平田靱負
テンプレート:基礎情報 武士 平田 靫負(ひらた ゆきえ)は、江戸時代中期の薩摩藩家老。宝暦3年(1753年)の木曽三川分流工事(宝暦治水事件)の責任者。父は平田正房、母は島津準3男家の島津助之丞忠守の娘。諱は宗武のち、宗輔、正輔。通称は初め次郎兵衛のち、新左衛門、掃部、靱負。宝暦治水の責任をとって自害した後に、孫の平田袈裟次郎が家督相続する(「平田靱負関係資料」参照)。その時の石高は533石(「嶋津家分限帳」参照)。
宝暦治水以前の経歴
- 以下は鹿児島県立図書館所蔵の「平田靱負関係資料集」の『平田氏系図』参照
- 正徳2年(1712年)4月15日:島津吉貴の加冠をうけて元服し、平蔵から兵十郎に改名。
- 享保2年(1717年):藩法により、将軍徳川吉宗の諱の字を避け、諱を「正輔」と改名。
- 享保14年(1729年)12月25日:物頭に就任。なお、当時の物頭には示現流剣術高弟である薬丸兼慶がいた。
- 享保20年(1735年):この年の旧暦2月2日に父の隠居により家督相続。また同年、日向国諸県郡馬関郷地頭兼任。なお、当時の通称を次郎兵衛に改名していた。
- 元文4年(1739年)1月11日:御用人に就任。
- 元文6年(1741年)2月21日:日向国諸県郡勝岡郷地頭に転じる。
- 寛保3年(1743年)6月7日:大目付に就任。
- 寛保4年(1744年)1月11日:薩摩国阿多郡伊作郷《現在の日置市吹上町》地頭に転じる。当時の通称は新左衛門に改名していた。
- 延享5年(1748年)1月21日:島津宗信より家老に任じられ、同時に薩摩国伊佐郡大口郷《現在の伊佐市大口地区》地頭職兼務。両方とも死去まで勤める。この任期中、通称を新左衛門から掃部、靱負の順に改める。また、職田1千石を賜る。
- 寛延元年(1748年)9月9日:宗信の江戸上府に琉球王国の尚敬王の慶賀使が同行するが、この引率を命じられ、この日、鹿児島城下を発つ。
- 同年11月11日:この日、芝藩邸に入る。また、11月15日に江戸城に登城し、将軍徳川家重に拝謁し、さらに慶賀使正使の具志川王子とともに徳川家治に拝謁。
- 寛延4年(1751年)4月15日:4月に宗信が帰藩したために江戸留守家老となり、この日に再度、徳川家重、家治親子に拝謁。
宝暦治水
1753年(宝暦3年)、徳川幕府は琉球との貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じる。工事費用は薩摩藩が全額負担、大工などの専門職人を一切雇ってはならないとした。
露骨な弾圧政策に薩摩藩は幕府への反発を極め、このまま潰されるくらいなら一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、平田が「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となる。
40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請するも許可は下りず、工事のやり直しを命じられることがしばしばあった。工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した(この時には、本来監視役のはずの徳川家からも、薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う武士が二名いたほどである)。この件に関して、平田は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理している。薩摩藩は最終的に病死33名、自殺者52名という多大な殉職者を出している。
分流工事は着工より1年3ヶ月ほどでようやく完成したが、平田は藩への多大な負担の責任を取り自害、享年50。遺体は山城国伏見の大黒寺に葬られ、遺髪は鹿児島城下の妙国寺に埋められる。藩主島津重年も心労で、後を追うように翌月に27歳で病没している。
辞世の句は「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」。
エピソード
- 鹿児島では「平田靱負」は小学校の道徳の副読本に掲載されており、その名を知らない人はいないと言っても過言ではない。また、岐阜県及び愛知県の郷土史および道徳の副読本にも宝暦治水のくだりでは中心人物として取り上げられており、知名度は高い。
- 平田靱負の屋敷のあった場所(鹿児島県鹿児島市平之町)は現在、平田公園となり平田靱負の銅像がある。命日にあたる毎年5月25日、薩摩義士頌徳慰霊祭が行われている。
- 岐阜県の海津郡(消滅)にかつて存在した平田町(現・海津市)は、平田靱負の功績に因んで付けられた町名である。その海津市平田町三郷にも平田公園があり、平田靱負の銅像がある。
- 三重県桑名市の海蔵寺には、桑名市指定史跡である薩摩義士墓所があり、宝暦治水事件で犠牲となった平田靱負ら薩摩義士が祀られ、21基の墓石が現存する。また、平田靱負像もある。
- 鹿児島県と岐阜県の姉妹県盟約、鹿児島市と大垣市の姉妹都市盟約は、この平田靱負の治水工事に端を発している。
- 遺髪は妙国寺に埋められたが、廃仏毀釈により明治の初めに妙国寺から新照院墓地に移された。さらに昭和に入って国道三号線の拡張工事に伴い、直系の子孫であった平田ハナが住む肝属郡高山町(現在の肝付町)の丸岡公園墓地へ移転。平田靱負の命日にあたる毎年5月25日には親族によって慰霊祭が行われている。
妻子
- 妻:肝付主殿兼柄の娘(母方の従姉妹。のち離婚)
- 後妻:種子島蔵人久時の娘
- 息子:平田正温、平田正香(ともに父より先に死去。詳細不明)
- 孫:平田袈裟次郎(のち平田正休)
関連項目
- 千本松原 (岐阜県)
- 輪中
- 御囲堤
- 治水神社 - 海津市海津町油島、平田ら殉職した薩摩藩士85名を祭神とする。
- ヨハニス・デ・レーケ - お雇い外国人で「木曽三川分流工事」を設計指導。
- 杉本苑子『孤愁の岸』 - 講談社文庫ほか、直木賞受賞作、度々舞台化。
- みなもと太郎『風雲児たち』 - 潮出版社版コミック、最終巻の第30巻で宝暦治水事件を描く。
- 平田弘史 劇画『薩摩義士伝』 - リイド社で新版全5巻、同社に「ワイド版風雲児たち」もある。
- その時歴史が動いた 『NHK』 - 平田靱負を主軸として宝暦治水事件を放送した。