11月、テヘランでアメリカ大使館人質事件が発生、皮肉にもこれが彼をトップ・ヒールの地位に押し上げることとなった。
1980年はジム・クロケット・ジュニアが運営していたノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区を主戦場に、5月11日にジム・ブランゼルからミッドアトランティック・ヘビー級王座を奪取、11月1日にリッキー・スティムボートに敗れるまでタイトルを保持した[2]。その間、同地区と提携関係にあったトロントのメープル・リーフ・レスリングにも参戦し、5月25日にデューイ・ロバートソン、8月10日にアンジェロ・モスカを破り、カナディアン・ヘビー級王座も2度に渡って獲得している[3]。ミッドアトランティックではジン・アンダーソンをマネージャーにジミー・スヌーカやボビー・ダンカンと共闘、1981年にはブラックジャック・マリガンとも抗争した[4]。
その後はフロリダ、ジョージア、テネシーなど南部の主要テリトリーを転戦。フロリダでは1982年2月20日、セントピーターズバーグにてアンドレ・ザ・ジャイアントとシングルマッチで対戦し、メンフィスのCWAではジミー・ハートのファースト・ファミリーに加入してジェリー・ローラーやロン・バスと抗争[4]。ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングでは1983年5月28日、トーナメント決勝でロニー・ガービンから反則勝ちを収め、空位となっていたナショナルTV王座を獲得した[5]。
1983年下期にWWFと再契約。フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、同年12月26日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦。得意技のキャメルクラッチにより、バックランドのセコンドのアーノルド・スコーランからタオル投入を引き出し勝利、第11代のWWF王者となる[6]。
ベルト獲得から約4週間後の1984年1月23日にハルク・ホーガンに敗れてタイトルを失うが、ビンス・マクマホン・シニアからビンス・マクマホン・ジュニアへの体制移行の橋渡し役を担った存在意義は大きく、WWEの歴史にその名を残すことになった。王座転落後は、同年よりスタートしたWWFの全米侵攻に主力ヒールとして参加。その過酷さから伝説化している「3グループ全米同時サーキット」が始まると、Cチームのメインとしてサージェント・スローターとの熾烈な抗争を展開した。1985年3月31日のレッスルマニア第1回大会では、ロシア系のニコライ・ボルコフとの反米タッグでバリー・ウインダム&マイク・ロトンドのUSエクスプレスを破り、WWF世界タッグ王座を獲得している[7]。しかし1987年、薬物検査でコカインの陽性反応が出たため、WWFを解雇された。以後はAWA、WCCW、プエルトリコのWWCなどに出場。
1991年の湾岸戦争時、カーネル・ムスタファ(Col. Mustafa)の名でWWFに復帰。「フセインに魂を売った男」としてヒールターンした旧敵サージェント・スローターのパートナーとなり、ハルク・ホーガンやハクソー・ジム・ドゥガンと抗争を繰り広げた。1992年に現役を引退したが、インディー団体などで単発的に活動を続け、1997年にはザ・サルタンのマネージャーとして再度WWFに登場している。
2001年のレッスルマニア17では、過去のWWF系レスラーが参加したギミック・バトルロイヤルにおいて優勝を飾っている。この優勝の際、それまで一貫してヒールとしてブーイングを浴び続けた彼に対し、観客は大きな喝采を送った。
2005年にはWWE殿堂に迎えられ、レッスルマニア21の前日に行われた表彰セレモニーでは、長年のライバルであったサージェント・スローターが殿堂入りのプレゼンターを務めた。
日本には1974年4月に新日本プロレス、1976年5月には全日本プロレスにコシロ・バジリとして来日。1979年のWWF参戦時は、同年12月17日にマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、アントニオ猪木のNWFヘビー級王座にハッサン・アラブ(Hussein Arab)のリングネームで挑戦、凄絶な流血戦を展開した。翌1980年2月、WWFの提携ルートで新日本へ久々に来日。スーパー・デストロイヤーと組んで坂口征二&長州力の北米タッグ王座に挑戦している。1982年3月には新日本の第5回MSGシリーズに参加したが、アメリカでの実績からすれば戦績は振るわなかった。1992年にはUWFインターナショナルに来日し、安生洋二と試合を行っている。
得意技
獲得タイトル
- NWA英連邦王座 : 1回
- NWAオールスター・レスリング
- NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版) : 1回(w / ボビー・バス)
- パシフィック・ノースウエスト・レスリング
- NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座 : 1回(w / ブル・ラモス)
- NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座 : 1回[2]
- メープル・リーフ・レスリング
- NWAナショナルTV王座 : 1回[5]
- NWA2000
- NWAアメリカン・ヘリテージ王座 : 1回