群馬県立前橋高等学校
群馬県立前橋高等学校(ぐんまけんりつ まえばしこうとうがっこう)は、群馬県前橋市下沖町に所在する公立高等学校。男子校。
目次
概要
通称は「前高」(マエタカ)。1877年(明治10年)の開校で、卒業生数は3万超。校訓は「質実剛健」「気宇雄大」。現在は1学年8クラス(1クラス約40名)で、3学年で24クラス、約960名の生徒(男子のみ)と、約60人の職員(他に非常勤講師、学校医等)から成る。
交通アクセス
沿革
概略
群馬県立前橋高等学校は、1877年(明治10年)9月、前橋市曲輪町の旧前橋城内に設立された公立の第17番中学利根川学校をルーツとする。その後、1879年(明治12年)6月に利根川学校を閉鎖し師範学校内に群馬県中学校を開設する。その後さらに名称、設置場所などの幾多の変遷を経て、1901年(明治34年)4月に群馬県立前橋中学校となる。その当時は、校舎は東群馬郡紅雲町分村(現在の前橋市紅雲町)に所在していた。1912年(明治45年)には、生徒定員は600名であった。1934年(昭和9年)8月には、昭和天皇の行幸に合わせて校舎を前橋市天川原町(現在は文京町)に新築・移転する。1939年(昭和14年)には、生徒定員1,000名となった。
1948年(昭和23年)、学制改革によって、群馬県立前橋中学校は群馬県立前橋高等学校と改称、改編。4年後の1952年(昭和27年)、失火により、校内建築物は講堂と体育館を除いて全焼したが、まもなく再建された。当時の校舎復興に尽力した生徒の母親達の組織が、「前橋高校母の会」として残り、PTAとは別に現在も活動中である。
子供の数の増加に伴って、定員も1956年(昭和31年)には1,200人、1964年(昭和39年)には1,350人と増加していった。1979年(昭和54年)、天川地区の区画整理事業によって校地南側の道路が拡幅されることに伴い、校庭が道路用地として大きく削られることになったため、前橋市下沖町に新築移転した。下沖の校地は天川原の校地に比べ2倍近い広さがあり、野球場と1周400メートルのグランドを別に設置している。なお、移転の際、生徒達が前橋高校の校旗を先頭として、自分の使う机を担ぎながら、文京町から下沖町まで移動した。
年表
- 1877年(明治10年)9月 - 前橋市曲輪町に、第17番中学利根川学校が設立される。
- 1879年(明治12年)6月 - 利根川学校を閉鎖し師範学校内に群馬県中学校を開設する。
- 1880年(明治13年)
- 1882年(明治15年)4月 - 旧前橋城内から南勢多郡小暮村に移転。
- 1886年(明治19年)
- 2月 - 群馬県会が中学校予算支出を否決、有志の寄付と授業料で運営される。
- 9月 - 中学校令発布により、群馬県尋常中学校となる。
- 1887年(明治20年)11月 - 東群馬郡紅雲町に新築移転。
- 1890年(明治23年) - 中学校予算全額が地方税支出に戻る。
- 1897年(明治30年)3月 - 群馬、甘楽、碓井、利根、新田、多野の6分校が置かれる。
- 1899年(明治32年)4月 - 群馬県中学校となる。
- 1900年(明治33年)4月 - 高崎(群馬)、富岡(甘楽)、太田(新田)の3分校独立に伴い、本校を群馬県前橋中学校とする。
- 1901年(明治34年)4月 - 群馬県立前橋中学校となる。安中(碓井)、藤岡(多野)の2分校独立。
- 1912年(明治45年)4月 - 沼田(利根)分校独立。
- 1933年(昭和8年)8月 - 前橋市天川原町(現:文京町)に新築移転。
- 1948年(昭和23年)
- 4月 - 学制改革に伴い、群馬県立前橋高等学校となる。
- 10月 - 定時制課程開設。
- 1952年(昭和27年)12月22日 - 失火により講堂、体育館を除いて校舎が全焼する。
- 1969年(昭和44年)3月 - 定時制課程廃止。定時制課程は群馬県立前橋第二高等学校(現:群馬県立前橋清陵高等学校)に移管。
