浪江町
テンプレート:Infobox 浪江町(なみえまち)は、日本の福島県浜通り北部にある町。双葉郡(1896年以前は標葉郡)に属する。
町内東部の請戸漁港 (cf.) は、県内最東端にあたる。
2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災で被災。被害の一つとして発生した福島第一原子力発電所事故の影響を受けて、同月15日以降、仮役場が同県内の二本松市に設置され、多くの住民が移動・避難した(避難民と避難所は他にも散在)。テンプレート:See
地理
請戸川の流域を主な範囲とし、沿岸部は太平洋に面する。請戸川に沿って、国道114号が内陸部と連絡し、途中で国道399号や国道459号が分岐する。町の大動脈は太平洋に沿って走る国道6号や常磐線で、町役場も国道114号が国道6号に接続する沿岸付近にある。
山地
西に位置するものから順に列挙する。
川・谷・水系
隣接する自治体
- cf. 福島県の市町村全図 :≪外部リンク≫ テンプレート:Cite web
- 南相馬市 :北部で幅広く隣接。
- 相馬郡 飯舘村 :北部で隣接(南相馬市の西)。
- 伊達郡 川俣町 :北西部で一部隣接(飯舘村の西)。
- 二本松市 :西部でごく一部隣接(川俣町の西)。
- 田村市 :西部で一部隣接(二本松市の南)。
- 同郡内(双葉郡内)
歴史
施設誘致の歴史
1955年(昭和30年)に人口約28,000人を数えた浪江町も、過疎と財政難に悩まされ、その打開が必要であった。1960年(昭和35年)頃、福島県が原子力発電所を誘致するに当たり、浪江町も候補地となるが、同じ双葉郡の双葉町と大熊町に跨る地域に決まり、福島第一原子力発電所(東京電力)として開所する。
折りしも、1969年(昭和44年)に発足を控えていた宇宙開発事業団がロケット発射場の候補地を探しており、浪江町の方から手を挙げたものの、原子力発電所の近郊に発射場を建設するのは危険と判断され、この構想も消滅した[7]。
ロケット発射場の次は「子供の村」構想への参画を目指したが、これも頓挫した。しかし、福島第一原子力発電所建設の経済波及効果は浪江町にもあり、1970年(昭和45年)に約21,000人で底を打った人口は1970年代末には23,000人に回復し、作業員向けの宿泊施設、バー、スナックなどが建てられた[8]。
浪江町が何か誘致できる施設が無いかを調べていたところ、東北電力が浪江町と小高町(現在の南相馬市小高区)に跨る地域に原子力発電所の誘致を持ちかける。当時、東北電力は女川原子力発電所の建設計画も進めており、女川町へ原発と付随する交付金・雇用等を取られてしまうという対抗心もあって町議会は賛成するが、公害意識が芽生え始めた時期でもあり、地元の自民党支持層は分裂、自民党反対派は他党と組まず、長らく反対運動を続けることになる。1982年(昭和57年)の雑誌対談で示された概要図では原子炉は4基となっていた[9](のちの浪江・小高原子力発電所計画。こちらは2013年に中止が発表された)。上述の宿泊施設、浪江町による水道などの社会資本投資は原子力発電所建設を見越した先行投資でもあったため、1980年代末時点で17人まで減ったものの団結力を高め、予定地に共同登記をしていた反対運動による遅延は、これら商工業者に莫大な損失を強いるものとなった[10]。原子力発電所の建設が進まないなか、近隣自治体に新地発電所、原町火力発電所などが建設されていった[11]。
年表
- 近世以前
- テンプレート:Anchor元禄年間:中村藩士の半谷休閑が地元で陶土を発見し、第二次大戦後に「大堀焼」「大堀相馬焼」と呼ばれるに到る陶器を焼き始める。
- テンプレート:Anchor1898年(明治31年)8月23日:日本鉄道の磐城線(のち、常磐線に編入される)で浪江駅が開業。
- 1906年(明治39年)11月1日:日本鉄道の磐城線が全線国有化され、以後、国鉄「元日本線」と通称されるようになる。
- 1960年(昭和35年)頃:福島県が原子力発電所を誘致するに当たって浪江町も立候補する(しかしその後、双葉町と大熊町が選定地となり、福島第一原子力発電所が建設される)。
- 1967年(昭和42年)5月25日:再び、原子力発電所の誘致を決定(しかしその後、女川町が選定地となり、女川原子力発電所が建設される)[12]。
