松永成立
テンプレート:サッカー選手 松永 成立(まつなが しげたつ、1962年8月12日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはGK。日本代表として活躍しドーハの悲劇の際には正GKを務めていた。現在は横浜F・マリノスのGKコーチ。
目次
経歴
学生時代
静岡県浜松市で運送業を営む家庭の三人兄弟の末っ子として生まれる。当時の浜松地区はサッカーよりも野球の方が盛んであり、松永も浜松市立飯田小学校時代に入学すると野球チームに所属していた。しかし監督と対立して退部すると小学6年生からはサッカー少年団に加入し、本格的にサッカーへの道へと進んだ。なお、当時から長身であったこともあり、ゴールキーパーを務めるようになった[1]。中学校は浜松市立東部中学校へ進学。ここでもゴールキーパーを務め3年時には静岡県大会決勝まで駒を進めたが、準優勝に終わった。
高校は地元の静岡県立浜名高等学校へ進学。3年時の1980年に国民体育大会優勝を経験、高校サッカー選手権静岡県予選では決勝に進出するが、静岡県立清水東高等学校に0-2で敗れた[2]。
卒業後は愛知学院大学へ進学。1年時から正GKの座を掴むと境田雅章らと共に1982年の総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント準優勝に貢献。2年時には全日本大学選抜に選出され、同年の日韓学生定期戦に出場した。1985年にはユニバーシアード代表として勝矢寿延らと共にユニバーシアード神戸大会に出場した。
選手時代
大学卒業後の1985年に日本サッカーリーグ1部の日産自動車サッカー部へ加入。正GKの座を掴むと同年の天皇杯優勝に貢献。その後も木村和司、水沼貴史、オスカーらと共に1988-89、1989-90シーズンの2年連続三冠制覇に貢献するなど数多くのタイトルを獲得した。
日本代表としては、1987年のソウルオリンピックにおけるサッカー競技アジア予選で代表初招集。翌1989年の1990 FIFAワールドカップ予選では正GKとして全試合に出場した。その後、森下申一に正GKの座を譲るが、1992年にハンス・オフトが代表監督に就任すると再び正GKに定着。同年のダイナスティカップ、AFCアジアカップ優勝に貢献した。
翌1993年の1994 FIFAワールドカップ予選でも引き続き正GKを務め、カタールで行われた最終予選ではドーハの悲劇もあってワールドカップ出場は成らなかったものの、松永自身は第4戦の韓国戦では好セーブを見せ勝利に貢献し、マン・オブ・ザ・マッチを獲得。また最終予選終了後はベスト11に選出された。
その後、1994年にパウロ・ロベルト・ファルカンが監督に就任すると代表から外れるが、1995年に加茂周監督に代わると代表復帰。この年に代表から退くまで国際Aマッチ40試合に出場した[3]。
日産自動車の後継である横浜マリノスで不動の守護神として活躍を続け、井原正巳らと共に堅固な守備陣を形成していたが、1995年シーズン途中に監督のホルヘ・ソラリやヘッドコーチ早野宏史が若手の川口能活を正GKに抜擢すると出場機会を失うことになった。この起用を巡ってソラリ及び早野と衝突し、下位リーグであるジャパンフットボールリーグの鳥栖フューチャーズへ移籍した。松田直樹によるとミーティングは一触即発のムードで、新人だった松田は息を呑んで見守ったという。(『闘争人』P67)
1997年にジャパンフットボールリーグのブランメル仙台、同年8月に京都パープルサンガと渡り歩き、2000年に現役を引退した。松永は15年の選手生活において日本サッカーリーグ通算145試合、Jリーグ通算159試合に出場した。同年12月11日に開催されたJリーグアウォーズにおいてJリーグ功労選手として表彰された[4]。
引退後
引退後は指導者の道へ進み、古巣の京都のGKコーチに就任。2007年からは横浜F・マリノスのGKコーチに就任し、後進の指導に務めている。
人物
GKとしては180cmと大柄の部類には入らないが、シュートに対する反応の速さと基本的な技術の高さを生かした守備範囲の広さが特徴。大学時代から才能を高く評価され「将来の日本代表入り」を期待されていたが[5]若い頃はクロスボールの処理を誤りピンチを招くことも多かったという[6]。
後にGKとしての安定感を得ると旺盛な闘争心で日本を代表するGKとなった。また足元の技術にも優れ、ペナルティエリアを飛び出してリベロ的役割をこなすこともあった[7]。
エピソード
- Jリーグ初期を代表するGKであり、当時のGKユニフォームは松永だけが特注だった。
- なお、1995年にも同じ様に特注で当時着用していたユニフォームの色違い(シルバーベース)を発注したが、完成前に鳥栖フューチャーズへ移籍する事になってしまい、結局松永が着用する事は無かった。
- そのユニフォームを着て臨んだ川口能活は2失点を喫した上に、PAで相手を倒したことによるレッドカードで退場し、チームは0-3で敗れた。
- 日産、マリノスの看板選手同士である井原正巳とは無二の親友である。
- Jリーグ開幕時からの連続出場が最も長い選手であり、1994年9月3日のジェフ市原戦でパベル・ジェハークへのファウルで退場処分となるまで64試合6089分連続出場を続けてきた(なお、GK以外のフィールドプレーヤーでは堀池巧の61試合連続出場が最多)。
- 京都パープルサンガ在籍中の1999年4月7日、ナビスコカップの1回戦(対モンテディオ山形の第1戦)で、松永の蹴ったクリアボールが、そのまま相手ゴールに入り、得点となった。Jリーガーでは史上2人目の得点を決めたゴールキーパーとなった[8](1996年11月9日に初めて得点を決めた浦和の田北雄気はPKによるものであったので、PK以外によるものは松永が初めてとなる)。相手キーパーは鈴木克美。
- 中学まで野球部だったが、通っていた高校に野球部もあったが弱小チームであった。サッカー部は当時静岡県下でも1,2を争う名門チームであったため、サッカーを始めた。(なお野球部は2003年春に選抜出場を果たした)
- 週刊少年マガジンにて、塀内夏子によって半生を漫画化されたことがある。
- 実家は、市内で運送業「丸松急行」と観光バス事業「ラビット急行」を経営している。
所属クラブ