- 1979年(昭和54年)6月9日 - 前橋市下沖町に新築移転。
部活動
前橋高校では部活動が非常に盛んである。2002年春の硬式野球部の甲子園(センバツ)出場をはじめとして、剣道部、卓球部、陸上部、軟式野球部、弓道部、山岳部などが県内で好成績を挙げており、群馬県高校総体の総合成績では、2007年度の総合成績2位を筆頭に、ここ数年は総合成績で3位以内にランクインしている。また、全国大会に出場する部も毎年複数ある。
また1978年春のセンバツ出場時には、対比叡山高校戦において松本稔投手が完全試合を達成した(春夏を通じ甲子園大会史上初)。このことは高校野球ファンのみならず全国的に有名であり、『四番、ピッチャー、背番号1』(横尾弘一著)では、松本投手のその後の歩みが取り上げられている。なお、松本稔は2007年度まで前橋高校で体育教師・野球部監督を勤め、前述のとおり本校を24年ぶりの甲子園に導いた(2008年度より群馬県立中央中等教育学校に異動)。
また、文化部の活動も盛んで、吹奏楽部をはじめ、全国の高校でも数少ない男声合唱に取り組んでいる音楽部、百人一首かるた部、書道部、美術部、演劇部、囲碁部、将棋部、マンドリンに親しんでいたことで知られるOBの萩原朔太郎にちなんで結成された歴史を持つギター・マンドリン部、テレビ番組でもその活動ぶりが紹介された、全国的にも珍しい大道芸部などがある。クイズ研究同好会や鉄道研究同好会、家庭科同好会などの同好会も存在する。
学習
1学年では、芸術(音楽・美術・書道から一つを選択)、格技(剣道・柔道から一つを選択)の選択の他は、全員が同じ教科・科目を履修する。2学年では文系と理系に分かれ、文系では全員が同じ教科・科目を履修する。理系では理科において、物理か生物のいずれか一つを選択、及び地歴科において日本史か地理のいずれか一つを選択する以外は、全員が同じ教科・科目を履修する。3学年では、文系では地歴科において、日本史または世界史6単位のいずれか一方または日本史3単位+世界史3単位(主として東京大学及び京都大学志望者向け)の3種類の中から一つを選択する。(他にも選択科目はある。)理系では2学年と同じ教科を基本的に選択するが、地歴科において、日本史及び地理の代わりに世界史を選択する者が例年数名おり、授業が開講されている。(なお、選択科目に関しての詳しいことは、前橋高校のHPを参照のこと。)この他、総合的な学習の時間もあり、1・2学年では、年間を通じて研究や調査を深め、研修旅行などの成果もふまえて、年度末に論文をまとめ、優秀な論文は論文発表会で発表されるとともに、論文集としてまとめられる。3学年では小論文執筆のための様々な学習を行う。各学年とも、自分の進路に密接に関わる調査・研究を通して学習を進めるのが特徴である。
授業は1年次から大学受験を明確に意識したものとなっている。そのため授業(65分×5コマ)の進度は速くハイレベルであり、定期試験の難易度は高い。宿題も数学などを中心にほとんど毎日課されており、週末にも週末課題と称して多くの課題が課されている。始業前や放課後には補習も行われている。さらに隔週土曜日(行事や模擬試験等の都合で隔週ではないこともある)には、土曜登校学習と称して午前中3時間の補習が行われている。夏季休業中にも、1期、2期(3年生のみ)、3期にわたってそれぞれ5日間ずつ補習が行われる。冬季休業中、春季休業中にも、1,2年生対象にそれぞれ5日間の補習が行われる。なお、夏季休業中には、志賀高原方面において学習合宿が実施され(3年生が6泊7日、1, 2年生が合同で4泊5日)、多くの生徒が参加し、1日10時間以上の学習に取り組んでいる。また、冬季休業中を中心に、冬季集中学習会と称する自学自習を行う行事が3年生において行われ、毎年多数の3年生が受験直前の実力養成に励んでいる。
行事
