ロマノフ家
ロマノフ家(ロマノフけ)は、ロシア帝国を統治していた皇室(ロマノフ朝)。
紋章は双頭の鷲。
歴史
- 1613年 ミハイル・ロマノフがリューリク家のイヴァン4世の後継者として皇帝(ツァーリ)となる。皇位継承問題でスウェーデン王やポーランド王が皇位継承を主張したが、ロシア人による継承が決定し、ロマノフ朝が開始された。
- 1652年 モスクワ総主教ニーコンにより、ロシア正教会の奉神礼を同時代のギリシャ系正教会に合わせる改革が始められる。この改革以降、反発した保守派が古儀式派を形成していく。
- 1654年 ポーランド領に侵攻。ポーランドでは、「大洪水時代」と呼ばれ、北東ヨーロッパでは、北方戦争の時代に入る。
- 1682年 ピョートル1世即位、ただしイヴァン5世と共同統治。
- 1689年 ピョートル1世、イヴァン5世を廃し単独即位。
- 1697年 カムチャツカ半島を領有。シベリア遠征の終了。
- 1700年 大北方戦争( - 1721年)。
- 1712年 ピョートル1世、帝都をモスクワからサンクトペテルブルクに遷都する。
- 1721年 大北方戦争に勝利したピョートル1世、元老院から戴冠され、大帝となる。
- 1721年 ピョートル1世により、モスクワ総主教庁が廃止される。代わって俗人の統括する聖務会院が置かれロシア正教会を統括。ツァーリによる教会統制の完成。
- 1755年 エリザヴェータ女帝、モスクワにモスクワ大学を建てる。
- 1762年 エカチェリーナ2世即位。啓蒙主義をとる。
- 1772年 ポーランド分割開始( - 1795年)。
- 1780年 エカチェリーナ2世による武装中立同盟。アメリカ独立革命。
- 1801年 アレクサンドル1世即位。
- 1811年 アレクサンドル1世がナポレオン1世の大陸封鎖令を拒否。翌年ロシア遠征。
- 1815年 ナポレオン戦争に勝利。ウィーン体制。
- 1825年 デカブリストの乱。
- 1853年 クリミア戦争( - 1856年)。
- 1861年 アレクサンドル2世が農奴解放令発布。
- 1878年 露土戦争でオスマン帝国に勝利。バルカン半島の覇権を握る。
- 1881年 アレクサンドル2世暗殺。
- 1891年 ニコライ皇太子(後のニコライ2世)、日本で襲われる(大津事件)。
- 1905年 1905年革命、血の日曜日事件起きる。
- 1914年 第一次世界大戦勃発。連合国側に参戦。
- 1917年 ロシア革命勃発。ニコライ2世退位。ロマノフ朝滅亡。
- 1918年 革命軍により逮捕。皇帝一家銃殺され皇室断絶。
- 2008年 ロシア連邦最高裁判所、ロマノフ家の名誉回復を認める。
実態
ロマノフ家は、古くからロシア帝国に於ける有力貴族であったというが明らかではない。一説によるとこの家系のロシアにおける起源は、13世紀にプロイセン地方でドイツ騎士団による残酷な攻撃から逃れてロシアの地にたどり着いた古プロイセン人のグランダ・カンビラ(Glanda Kambila)という名の公であったと言われる。ただし、明らかであるとされている先祖は14世紀にモスクワ大公のセミョーンに仕えていたアンドレイ・カビラ(Andrei Kobyla)という低位の貴族で、カビラという姓はロバの意味であり、カビラ家はみな馬やその他の家畜にちなんだあだ名をつけられていることからモスクワ大公家の馬丁の家系であったという推測がされている。ミハイル・ロマノフの祖父ニキータ・ユーリエフ=ザハーリンの代にモスクワ大公にして「全ルーシのツァーリ」だったリューリク家の外戚になった。イヴァン4世(雷帝)死後、リューリク家断絶によるロシアの混迷(動乱時代)、ことに帝都モスクワを占領したポーランドを撃退したことで、1613年ロシアの有力貴族によってツァーリに推戴された。
帝政初期は有力貴族によって政治を牛耳られたが、第2代ツァーリ・アレクセイによって帝権が確立する。1666年のニーコン総主教追放がその顕著なしるしとなった。主な財源は征服地シベリアからの毛皮・木材の貿易、中央アジアの植民地化による市場確保であった。ロマノフ家の経済力はハプスブルク家を超えているとも言われ、世界一の大富豪でもあった。
また、この時代は皇帝による支配が安定した時期であり、それまでロシアの政治を担ってきた貴族階級が没落した時代でもあった(絶対君主制)。なおロマノフ家の嫡系はピョートル2世の代で絶え、1762年にホルシュタイン=ゴットルプ家から迎えられた外孫のピョートル3世が皇位を継承している。ピョートル3世の皇后であったが夫を廃して自ら即位したエカチェリーナ2世も生粋のドイツ人であり、以後もロシアの皇室はドイツの血統が濃密となった(後にドイツ人との婚姻で、皇室に影を落とす血友病もロマノフ家に流入した)。
