井上日召
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テンプレート:Infobox 人物 井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年4月12日 - 1967年3月4日)は、日本の宗教家、政治運動家、テロリスト。
日蓮宗僧侶としていわゆる近代日蓮主義運動の思想的系譜に連なり、戦前の右翼テロリスト集団「血盟団」、戦後の右翼団体「護国団」の指導者を務めた。本名は井上昭。昭の字を分けて日召とす。
出身地
略歴
- 医師の家の三男として生まれる。次兄は海軍中佐の井上二三雄。
- 旧制前橋中学利根分校を修了した後、同本校を卒業。早稲田大学・東洋協会専門学校(現:拓殖大学)をそれぞれ中退。
- 1909年 南満州鉄道入社。諜報活動等を行う。
- 1919年 兄二三雄が航空機事故で殉職。
- 1920年 帰国する。
- 1925年 護国聖社に入る
- 1928年 田中光顕の援助[1]で茨城県大洗町の日蓮宗寺院・立正護国堂の住職になる。
- その後、海軍の過激派藤井斉中尉や五・一五事件の首謀者の一人愛郷塾塾長橘孝三郎らと知り合い、暴力的改造以外に道はないと説得され同調、テロ活動を計画。
- 1932年 右翼団体血盟団結成。一人一殺の血盟団事件を引き起こし、無期懲役。
- 1940年 特赦を受けて出獄。
- 1941年 三上卓、四元義隆、菱沼五郎らと「ひもろぎ塾」を設立し近衛文麿前首相のブレーン[2]として活躍。
- 1947年 公職追放の対象となる。農村青年に講演をして廻る。
- 1953年 右翼団体維新運動関東協議会の参与に就任。
- 1954年 佐郷屋嘉昭、小島玄之らと護国団を結成し初代団長になる。
- 1956年 右翼活動から引退し、黒幕三浦義一から経済的援助を受け老後を過ごす。
- 1967年 脳軟化症のため死去。
エピソード
後の日本赤軍のリーダーの重信房子の父親は血盟団員であり、赤ん坊の房子は井上に膝に抱かれたことがあるといわれる。
著書
- 『一人一殺 - 井上日召自伝』 日本週報社 (1953)
関連項目
脚注
外部リンク
- 井上日召 近代デジタルライブラリー