前橋高校における代表的な行事としては、文化祭・蛟龍(こうりょう)祭と、高崎高校との対抗スポーツ大会である定期戦、音楽三部による定期公演・優曇華(うどんげ)が挙げられる。これらの行事は、生徒が組織する実行委員会によって企画・運営がなされている。他に、年に二回行われる校内競技大会、研修旅行、修学旅行、遠足、OB講演会なども開催されている。
- 蛟龍祭 : 2年に1回、6月上旬の土日2日間で開催される文化祭である。文化部や各クラスによる展示や発表、公演の他、のど自慢、ミス・マエタカコンテスト(女装コンテスト)、ロックコンサート、仮装行列、模擬店、招待試合、バザーなどが2日間にわたって公開で行われ、近隣の他校の生徒や地域住民が多数訪れる。また、第50回からは正面玄関前に巨大なモニュメントを制作するのが習わしとなっている(これまでに作成したのは自由の女神、金閣寺、ビーグル号、浅草寺雷門)。蛟龍祭の名称は後述の凱旋歌の歌詞に由来する。
- 定期戦 : 毎年1回、9月末から10月上旬の土曜日1日がかりで、高崎高校の生徒とさまざまなスポーツ種目の対抗戦を行い、その雌雄を決するもので、その始まりは戦後間もない頃まで遡る。両校の生徒達がしばしば利根川の両岸に対峙して石投げをしていたのを、もっと平和的な対決方法を模索する中で始まったものであるという説が有力である。例年両校の生徒がどちらか一方の高校に集まって開催され、ホーム・アウェーは一年ごとに交代する。競技は両校共に部活動として存在する種目の各部に所属する者同士による部対抗(硬式野球、軟式野球、陸上、バスケットボール、バレーボール、柔道、剣道、サッカー、ラグビー、テニス、ソフトテニス、空手道、卓球、弓道)とそれ以外の生徒が出場する一般対抗(水泳、駅伝、陸上、テニス、バレーボール、バスケットボール、卓球、ソフトボール、玉入れ、綱引き、長縄跳び)とがある。勝敗は両校の一般対抗と部対抗の総合得点によって決定する。(定期戦は校外へは非公開となっている)
- 優曇華 : 毎年1回、7月中旬~下旬に前橋市民文化会館大ホール(平成22,25年度はベイシア文化ホール〈旧群馬県民会館〉大ホール)にて行われる吹奏楽部、ギター・マンドリン部、音楽部の3部による合同コンサートで、夕方から夜にかけて3時間ほどのプログラムで開催される。優曇華は公開で、例年多数の観客を集めている。かつては有料のイベントであったが、東日本大震災以降は無料での公開とし、観客から震災関連の募金を募っている。優曇華の名称は後述の応援歌の歌詞に由来する。
- 校内競技大会 :1学期の期末テスト後と、3学期の学年末テスト後に行われる、学年のクラス対抗による競技大会である。1学期末は夏季大会として、水泳、駅伝、バスケットボール、バレーボール、卓球、綱引き、玉入れ、ソフトテニス、陸上競技が行われる。この競技大会は、秋に行われる高崎高校との定期戦の選手選考も兼ねている。3学期末は春季大会として、サッカー、ソフトボール、バドミントン、柔道・剣道(1年生のみのオープン種目)等の種目が、1, 2年生において行われる。成績は夏季大会のものと合算して決定される。(校内競技大会は校外へは非公開となっている)
- 研修旅行 : 2006年(平成18年)度から修学旅行が実施されなくなり、その代替として東京方面にて1泊2日で実施された。旅行の内容は、大学の模擬授業の受講や、企業・研究所・博物館等を見学するものである。研修の成果は総合的な学習の時間におけるレポート作成に反映される。なお、2008年(平成20年)度からは、1年生で関西方面へ2泊3日で出かけ、2年生で東京方面へ日帰りで出かけるという形式に変更された。さらに、2014年(平成26年)度からは修学旅行が再開されることから、2013年(平成25年)度は1年生が2学期に東京方面へ日帰りで出かけている。