- 1978年 - 1980年 静岡県立浜名高等学校
- 1981年 - 1984年 愛知学院大学
- 1985年 - 1991年 日産自動車
- 1992年 - 1995年 横浜マリノス
- 1995年 - 1996年 鳥栖フューチャーズ
- 1997年 - 1997年8月 ブランメル仙台
- 1997年8月 - 2000年 京都パープルサンガ
個人タイトル
- 1993年 - Jリーグベストイレブン
- 2000年 - Jリーグ功労選手賞
個人成績
テンプレート:サッカー選手国内成績表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯/ナビスコ杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1985||rowspan="7"|日産||||rowspan="7"|JSL1部||15||0|||||||||||| |- |1986-87||||22||0|||||||||||| |- |1987-88||||22||0|||||||||||| |- |1988-89||||21||0|||||||||||| |- |1989-90||rowspan="3"|1||22||0||4||0|||||||| |- |1990-91||22||0||4||0|||||||| |- |1991-92||21||0||3||0|||||||| |- |1992||rowspan="4"|横浜M||-||rowspan="4"|J||colspan="2"|-||9||0||4||0||13||0 |- |1993||-||36||0||0||0||4||0||40||0 |- |1994||-||43||0||3||0||4||0||50||0 |- |1995||-||10||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||10||0 |- |1995||rowspan="2"|鳥栖F||31||rowspan="3"|旧JFL||24||0||colspan="2"|-||1||0||25||0 |- |1996||33||30||0||colspan="2"|-||3||0||33||0 |- |1997||B仙台||35||15||0||6||0||0||0||21||0 |- |1997||rowspan="4"|京都||34||rowspan="2"|J||6||0||0||0||colspan="2"|-||6||0 |- |1998||rowspan="3"|1||34||0||4||0||2||0||40||0 |- |1999||rowspan="2"|J1||30||0||3||1||2||0||35||1 |- |2000||15||0||0||0||0||0||15||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始174||0|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行125||0|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行69||0|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終368||0|||||||||||| |} その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 6試合0得点
- 1991年
- コニカカップ 7試合0得点
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 1試合0得点
代表歴
試合数
- 国際Aマッチ 40試合 0得点(1988-1995)[3]
テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |1988||1||0 |- |1989||9||0 |- |1990||0||0 |- |1991||1||0 |- |1992||9||0 |- |1993||14||0 |- |1994||0||0 |- |1995||6||0 |- !通算 |40||0 |}
指導歴
- 2001年 - 2006年 京都パープルサンガ GKコーチ
- 2007年 - 横浜F・マリノス GKコーチ
脚注
参考文献
- 「ユニバの星になれるかGKのプロフェッショナル 松永成立(日産自動車)」『イレブン』1985年10月号
- 『一歩踏み込んだ戦術とスター選手研究 - Jリーグ最強読本』二見書房、1993年
- 『トップライター10人が描いた!Jリーグ興奮本』二見書房、1994年
外部リンク
テンプレート:横浜F・マリノスのメンバー テンプレート:Jリーグベストイレブン (GK) テンプレート:Jリーグ功労選手賞
テンプレート:Navboxesテンプレート:Footybio-stub- ↑ 『イレブン』1985年10月号30-32頁
- ↑ 浜名高校サッカー部 - 昭和50年-
- ↑ 3.0 3.1 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「daihyo
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ Jリーグニュース No.68
- ↑ 『イレブン』1985年10月号30-32頁
- ↑ 『Jリーグ最強読本』34-36頁
- ↑ 『Jリーグ最強読本』34-36頁
- ↑ ちなみに松永以降にゴールキーパーがJリーグ公式戦でゴールを決めた例としては、2004年7月10日にJ2横浜FCの菅野孝憲選手がサガン鳥栖戦で自陣の左サイド後方から蹴ったフリーキックがそのまま相手ゴールに入ったものと2006年7月12日にJ2東京ヴェルディ1969の高木義成選手がベガルタ仙台戦で自陣ゴール付近から蹴ったフリーキックがそのまま相手ゴールに入ったものがある。本人は「もし、このような形でGKにゴールを決められたら選手生命は続けられないだろう」と発言している。