- 1969年(昭和44年):発足を控えてロケット発射場の候補地を探す宇宙開発事業団に対し、浪江町が立候補するも、原子力発電所の近隣であることを危険視されて実現せず[7]。
- テンプレート:Anchor1978年(昭和53年):昭和になって浪江町大堀で再興されていた大堀相馬焼が、国の伝統工芸品に指定される。
- 1999年(平成11年)4月17日:常磐自動車道の常磐富岡-相馬間延伸工事の一環として、浪江インターチェンジが建設着工される。
- テンプレート:Anchor2000年(平成12年)6月4日:日本テレビ系列のバラエティ番組『ザ!鉄腕!DASH!!』の企画として、「DASH村」が浪江町の西部に作られる。当時は非公表の事実であったが、のちに公表される(後述:2011年(平成23年)4月24日)。
- 2006年(平成18年)5月31日:県内の優秀な消防団に贈られる福島民報主催の「民報金ばれん」(第54回)を浪江町消防団が受賞。
- 2008年(平成20年):ご当地グルメ「浪江焼きそば」の普及をはかる浪江町商工会青年部が中心となり、団体「浪江焼麺太国」が発足。
- 2011年(平成23年)2月1日:二本松市コミュニティバスが福島交通津島線の代替運行を開始。
- 震災以降
- テンプレート:Anchor2011年(平成23年)3月11日:マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、浪江町は幾世橋地区で震度6強を観測した[13]。さらにこの地震が引き起こした大津波によって町の沿岸部は壊滅的被害を受けた。[注 1]。加えて、隣接する大熊町域で福島第一原子力発電所事故が発生し、以後、放射能漏れによって多大で長期的な影響を受けることとなった。cf. 東日本大震災。
- 3月14日:原子力事故(cf. 第1週)による放射性物質漏洩が深刻化し、同日午前に原発からの距離が半径10km圏内の全域(請戸地区等)、同日午後には浪江町東部全域が含まれる半径20km圏内[注 2]の全域に避難指示が公示される。これを受け、二本松市役所東和支所[注 3]内に仮役場(浪江町役場二本松事務所)が設置され、翌15日以降、約8千人が移動・避難した[14](避難住民と避難場所は他にも散在)。
- 3月24日:二本松市コミュニティバスが運行(福島交通津島線の代替運行)を再開。
- 4月1日:馬場有(ばば たもつ)町長らがYouTubeにて町民に声明を出す[注 4]。
- 4月9日:この時点で、死者1人、行方不明者185人[15]。
- 4月11日:原発より半径30km圏内[注 5]にある地域(西部の大部分)が計画的避難区域[注 6]に指定され、半径30km圏外にある地域([注 7]西部の一部)は緊急時避難準備区域[注 8]に指定される[16]。
- 4月14日:放射線量が低下したとして、原発より半径10km圏内の一部(浪江町では請戸地区)で福島県警による行方不明者の大規模捜索が始まる(約300人動員[注 9])[17]。
- 4月22日:原発より半径20km圏内が警戒区域に指定される[18][19]。
- テンプレート:Anchor4月24日:『ザ!鉄腕!DASH!!』が番組内でDASH村の所在地域(福島原発より半径20-30km圏内の西部某所[注 10])と被災状況等を公表する(cf. DASH村#福島第一原子力発電所事故による影響)。
- 2013年(平成25年)4月1日:避難区域が再編される。(町の山間部などが帰還困難区域に指定される)
行政区域の変遷(市町村制施行以後)
- cf. テンプレート:Cite web
- 1889年(明治22年)4月1日:村制が施行され、標葉郡浪江村(なみえむら)が成立。
- 1896年(明治29年)4月1日:標葉郡が双葉郡となる。
- 1900年(明治33年)3月1日:町制が施行され、浪江村が浪江町(なみえまち)になる。
- 1953年(昭和28年)10月10日:請戸村と幾世橋村を編入する[20]。
- 1956年(昭和31年)5月1日:大堀村・苅野村・津島村を編入する[21]。
- 1958年(昭和33年)4月1日:請戸地区に編入されていた、中野地区(旧・中野村)の全域と両竹地区(旧・両竹村[もろたけむら])の一部が、浪江町から分離し、双葉町に編入される[22]。