- 修学旅行:2005年(平成17年度)までは、1年生の3学期に3泊4日で修学旅行を行い、関西方面や沖縄に出かけていた(さらに以前は1年生の3学期または2年生の2学期に、4泊5日で関西方面に出かけていた)。2014年(平成26年)度からは修学旅行が復活し、2年生の2学期に3泊4日で沖縄方面に出かける。
- 遠足:以前は5~6月に実施されてきたが、2009年(平成21年)から2013年(平成25年)は10月に実施された。2014年(平成26年)からは、蛟龍祭が実施される年は10月に、実施されない年は5月に実施されることとなった。遠足と称しているが、実際は登山である。赤城山・榛名山・小野子山・子持山など県内の山に、学年毎に別々に登る。以前は尾瀬・湯ノ丸山・荒船山・野反湖・平標山などに出かけたこともあった。雨天の際は、6月実施の年は10月に延期され、10月実施の年は延期するか、群馬県内の博物館の見学などに変更される。
- OB講演会 : 前橋高等学校OBによる講演会。例年10~11月に、開校記念式典とセットで行われている。ここ数年は安部一郎(講道館柔道十段・創立130周年記念講演)、三村明夫(講演当時新日本製鐵社長)、高井健二(講演当時群馬県教育長)、宮川秀之(ジョルジェット・ジウジアーロとともにイタルデザイン社を設立)、斎藤公男(日本建築学会会長・蛟龍館の設計者)、青木哲(前本田技研工業会長)、井野修(日本野球機構審判長)らを講師として迎えている。(OB講演会は一部の来賓や保護者を除いて、校外へは非公開となっている)
過去に約8kmのコースを走る全校マラソン大会が行われていたが、ベイシア前橋モール店が学校東隣にオープンし、周辺の交通量が激増したことで安全面の問題から2000年(平成12年)度を最後に実施されなくなった。また、1997年(平成9年)まで、毎年1月に予餞会が行われてきた。これは、群馬県民会館(現在はベイシア文化ホール)、後に前橋市民文化会館で実施され、かつては芸能人を招いてのコンサート、後にはお笑い芸人等を招いてショーやコントを鑑賞する会であった。これは開校記念式典とセットで行われていたが、1998年(平成10年)より実施されなくなった。(なお、開校記念式典は毎年秋に時期を移し、OB講演会とセットで体育館で実施されている。)
施設
記念館
校内の西、正門を入って右手に位置する建物。1979年(昭和54年)の前橋市天川原町(現在は文京町)から現在の下沖町への校舎移転(後述)の際、天川原町の旧校地にあった第二体育館を移築したものである。なお、この第二体育館は、1934年(昭和9年)に校舎が紅雲町から天川原町に移転した際に建てられた生徒控所(朝礼などが行われた)で、1952年(昭和27年)に校舎が全焼した際も焼け残り、新校舎の完成までは仮教室として使用されていた。下沖町に移築後の現在では記念館と呼ばれ、卓球部の活動場所としての他、体育の授業や学年単位の集会等に使用されている。
蛟龍館
校舎の東に設置されている。昭和55年に下沖町移転に伴って、同窓生の寄付金を元に新築された(設計は同窓生の斎藤公男)。1階が学生食堂、2階が会議室兼自習室(学期中の平日は基本的に19時まで利用できる)、3階が各種文化部の活動室と部活動などの合宿のための宿泊施設として使われている。
設備
2007年(平成19年)に、県内の県立高校の中でも最も早く、教室棟の全普通教室にエアコン設備が設置された。当初は補習や模擬試験の際に運転されていたが、現在では授業時間中も運転されている。
校章と校歌・応援歌と凱旋歌
校章はアルファベットの「MAEBASHI」を図案化したものである。旧制中学校時代はその中央上に漢字の「中」を配置していたが、戦後新制の高等学校になってからは、「中」の文字を漢字の「高」に改めている。