ピョートル大帝の時代以降、ロシアではスラヴ派と西欧派がしのぎを削り、それがツァーリの親政にも影響を及ぼした。歴代皇帝の政策は、主に不凍港の確保と南下政策であったが、19世紀に欧州列強として台頭すると、ロシア帝国も帝国主義化し、植民地主義を標榜するようになった。特にバルカン半島に対する民族主義を掲げ、汎スラヴ主義を推し進めた。これはオーストリア・ハンガリー帝国との対立を招き、第一次世界大戦の原因ともなった。一方、帝国内では領土拡張によって内部に数多くの少数民族を抱え、民族問題を抱え込むこととなった(ロシアのくびき)。
この様な中でツァーリの親政にも限界が及び、1881年にはナロードニキによるアレクサンドル2世の暗殺事件が起きている。1905年には血の日曜日事件が起き、皇帝ニコライ2世は改革に踏み切ったが、既に時機を逸していた。これ以降、帝国内は混迷の時代を迎え、ロシア帝国の最終章を迎えるのである。
2007年、ロシア国民の一部がロマノフ王朝の皇帝(ツァーリ)復活を望んでいる事との報道がなされたとされるテンプレート:要出典。(ロマノフ家の末裔の皇帝即位に賛成が35%、反対が7%)。理由は現在のロシアの格差社会の広がりが問題と言われている。2008年10月1日、ロシア最高裁判所はロマノフ家をボリシェビキ政権による弾圧の犠牲者であったとして正式に名誉を回復させた。
歴代当主(歴代ロシア皇帝)
- ミハイル
- アレクセイ
- フョードル3世
- イヴァン5世
- ピョートル1世
- エカチェリーナ1世
- ピョートル2世
- アンナ
- イヴァン6世
- エリザヴェータ
- ピョートル3世
- エカチェリーナ2世
- パーヴェル1世
- アレクサンドル1世
- ニコライ1世
- アレクサンドル2世
- アレクサンドル3世
- ニコライ2世
ロシア革命以後のロマノフ家当主
現当主ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフは、アレクサンドル3世の弟ウラジーミル大公の家系である。
- ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公(1847年 - 1909年)
- アレクサンドル2世の三男。ロシア革命以前に没しており、帝位を請求したことはない。
- キリル・ウラジーミロヴィチ・ロマノフ(1876年 - 1938年)
- ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフ(1917年 - 1992年)
- キリルの息子。
- マリア・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァ(1953年 - )
- ウラジーミルの娘。夫はミハイル・パヴロヴィチ(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の曾孫フランツ・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン)
- ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフ(1981年 - )
- マリアとフランツの間の息子。ロシア皇帝位継承権第1位であると共に、ドイツ皇帝位およびプロイセン王位継承権第8位である。
関連作品
アナスタシア・ニコラエヴナ#関連作品、及びマリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)#関連作品も参照の事。
- ドキュメンタリー『葬られた歴史の真相』シリーズ 第5回『ロマノフ王家』(ナショナルジオグラフィックチャンネル)
- ドキュメンタリー『栗原小巻のロマノフ王朝紀行』全3回(NHK、1995年)
関連文献
- 土肥恒之 『よみがえるロマノフ家』(講談社選書メチエ 2005年)
- 土肥恒之 『ロシア・ロマノフ王朝の大地』(興亡の世界史14 講談社、2007年)
- 土肥恒之 『図説帝政ロシア 光と闇の200年』(ふくろうの本、河出書房新社、2009年)
関連項目
外部リンク
- The Romanovs Today About the Romanov Family Association.
- Romanov Family Album - From "The Beinecke Rare Book and Manuscript Library", a collection of family photographs.
- Genealogy of the Imperial House of Russia (Requires Java)
- The Russian Imperial Succession Supports the claims of the descendants of the Grand Duke Kirill.
- The Romanovs: Their Empire, Their Books, New York Public Library.en:Romanov