- 1960年(昭和35年)4月1日:請戸地区に編入されていた、中浜地区(旧・中浜村)の一部と両竹地区の一部が、浪江町から分離し、双葉町に編入される[23]。
行政
歴代町長
歴代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
馬場有[24] | 2007年(平成19年)12月16日 | <center>(現職) | 1期目。在任中、東日本大震災が発生。 |
経済
産業
水産業
工業
医薬品
産物
地域
人口
郵便
- 浪江郵便局(集配局)
- 津島郵便局(集配局)
- 請戸郵便局
- 大堀郵便局
- 苅野郵便局
- 幾世橋郵便局
- 大柿簡易郵便局
交通
空港
最寄りの空港は仙台空港。
鉄道路線
路線バス
- 浪江町営バス(JRバス東北福浪線代替バス)
- 葛尾村営バス(葛尾村 - 川房地区)
- 二本松市コミュニティバス[27]:2011年(平成23年)2月1日より、福島交通津島線の代替運行を開始。東日本大震災後、3月24日にいったん運行再開したが、同年7月までに浪江町域の運行を再度休止している。
道路
- 高速道路
- 一般国道
- 主要地方道
- 一般県道
教育
以下の各校は原発事故によりすべて避難し、町外に仮設校舎を設置している。
高等学校
中学校
- 浪江町立浪江中学校
小学校
原発事故の影響で休校中の学校
以下の各校は原発事故により休校中。
中学校
- 浪江町立浪江東中学校
- 浪江町立津島中学校
小学校
- 浪江町立苅野小学校
- 浪江町立大堀小学校
- 浪江町立幾世橋小学校
- 浪江町立請戸小学校
出身著名人
- 佐々木俊一:作曲家。1907年(明治40年)9月27日生まれ。
- 志賀信夫:放送評論家。1929年(昭和4年)10月23日生まれ。
- 常盤文克:実業家(元・花王会長)。理学者。生まれは東京都、1933年(昭和8年)11月13日生まれ。
- 田中慶秋:衆議院議員。1938年(昭和13年)3月6日生まれ。
- 原田直之:民謡歌手。1942年(昭和17年)生まれ。
脚注
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
- テンプレート:Cite web:浪江町役場臨時サイト。
- テンプレート:Cite video:YouTube(動画)。
- テンプレート:Anchorテンプレート:Cite web※ホームページが機能停止中のため、迂回してホームページ以外を表示中。
- テンプレート:Anchorテンプレート:Cite web※機能しているが、主にトップページのみかろうじて更新されている状況。
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 関連リンク-観光協会
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 7.0 7.1 恩田(1991)、45頁。
- ↑ 恩田(1991)、182頁。
- ↑ 初期の経緯については、『原子力工業』 1982年1月。
- ↑ 「第8章 凱歌」恩田(1991)、223頁。
- ↑ 恩田(1991)、223頁。
- ↑ 座談会「立地政策にもの申す」『原子力工業』 1982年1月号。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news:被災状況全図。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 同年10月9日、総理府告示第190号「町村の廃置分合」
- ↑ 同年4月30日、総理府告示第221号「町村の廃置分合」
- ↑ 同日、総理府告示第94号「町の境界変更」
- ↑ 同日、総理府告示第110号「町の境界変更」
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ エスエス製薬ホームページ「福島工場の操業停止とエスカップの生産見通しについて」http://www.ssp.co.jp/corporate/reports/20110415.html
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 2014年4月に再開
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