校歌は1917年(大正7年)に、生徒の発議によって作られることとなり、初め生徒から歌詞を募ったものの秀作はなく、かつて前橋中学校に在籍し、当時は小説の執筆や民謡の作詞等で名を知られた平井晩村に依頼することとなった。平井晩村は八方から依頼されている原稿をさしおいて作詞に専念し、作曲は平井晩村の紹介で、大須賀乙字氏を通して依頼された東京音楽学校の中田章(唱歌「早春賦」の作曲で知られる。「夏の思い出」の作曲で知られる中田喜直の父)の手で為された。
校歌も校章と同じく戦後の学制改革の際に4番(最終章)の「われ等が前橋中学校」の部分が「われ等が前橋高等学校」と改められた。
応援歌と凱旋歌は、1918年(大正8年)に野球部が甲子園出場を賭けて北関東大会に出場し、決勝まで進出した際、茨城県竜ヶ崎中学校(現・竜ヶ崎第一高等学校)との決勝戦が行われる竜ヶ崎まで後輩の応援にやって来ていた前橋中学校野球部OBの屋代周二(当時東京帝国大学在学中)が、やはり応援に来ていた当時の桜田広利校長の依頼で一夜のうちに作詞したものである。メロディーは当時旧制高等学校や大学の応援団などで歌われていた応援歌等のメロディーを即席で拝借したものであると、「前橋高校百三年史」に寄せられた屋代の文にある。(この時の決勝戦では敗退して甲子園出場はならなかった)応援歌と凱旋歌の歌詞には「枚を銜みて」「優曇華」「鎧袖一触」「百錬」「降魔」「あはれ燕雀」(応援歌)「益荒男」「蛟龍遂に雨を得て」(凱旋歌)などの、和漢の古典を出典とする語が多用されているのも特徴である。なお、応援歌と凱旋歌は、制定以降ずっと口承によって受け継がれてきたが、1978年(昭和53年)に硬式野球部が春のセンバツに初出場した際に、曲は当時の音楽科教師であった永長信一によって採譜され、歌詞は鎧塚弘久ら、当時の国語科教師によって確定された。(「前橋高等学校百三年史」による)
校歌は1番より4番まであるが、野球応援の時などは1番と4番のみ歌われることが多い。式典時は全番歌われる。前中・前高同窓会総会の際は、4番の末尾の1回目は「我らが前橋中学校」、2回目は「我らが前橋高等学校」と歌われるのが習わしとなっている。新入生は、入学直後に応援団による校歌指導という伝統行事があり、校歌と応援歌、凱旋歌を覚える。当校のWEBページにて校歌(1番のみ)と応援歌、凱旋歌を試聴することができる。
文化財
- ラクウショウ[1] - 蛟龍館前に植えられている。前橋市指定天然記念物に指定されている。北米原産の落葉針葉高木で、目通り3.0m、樹高20m。星野長太郎が1893年のシカゴ万国博覧会(シカゴ・コロンブス世界博覧会)を視察した際、持ち帰った樹木の一本といわれている。
著名な出身者
- 政治家・官僚・軍人・社会運動家・革命家
- 鈴木貫太郎 - 第42代内閣総理大臣
- 田辺誠 - 第11代日本社会党委員長
- 山口鶴男 - 前日本社会党書記長・元総務庁長官
- 佐田玄一郎 - 衆議院議員。前内閣府特命担当大臣(規制改革担当)
- 宮崎岳志 - 衆議院議員。
- 木暮武太夫 - 元参議院議員、運輸大臣(第2次池田内閣)
- 内山岩太郎 - 元神奈川県知事・外交官
- 伊能芳雄 - 元群馬県知事
- 清水一郎 - 元群馬県知事
- 重原久美春 元経済協力開発機構(OECD)副事務総長
- 堤富男 - 元通商産業事務次官
- 岡崎浩巳 - 総務省総務事務次官
- 櫻井俊 - 総務省総務審議官
- 田島秀雄 - 元経企庁国民生活局審議官、元中部通商産業局長
- 鈴木孝雄 - 陸軍大将・靖國神社第四代宮司。鈴木貫太郎の弟
- 岩佐直治 - 海軍中佐、軍神。特殊潜航艇を考案し自ら真珠湾攻撃に出撃
- 東宮鉄男 - 陸軍大佐。大尉のとき張作霖爆殺を実行
- 井上日召 - 血盟団指導者
- 高畠素之 - 社会思想家。日本初の『資本論』全訳に成功
- 高木仁三郎 - 脱原発運動活動家
- 企業家
- 膳桂之助 - 旧日本団体生命保険創立者、経済安定本部総務長官
- 三村明夫 - 新日本製鐵相談役、日本鉄鋼連盟第11代会長、経団連元副会長、日本商工会議所次期会頭
- 小暮元一郎 - 元TBCグループ会長
- 滝沢建也 - M&Aコンサルティング 取締役副社長
- 青木哲 - 前本田技研工業会長、前日本自動車工業会会長
- 岩上敦宏 - アニプレックス執行役員、第2企画制作グループ代表
- 芸術家・スポーツ選手・その他有名人
- 萩原朔太郎 - 詩人、作家
- 平井晩村 - 詩人
- 萩原恭次郎 - 詩人
- 高橋元吉 - 詩人、元煥乎堂社長
- 河原侃二 - 詩人、俳優、写真家
- 礒部草丘 - 日本画家
- 浅田晃彦 - 作家、医師
- 佐藤垢石 - エッセイスト
- 鷲田旌刀 - 作家
- 南城一夫 - 画家
- 大塚保治 - 美学者。『吾輩は猫である』の登場人物・迷亭のモデルといわれる
- 高荷義之 - イラストレーター
- 小栗康平 - 映画監督
- 糸井重里 - コピーライター
- 大島保彦 - 駿台予備学校英語科講師
- 小林桂樹 - 俳優
- 天田俊明 - 俳優
- 萩原潤 - オペラ歌手(バリトン・バス)・二期会会員
- 立川談之助 - 落語家・立川談志一門・1992年真打
- 吉田慎一 - 朝日新聞元常務取締役・元編集局長・元政治部長・日本新聞協会賞受賞
- 荒木裕志 - NHK報道局編集主幹・NHK前解説主幹(政治)
- 下境博 - NHK解説主幹(財政・金融)
- 西原譲一 - NHK新潟放送局長・News Watch9 前編集長
- 生方恵一 - NHK元アナウンサー
- 渡邉卓哉 - フジテレビ元アナウンサー
- 増田和也 - テレビ東京アナウンサー
- 鈴木惣太郎 - 日本のプロ野球の生みの親
- 中利夫- 元中日ドラゴンズ外野手・監督
- 宮田征典 - 元読売ジャイアンツ投手・コーチ。スポーツキャスター。元祖「8時半の男」。
- 井野修 - プロ野球審判員(セ・リーグ審判部長)
- 松本稔 - 春夏合わせて、高校野球の甲子園史上初の完全試合を達成した投手。
- 小原玲 - 動物写真家。
- 鈴木保巳 - 元競輪選手。元競輪評論家。名選手として鳴らした福島正幸の師匠。
- 茂木淳一 - タレント・ナレーター
- 松本大 - トレイルランナー
- 学術関係
- 浦野匡彦 - 元二松學舍大学学長・日本遺族会副会長。「上毛かるた」の生みの親。
- 住谷悦治 - 第14代同志社大学総長
- 釘本久春 - 旧文部省官僚。戦後漢字の新字体と新仮名遣いの導入に尽力。中島敦の一高・東大を通じての親友
- 大熊毅 - 化学者、北海道大学大学院教授
- 野島美久 - 群馬大学大学院医学系研究科教授(群馬大学医学部附属病院 腎臓・リウマチ内科、血液内科診療科長)
- 高山清茂 - 群馬大学医学部教授、検査技術科学
- 山中昇 - 和歌山県立医科大学耳鼻咽喉科教授
- 矢部喜正 - 東邦大学医学部教授
- 斎藤公男 - 日本建築学会会長、日本大学理工学部名誉教授、『空間・構造・物語』
- 高草木光一 - 慶應義塾大学経済学部教授
- 網野武博 - 上智大学文学部社会福祉学科教授
- 斉藤栄一 - 明治学院大学文学部教授
- 今井勝人 - 武蔵大学経済学部教授、『現代日本の政府間財政関係』
- 中澤勝三 - 弘前大学人文学部教授、『アントウェルペン国際商業の世界』
- 白石昭夫 - 前橋国際大学教授
- 大島登志彦 - 高崎経済大学教授
- 田所作太郎 - 群馬大学名誉教授、『毒と薬と人生』
- 清水和夫 - 群馬大学教育学部教授
- 中井戸靖明 - 元群馬大学工学部教授
- 町田三郎 - 九州大学名誉教授、『明治の漢学者たち』
- 高橋八郎 - 元岩手大学学長
- 村中祐生 - 大正大学学長、『天台小止観をよむ 仏教の瞑想法』
- 保原充 - 名古屋大学名誉教授
- 白石英秋 - 京都大学大学院生命科学研究科准教授
- 星野愷 - 元東京工業大学教授「磁気テープの父」
- 池田均 - 獨協医科大学教授、専門領域:小児外科、小児がん(神経芽腫、肝芽腫など)
- 笠原十九司 - 都留文科大学名誉教授
- 宗教家